九州王朝(倭国)一覧

第2392話 2021/02/26

「蝦夷国」を考究する(9)

 ―「評制」時代の蝦夷国―

 蝦夷国と倭国(九州王朝)の関係は時代と共に変化していることを『日本書紀』等を史料根拠に説明し、多利思北孤の時代を含む六世紀後半から七世紀前半頃の両国は比較的安定した関係にあったとしました。今回は「評制」の時代、七世紀後半の両国関係について検討します。

 七世紀後半には木簡の出土量が飛躍的に増えますから、『日本書紀』だけではなく、木簡を主要史料として蝦夷国研究をすることが可能となります。幸いにも飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑地遺跡・他)と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、そのなかには350点ほどの評制時代の荷札木簡(注①)がありますので、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。すなわち、九州王朝時代の七世紀後半、〝近畿天皇家の宮殿〟(注②)に産物を献上した諸国・諸評がわかるという、同時代史料群が当地にはあるのです。これを九州王朝や蝦夷国の研究に使用しない手はありません。
この全数調査結果は別途「洛中洛外日記」にて、主観を交えない客観的データベースとして報告し、読者の皆さんが研究に利用できるようにしたいと考えています。

 今回の蝦夷国研究に関わる所見として、飛鳥宮地域や藤原宮(京)へ諸国から持ち込まれた評制下木簡の二つの事実に注目しています。一つは以前にも指摘しましたが(注③)、九州(西海道)諸国からの荷札木簡が出土していない。二つは陸奥国・越後国からの荷札木簡も出土していないということです(注④)。すなわち、七世紀後半という時間帯において、倭国(九州王朝)の直轄領域である九州島と蝦夷国の領域と思われる陸奥国・越後国からは飛鳥宮や藤原宮へ産物が献上された痕跡がないのです。このことが何を意味しているのか、検討が必要ですが、王朝交代直前の大和の勢力と蝦夷国が〝疎遠〟だったのかもしれません。

 なお、九州島と蝦夷国とでは基本的な事情が異なると思われます。すなわち、太宰府からは九州内の「評」木簡(注⑤)が出土しており、九州で評制が施行されていたことが確実ですが、蝦夷国(陸奥国)内では評制が採用されていたのかどうか、出土木簡からは判断できません。倭国(九州王朝)と蝦夷国は別国ですから、蝦夷国が倭国の評制を採用していたとは考えにくいように思います。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
②王朝交代に至る一時期、藤原宮や飛鳥宮に九州王朝の天子がいたとする作業仮説が西村秀己氏等から出されていることもあり、本稿では「〝近畿天皇家の宮殿〟」という〝〟付き表記を使用した。
③古賀達也「洛中洛外日記」123話〝藤原宮の「評」木簡〟(2007/02/25)
古賀達也「藤原宮出土木簡の考察」(『古田史学会報』80号、2007年6月)
④上記①によれば、越前国・越中国からの荷札木簡は飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑地遺構から出土している。
⑤「久須評大伴マ」木簡が大宰府跡から出土している。


第2391話 2021/02/25

「蝦夷国」を考究する(8)

 ―多利思北孤の時代の蝦夷国―

 蝦夷国と倭国(九州王朝)の関係は時代と共に変化していることが『日本書紀』の記事から見えてきます。その初期の頃の様子が、「日本武尊」(実は九州王朝の東山道軍)による蝦夷(日高見國)征討譚として、次の景行紀に現れます。時代的には五世紀頃ではと、わたしは推定しています。

○『日本書紀』景行四十年是歳条
 蝦夷国既に平らけて、日高見國より還りて、西南、常陸を歴(へ)、甲斐國に至りて、酒折宮に居(ま)します。

 このように倭国(九州王朝)と蝦夷国は戦争状態になったのですが、六世紀後半頃までには一定の安定した〝主従関係〟になったと思われる記事が次の敏達紀に突然のように現れます。

○『日本書紀』敏達十年(581年)閏二月条
 十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
 是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり。〕詔(みことのり)して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
 是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境付近で蝦夷の暴動が発生したというものです。二段目は、倭国の天子が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を呼びつけて、「大足彦天皇(景行)」の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝します。そして三段目では、綾糟等は詫びて、これまで通り「臣」として服従することを盟約する、というものです。
 いわば、国境紛争解決の外交記事ともいうべき内容ですが、ここで注目されるのが、綾糟らは自らを倭国(九州王朝)の「臣」と称し、そのことを『日本書紀』は記述したという史料事実です。すなわち、倭国(九州王朝)と蝦夷国は、「天子(天皇)」とその「臣」という形式をとっていることを現しています。これは倭国(九州王朝)を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していたのではないでしょうか。その根拠として、斉明紀に次の記事がみえます。

○『日本書紀』斉明元年七月条(655年) ※〈〉内は細注。
 難波朝に於いて、北〈北は越ぞ〉の蝦夷九十九人、東〈東は陸奥ぞ〉の蝦夷九十五人に饗(あへ)たまふ。併せて百済の調使一百五十人に設(あへ)たまふ。仍(なほ)、柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
 秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。……
 伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。(後略)」……

 斉明元年条の記事によれば、倭国の都(複都の一つ)〝前期難波宮〟で蝦夷や百済からの使者を饗応しており、同五年条では唐の天子に対して、倭国の使者が「今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す」と、蝦夷国が倭国に毎年朝貢していると述べています。
 これらの記事から六世紀頃から七世紀中頃までは、倭国(九州王朝)と蝦夷国(熟蝦夷)とは冊封体制下の主従関係にあり、比較的平和な関係が続いていたと思われます。このことを支持する国外史料に『隋書』俀国伝があります。同伝には次の記事があります。

○『隋書』俀国伝
 …其國境東西五月行南北三月行各至於海。(其の國の境、東西は五月行。南北は三月行。それぞれ海に至る。)
 …雖有兵無征戰。(兵有れども征戰無し)

 古田先生は「東西五月行」「南北三月行」という国の領域を、筑紫から本州(東北地方を含む)までと、対馬・壱岐・筑紫から琉球方面に至る範囲とされました(注)。そうであれば東北地方(蝦夷国)や南方の島国(屋久島・種子島・奄美大島・沖縄など)も自国の領域と認識していたことになり、その前提の一つとして蝦夷国との冊封体制という関係があったのではないでしょうか。
 また、「征戰無し」とあることから、これらの領域の国々と平和裏に共存していたと考えざるを得ません。
 こうした『隋書』の記事からも、九州王朝の天子・阿毎多利思北孤の時代(在位:589~622年)の倭国(九州王朝)と蝦夷国との比較的平和な関係をうかがい知ることができます。(つづく)

(注)古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房から復刊。


第2386話 2021/02/20

「蝦夷国」を考究する(6)

 ―蝦夷国の旧名「日高見国」―

 『日本書紀』景行紀に「蝦夷」記事が多いことを紹介しましたが、その内容について少し説明します。『日本書紀』の「蝦夷」初見は次の景行二七年二月条の記事です。

○『日本書紀』景行二七年二月条
 二十七年の春二月の辛丑の朔壬子に、武内宿禰、東國より還りて奏(もう)して言う、「東夷の中に、日高見國有り。其の國の人、男女並に椎結(かみをわ)け文身し、爲人(ひととなり)勇み悍(こわ)し。是(これ)を總べて蝦夷と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」とまうす。

 蝦夷の国(日高見国)が広く豊饒の地であるから、「撃ちて取りつべし」というのも露骨で非道な話ですが、『日本書紀』は武内宿禰の報告として記しています。この会話の存在が事実であれば、それは九州王朝内でのことと思われますが、これだけでは隣国侵略の大義名分にはなりません。そこで、同四十年六月条に次の記事が唐突に現れます。

○『日本書紀』景行四十年六月条
 四十年の夏六月に、東夷多いに叛(そむ)きて、邊境騒動す。

 この翌月、景行は次のように群卿に問います。

○『日本書紀』景行四十年七月条
 天皇、群卿に詔して曰く、「今東國安からずして、暴(あら)ぶる神多く起こる。亦蝦夷悉く叛きて屡(しばしば)人民を略(かす)む。誰人を遣わしてか其の亂を平らけむ。」とのたまふ。

 その結果、日本武尊が蝦夷征討に向かうことになります。ここで学問的に問題となるのが、この蝦夷征討記事の実年代はいつ頃なのかということと、本来の伝承として九州王朝の誰が蝦夷征討に向かったのかということです。景行四十年は『日本書紀』紀年では西暦110年になります。九州王朝の倭王武の伝承であるとすれば五世紀後半頃になります。このことについては後で触れます。
 この一連の『日本書紀』の記事でわたしが最も注目するのが、蝦夷の国が「日高見国」と呼ばれていることです。この国名は先の景行二七年の武内宿禰の報告と景行四十年是歳条に見えます。

○『日本書紀』景行四十年是歳条
 蝦夷国既に平らけて、日高見國より還りて、西南、常陸を歴(へ)、甲斐國に至りて、酒折宮に居(ま)します。

 この蝦夷征討からの帰還記事によれば、日高見国は常陸の東北にあることがわかります。ただし、その領域がどの範囲に及ぶかは不明です。なお、景行紀には日本武尊の関東・東北征討譚が延々と記されるのですが、この景行四十年「是歳」条には突然のように日本武尊のことを「王」と表記する例が増えます。この傾向は日本武尊が尾張に帰還するとなくなります。恐らく、ここで日本武尊の事績として記された景行四十年是歳条の記事は、東北・関東から信濃にかけてを征討した「王」と呼ばれる人物の記事が『日本書紀』に転用されたものと思われます(注②)。
 その「王」の有力候補として、景行五五年条に東山道十五國の都督に任命された彦狭嶋王がいます。この人物であれば文字通り「王」と呼ばれるにふさわしいと思います。

○『日本書紀』景行五五年条
 彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。

 もう一つの可能性として、『常陸国風土記』に登場する「倭武天皇」がいます。古田先生もこの「倭武天皇」とは九州王朝(倭国)の倭王武のことではないかともされています。もしかすると、彦狭嶋王と倭王武の両者の征討譚が転用されたという可能性もあるかもしれません。
 以上のように、『日本書紀』景行紀の史料批判により、蝦夷国の旧名「日高見国」が歴史上に現れ、その国を征討した九州王朝(倭国)側の人物として、彦狭嶋王と倭王武が有力候補として浮上しました。
 なお、蝦夷国と関係するかはわかりませんが、祝詞「六月の晦(つごもり)の大祓(おほはらへ)」に見える「日高見之国」について、古田先生は対馬北部の国名とされ、天孫降臨後は筑紫内の国名「大倭日高見之国」になったとする説を発表されています(注③)。また、「日高見国」研究史については、菊池栄吾さん(古田史学の会・仙台)の著書『日高見の源流 ―その姿を探求する』(注④)を参考にさせていただきました。(つづく)

(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②古田先生は『古代は輝いていた Ⅱ』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刊)において、日本武尊の関東征討譚は「常陸の王者」「関東統一の王者」「その他(九州王朝の王者など)」による事績の転用とされている。
③古田武彦『まぼろしの祝詞誕生』新泉社、1988年。
④菊池栄吾『日高見の源流 ―その姿を探求する』イー・ピックス出版、2011年。


第2385話 2021/02/19

「蝦夷国」を考究する(5)

 ―『日本書紀』の〝蝦夷記事〟―

 〝失われた蝦夷国〟研究のために、多賀城碑を含む考古学的史料と『日本書紀』の記述をとりあえず文献史料として使用せざるを得ないと考えていますが、『日本書紀』に見える〝蝦夷記事〟の分析やその分布調査により、蝦夷国の歴史的位置づけが見えてきます。高橋崇さんの『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』(注①)によれば、『日本書紀』中の蝦夷記事の分布は次のようです。

《『日本書紀』の蝦夷・蝦蛦の使用例》(同書13頁)
    「蝦夷」 「蝦蛦」
景行紀  14
応神紀   2
仁徳紀   4
雄略紀   3
清寧紀   1
欽明紀   1
敏達紀   3
崇峻紀   1
舒明紀   5
皇極紀       3
孝徳紀   1   2
斉明紀  25   6
天智紀       1
天武紀   1   1
持統紀   6   1

 このような分布を示しているのですが、景行紀に多いのは日本武尊による蝦夷征討譚がおかれていることによります。斉明紀に更に多いのは、遣唐使に蝦夷国使が随行した記事と阿倍比羅夫らによる日本海側の蝦夷遠征記事が多いことによります。
 ちなみに九州王朝説によれば、これらの蝦夷記事は九州王朝(倭国)と蝦夷国による外交や戦闘記事が近畿天皇家の事績として『日本書紀』に転用されたものと考えなければなりません。従って、九州王朝と蝦夷国との関係は「景行紀」の時代になって本格的に始まったと考えてもよいと思います。
 そこで思い起こされるのが、景行紀にみえる次の記事についての山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の研究(注②)です。

○『日本書紀』景行五五年条
 彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。

 山田さんは、「東山道十五國」が九州王朝の都太宰府を起点とした国数であることを明らかにされたのですが、東山道都督として彦狭嶋王は東山道軍(九州王朝陸軍)を率いて、蝦夷国へ侵攻したのではないでしょうか。
 さらに「崇峻紀」の時代には、東山道軍だけではなく、東海道軍(九州王朝水軍・陸軍)も東へ東へと進軍し、蝦夷国へ圧力をかけ続けたものと思われます。

○崇峻二年七月条(589年)
 二年の秋七月の壬辰の朔に、近江臣満を東山道の使に遣して、蝦夷の國の境を觀(み)しむ。宍人臣鴈(かり)を東海道の使に遣して、東の方の海に濱(そ)へる諸国の境を觀しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国を觀しむ。

 このように『日本書紀』によれば、東山道・東海道は蝦夷国への国交ルートであり、侵略ルートであったわけです。この蝦夷国へ向かう両官道は、王朝交代後の大和朝廷(日本国)の時代になると、さらに大規模な侵略ルートと化していきます。(つづく)

(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」(『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編・明石書店、2018年)
 山田春廣「東山道都督は軍事機関」(同上)


第2378話 2021/02/12

能楽「綾鼓」の発祥地、朝倉市

 一昨日、京都府立図書館を訪れ、取り寄せていただいた『朝倉風土記』(注①)を閲覧しました。同書を見てわかったのですが、著書というよりも編著書という性格のものでした。内容は、筑前の地誌の朝倉に関係する部分の引用と著者の補注などからなっており、そのことが同書冒頭の「全巻の構成」に記されています。

 「本文は
 明治維新前に編纂された郷土資料の文献
 ▲朝倉紀聞 古賀高重編 元禄七年(西暦一六九四年) (本書は上座郡のみ記載)
 ◉筑前国続風土記 貝原益軒編 元禄十六年(西暦一七〇三年)
 ○筑前国続風土記附録 加藤一純・鷹取周成編 寛政十年(西暦一七九八年)
 ◇筑前国続風土記拾遺 青柳種信編 文政十三年(西暦一八三〇年) (夜須郡の秋月領分を欠く)
 △太宰管内志 伊藤常足編 天保十二年(西暦一八四一年)
の五書を、各固有村別、事項別に分別対比して載録した。続風・管内の二書は刊本により、紀聞・附録・拾遺の三書は写本によった。」

 このような説明があるのですが、わたしは『朝倉紀聞』以外の四書は持っていますので、その四書の引用記事は既に読んだ記憶がありました。そこで、『朝倉紀聞』からの引用部分を中心に精査しました。その結果、いくつか興味深い記事を見つけましたので、その一つ、「天智天皇の宮人源太」の伝承を紹介します。
 同書「宮野村篇 須川村」の項に次の記事がみえます。

 「源太塚 上須川にあり。里諺に曰。天智天皇の宮人と云し者、桂の池に身を沈め死す。其霊魂、暫く散せずして、此塚穴に形を現し、人に仇せり。故に号けて源太塚と云。昔、行脚の僧、入地の桂池に至て吟詠して曰。曽比鉄牛皇后心、空教源太至冥沈、声明身後異綾鼓、載在口碑古今と。古歌に、
  小山田の苗代水は絶へずとも
    心の池のいひは放たじ
此歌は源太が読むと云。此事、綾鼓と云謡にも見へたり。(紀聞)」25頁
 「○カミスガワ小塚〔穴の口四尺、入二間、中に隔あり〕村民は源太塚といふ。(附録)」25頁
 「◇源太塚 上須川に在。石窟なり。入五間、中に隔あり。此塚の事、南淋寺縁起、朝倉紀聞等に怪説あり。いたつかはしければ漏しつ。(拾遺)」25~26頁

 「大福村篇 入地村」の項にも次の記事がみえます。

 「恋木社 福成神社の東四町斗に有り。里民の俗説に曰く、天智天皇の寵妃橘媛女御、天皇と共に桂の池に御遊有り。時に御庭掃の源太と云る老人、女御を恋慕す。橘媛、聞て、官人をして老人に語しめて曰るは彼池の桂木に鼓を掛置くべし。老人来て是を撃て。其音出し時、必相見んと有しかば、老人、大に悦て、終夜打とも其音出ず。夜明て是を見るに、綾を以て製せし鼓也。故に鳴事なし。老人悲み恨て、終に此池に身を投て死す。其後、老人が霊魂散ぜずして、時々現て人を悩す。女御も又狂気し給ひ、終に桂池に沈みて失給ふ。是に社を立て、恋の木社と云。福成の本社の祭礼の日、酒饌を供て是を祭る。(紀聞)」66頁
 「◇古墓 恋の木といふ池にあり。源太といふ者の霊を祭るといふ。朝倉記に、天智帝の時、下部源太といふ者の事績を載たり。妄説にして取にたらず。(拾遺)」66頁

 以上の伝承が記されていますが、「此事、綾鼓と云謡にも見へたり。(紀聞)」とあるように、これは能楽の「綾鼓(あやのつづみ)」とほぼ同じ内容です。能楽「綾鼓」は筑前の木の丸殿が舞台とされており、恐らくは「天智天皇伝承」として伝えられたものと思われます。『朝倉風土記』で紹介された伝承では、主役の老人は天智天皇の宮人(御庭番)の「源太」、女御を「橘媛」(注②)と具体的な名前を伝えており、この伝承が能楽「綾鼓」の原型と思われます。
 他方、筑前黒田藩の地誌『筑前国続風土記拾遺』では、同伝承の紹介はするものの、「怪説」「妄説」として退けています。本来は天智天皇ではなく、九州王朝の天子とその御庭番「源太」に関わる伝承が本来の姿と思います。
 参考までに、能楽「綾鼓」に関するウィキペディアの解説を転載します。作者不明ということにも、この伝承の古さを感じます。

追記 本稿執筆直後、能楽「綾鼓」について、九州王朝の都、太宰府が舞台であったとする説を既に正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が講演会で発表されていたことを知りました。謡曲や能楽に堪能な正木さんならではの先見性です。

【以下、転載】
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『綾鼓』(あやのつづみ)は、能楽作品のひとつである。作者は不明だが、少なくとも世阿弥かそれより以前に創作された執心男物の作品である。室町時代に上演記録は無く、江戸時代の後期以降に宝生流が上演し、明治時代になると金剛流も正式に所演曲とした。

《あらすじ》
 筑前国の木の丸の皇居に仕えている臣下の者がいる。そこには桂の池と言う大きな池があり、管弦楽が催されている。そこで臣下の者が言うには、庭掃きをしている老人が女御の姿を見て心乱すほどの恋に落ちてしまったという。それを知った女御は不憫に思い、桂の木に鼓を掛けて老人に打たせ、音が皇居に届けば姿を見せようと言われたので、そのことを臣下は老人に伝えた。老人は、この鼓の音を鳴らせばそれが恋心の慰めになると思い打つが、音は鳴らない。老人はこの年で心を乱すような恋をしたはかなさを思いつつも、思っている方が忘れようとするよりも良いと思うのであった。人間はいつどうなるかなどわからないものであり誰も教えてくれはしないけれど、もしわかれば恋に迷う事などなかったであろうと思いつつも、鼓の音が出れば心の闇も晴れると思い昨日も今日も打ち続けるが音は出ない。鳴る神でさえ思う仲を裂けぬと聞くのに、それほどまでに縁がなかったのだろうかと我が身を恨み人を恨み、もう何のために生きているのかわからないと思い、憂うる身を池に投げて死んでしまった。
 それを聞いた臣下は、女御に老人が身を投げた事を告げ、このような者の執心は恐ろしいゆえ池に出てご覧下さいと言う。女御が池に出てみると池の波の打つ音が鼓の音に聞こえてきた。臣下は女御が普通ではないと思ったが、女御は、そもそも綾の鼓は音が出るはずが無く、その鳴らないものを打てと言ったときから普通ではないのですと言い、なおも鼓の音が聞こえてくるのである。そして怨霊となった老人が現れ、愚かなる怨みと嘆きであるが、この強い怒りは晴れるものではないと言い、ついに魔境の鬼となってしまったのだという。そして鳴らない鼓の音を出せとは、恋の思いを尽くさせて果てよという事だったのかと女御を責めた。この鼓が鳴るはずがない、打ってみなさいと笞をふりあげて女御に迫り、女御は悲しいと叫ぶのであった。冥途の鬼の責めもこのようなものかと、それでもこれほどの恐ろしさでは無いと思える程の恐ろしさであり、因果とはいえどのようになってしまうのでしょうと言った。怨霊は、このように因果ははっきりと現れるものだと言った。そして女御に祟り笞で打ち据えるうちに池の水は凍り、大紅蓮地獄のようになり、身の毛もよだつ悪蛇となって現れているという。そうして恨めしい、なんと恨めしい女御だと言いながら、恋の淵のように深い池に入って行った。

《登場人物》
前シテ 老人
後シテ 老人の怨霊
ツレ 女御
ワキ 臣下
アイ 従者

《作者・典拠》
 世阿弥の『三道』に「恋重荷、昔、綾の太鼓なり」とあることから、この「綾の太鼓」が『綾鼓』そのものとする説がある。一方で「綾の太鼓」という古曲を改訂して『綾鼓』になったという説もある。いずれにしても作者は不明である。なお、世阿弥が改作をしている。また、『恋重荷』は世阿弥作とされているので、少なくともそれ以前に作られた曲であるのは間違いないと言われている。

(注)
①古賀益城著『朝倉風土記』昭和59年(1984)、聚海書林。昭和39年(1964)に朝倉郡公民舘連合会から非売品として発行されている。この度、朝倉市図書館蔵書を取り寄せていただいた。
②『日本書紀』天智七年二月条に天智の妃の一人として、「阿倍倉梯麻呂大臣の女有り、橘娘と曰ふ。飛鳥皇女と新田部皇女とを生めり。」の記事がみえる。


第2371話 2021/02/07

肥沼孝治さん、

  国分寺「古式」「新式」分類を発表

 今回は古田史学の会・会員の活躍を報告させて頂きます。
多元的「国分寺」研究サークルを主宰されている所沢市の会員、肥沼孝治さんのブログ〝肥さんの夢ブログ〟2021年2月5日(金)で、〝塔を回廊内に建てた「古式」の国分寺からは、白鳳瓦が出土〟が発表されました。それは、七世紀建立の九州王朝の国分寺(国府寺)遺跡と8世以降に建立された大和朝廷の国分寺遺跡を遺構様式により分類するという研究報告と同全国分布図です。
同研究によれば、国分寺遺跡には「塔を回廊の内に置く古式の伽藍配置の国分寺」と「塔を回廊の外に置く新しい形式の伽藍配置の国分寺」の二種類があり、前者を九州王朝国分寺、後者を大和朝廷国分寺とされています。肥沼さんが色分け作図された日本全国分布図を見ると、九州島内と東山道諸国に「古式」が分布しているようです。九州王朝国分寺と大和朝廷国分寺の両遺跡が出土するケース(摂津、大和など)もあるようですから、今後の研究で、より精緻な分布図に発展するものと期待しています。以下、転載します。

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2021/02/post-5f740f.html?cid=143070320#comment-143070320&_ga=2.232995934.1759697888.1612656592-1648180619.1607160759
前に登場した「伊予国分寺と白鳳瓦」から、大きく分けて「古式」と「新式」の2種類があることを使わせてもらい、九州王朝の「国分寺」が7世紀半ばにはすでに存在し、その8世紀半ばになって741年の「国分寺建立の詔」(聖武天皇)が出され、その内容は「七重塔を加える」という意味であったことを確認したい。

●「塔を回廊の内に置く古式の伽藍配置の国分寺」 十八国
西海道―筑前国、筑後国、肥前国、豊後国、肥後国、薩摩国
南海道―伊予国、讃岐国、紀伊国
山陽道―備後国、備中国
山陰道―丹波国
畿内―なし
東海道―甲斐国、相模国、上総国、下総国
東山道―美濃国
北陸道―能登国

●「塔を回廊の外に置く新しい形式の伽藍配置の国分寺」 三十三国
西海道―なし
南海道―淡路国、阿波国、土佐国
山陽道―播磨国、美作国、備前国、安芸国、周防国、長門国
山陰道―丹後国、但馬国、因幡国、伯耆国、出雲国
畿内―山城国、大和国、河内国、和泉国
東海道―伊賀国、尾張国、三河国、遠江国、駿河国、伊豆国、武蔵国、常陸国
東山道―近江国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国
北陸道―若狭国、佐渡国

※七世紀のものと、八世紀以降の国分寺式のものとに分裂している。
※七世紀の古式の伽藍配置の国分寺からは白鳳期、七世紀の瓦出土がある。
※美濃国分寺、甲斐国分寺、能登国分寺、備中国分寺から白鳳時代の古瓦が出土している。
※伊予国分寺も古式の伽藍配置で白鳳時代の古瓦が出土している。


第2366話 2021/02/02

正木講演「聖徳太子1400回忌は2020年」

 今日は、大阪市福島区民センターで開催された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演(主催:誰も知らなかった古代史の会)を聴講しました。テーマは、聖徳太子の1400回忌を迎えた令和三年にふさわしく〝覚醒した「本当の聖徳太子」〟というものです。
 ところが講演では、「1400回忌」の説明と『日本書紀』との齟齬を指摘され、『日本書紀』によれば厩戸皇子は621年2月5日に没したとされており、その記事に従えば「1400回忌」は昨年2020年になるとされました。この一年の齟齬は、『隋書』に見える九州王朝の天子、阿毎多利思北孤(あめ・たりしほこ)の没年(622年2月22日。法隆寺釈迦三尊像光背銘による)を近畿天皇家の厩戸皇子のこととしたことが原因です。
 この他にも多利思北孤の伝承が厩戸皇子(聖徳太子)の事績に転用された例(注)を史料をあげて紹介されました。古田ファンであればお馴染みのテーマですが、一般の市民を対象とした講演会では驚きを以て受け止められたようです。こうした一般市民向けの取り組みも「古田史学の会」や古田学派にとって重要な取り組みです。
 なお、同講演会もZoomシステムによるネット配信テストが久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)により行われました。

(注)隋との対等外交、「十七条憲法」「冠位十二階」制定、『法華義疏』、他


第2359話 2021/01/26

『朝倉風土記』の「天智天皇」伝承

 今朝も妻と二人で岡崎公園内の京都府立図書館まで歩きました。兵庫県立図書館から取り寄せていただいた『嘉穂郡誌』(注①)と『飛鳥宮跡出土木簡』(注②)を返却し、新たに国会図書館からの『朝倉風土記』(注③)取り寄せを依頼しました。『朝倉風土記』には「天智天皇」伝承が記されているようなので、その確認のために同書を閲覧することにしました。
 というのも、30年ほど前に古田ファンの方からいただいた同書コピーに「天智天皇御宸筆の額」に関する次の記事があったからです。

 「○附録挿絵第三五図
 赤岩宮・大神大明神の図
 ☆天智天皇御宸筆の額 中大兄皇子(後の天智天皇)、赤岩宮の神徳高く、牛馬に霊験あらたかなるを聞し召され、深く御尊崇あり。鳳駕この赤岩宮に幸し給ひ、自ら御宸筆を以て『赤岩宮』の三文字を誌し給ふたとの事である。その御額は今猶ほ神庫に納めてゐる。
然るに、天明戊申の歳、時の人その真額の雨朽虫食され、終には隕滅せんことを恐れて、之れを模造して宸額に代へた。そしてその額の背に秋月藩臣原古処が由来を記した。(後略)」

 朝倉にある赤岩宮に「天智天皇」の宸筆とされる『赤岩宮』の額があり、神社の倉庫に保管されているというものです。ここで「天智天皇」とされている人物は恐らく九州王朝の天子のことと推測していますが、当額が宸筆であれば貴重なものとなります。炭素同位体年代測定などで額の年代を測定すれば、同伝承の真偽を確かめることができるかもしれません。
 今回、この『朝倉風土記』の記事に注目した理由の一つが、当地の地名でした。webで「赤岩宮」を検索したところ、鎮座地は朝倉市下渕で、最寄りのバス停として「千手バス停」が紹介されていました。嘉麻市(旧嘉穂郡千手村)だけではなく、朝倉市にも千手という地名があることに驚きました。しかも、両地域に「天智天皇」伝承があるわけです。この事実は「千手氏」と「天智天皇」との関係の深さをうかがわせるものです。
 『朝倉風土記』が届きましたら、改めて調査して「洛中洛外日記」で報告します。

(注)
①『嘉穂郡誌』嘉穂郡役所編纂、大正十三年(1924)。昭和六十一年(1986)復刻版、臨川書店。
②『飛鳥宮跡出土木簡』橿原考古学研究所編、令和元年(2019)。吉川弘文館。
③古賀益城著『朝倉風土記』昭和59年(1984)、聚海書林。


第2358話 2021/01/25

『嘉穂郡誌』の「天智天皇」伝承

 兵庫県立図書館から取り寄せていただいた『嘉穂郡誌』(注①)を拝読しています。同書中の同郡各村の沿革や寺社紹介を一読して、同地方は神功皇后伝承と八幡宮が多いことを知りました。神武天皇が同郡を通ったという神武伝承も散見されます。他方、九州王朝の痕跡は表面的にはほとんど見当たらず、「白鳳三甲戌年三月」(注②)開基とする同郡頴田村の郷社多賀神社が見えるくらいでした。引用されている『嘉穂郡神社明細帳』によれば次のようです。

 「(由緒)當社は白鳳三甲戌年三月若木連と云、(ママ)人下舛村上ノ山に勧請し北斗宮とす、其後八百五十有餘年を経て、天文元壬辰年仲秋當地に遷す、天正六年社殿兵焚に罹り神體を裏田に遷す、天正八年迄三ヶ年大楠の空洞に鎮座せしむ、同九年再び社殿を建築して當地に遷す、秋月孫右衛門大蔵種眞、神器祭田等寄附す、明治五年十一月三日村社に定めらる、下益神社と稱し本郡下益村々社なりしを、同十五年九月八日該村を廢し大隈町に合併す。(嘉穂郡神社明細帳)」『嘉穂郡誌』780頁

 ここに秋月孫右衛門大蔵種眞という人名がみえますが、この「大蔵種眞」は、七世紀中頃(孝徳の時代)に百済から渡来した高貴王(阿多倍)の末裔で注目されます。同じく、桂川村々社老松神社の社殿再興を記した棟札に「大願主太宰大監大蔵朝臣種貞」の名前が見えます。この棟札には「暦應元年」(1338年)と年次も記されており、大蔵氏は十四世紀に太宰大監の官位を称していたことがわかります。
 大蔵氏の同族の千手(せんず)氏は、「天智天皇」の家臣という伝承を持っており(注③)、今回の『嘉穂郡誌』閲覧もその調査が目的でした。しかしながら、既に調べていた『筑前国続風土記』以上に詳しい伝承はあまり見当たりませんでした。

 「千手
 村中に千手寺あり。これに依て村の名とす。本尊千手観音也。此寺山間にありて閑寂なる境地也。其側に石塔有。里民は天智天皇の陵なり。天智天皇の御子に嘉麻郡を賜りし事あり。其人天皇の崩し玉ふ後に、是を立給ふといふ。然れども梵字なと猶(なお)さたかに見ゆ。さのみ久しき物には非ず。いかなる人の墓所にや。いふかし。(後略)」貝原益軒『筑前国続風土記』巻之十二 嘉麻郡(昭和60年版)

 今回の『嘉穂郡誌』調査では、千手寺の項の次の解説に興味を引かれました。

 「(前略)現在の本尊は千手氏の安置するものにて、天智帝より賜りたるものは、千手氏日向の國高鍋に持参せるものと傅ふ。(嘉穂郡寺院明細帳)」『嘉穂郡誌』932頁

 豊臣秀吉の九州征伐に敗れた秋月氏に随って千手氏は日向国高鍋に移封されますが、そのときに「天智天皇」から賜った仏像を持参したとあります。九州王朝説に立てば、九州王朝の天子筑紫君薩野馬からもらった仏像という可能性もあり、今も宮崎県の千手家に伝わるのであれば、是非、拝見させていただきたいものです。

(注)
①『嘉穂郡誌』嘉穂郡役所編纂、大正十三年(1924)。昭和六十一年(1986)復刻版、臨川書店。
②「白鳳三年甲戌」は天武元年(672年)を「白鳳元年」とした後代改変型の九州年号である。本来の九州年号の白鳳三年の干支は癸亥(663年)であり、甲戌(674年)は白鳳十四年である。本来の開基伝承がどちらであるのかは未詳とせざるを得ない。
③古賀達也「洛中洛外日記」2326話(2020/12/18)〝九州王朝の家臣「千手氏」調査〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2328話(2020/12/20)〝「千手氏」始祖は後漢の光武帝〟


第2334話 2020/12/30

『多元』No.161の紹介

 先日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.161が届きました。拙稿「アマビエ伝承と九州王朝」を掲載していただきました。コロナ禍の中、注目されたアマビエ伝承と九州王朝との関係について論じたものです。
 肥後の海に現れたとする「アマビエ」の元々の名前は「アマビコ」であり、「コ」が「ユ」と誤記誤伝され「アマビユ」になり、更に「ユ」が「エ」と誤記誤伝され「アマビエ」になったと考え、本来は肥後の古代伝承にある「蜑(アマ)の長者」のことではないかとしました。もちろん、この「蜑の長者」とは九州王朝の王族のことです(注)。
 当号には、大墨伸明さん(鎌倉市)による「古田武彦記念古代史セミナー2020の開催報告」が掲載されていました。本年11月に開催された同セミナーの報告が要領良くなされています。わたしは古代戸籍に遺る二倍年暦(二倍年齢)の痕跡について報告しましたが、発表時間が30分と短かったので、A4で20頁に及んだ予稿集の内容全てを説明することができませんでした。新年になりましたら、「洛中洛外日記」で拙論の論理構造と学問の方法に焦点を当てて、わかりやすく解説したいと思います。

(注)「洛中洛外日記」2212~2215話(2020/08/24~27)「アマビエ伝承と九州王朝(1~4)」


第2333話 2020/12/29

「秋月系図」に見る別伝承習合の痕跡

 『群書系図部集 第七』の「大蔵氏系図」(注①)などに見える「阿智王伝承」や「阿智使主伝承」は、本来は別伝承であったものが〝習合〟されたものとわたしは考えています。その痕跡が最もよく遺っているのが、同じく『群書系図部集 第七』に収録されている「秋月系図」です。既に紹介したように、秋月氏は九州王朝に仕えた千手氏の主家であり、両氏が同族であることが別の系図(注②)に記されています。
 「秋月系図」では、阿智王の次代の高貴王(「又名阿多倍」とある)には長文の傍注があり、そこには時代が異なる二つの説話が記されています。ひとつは、阿多倍は「都賀使主」を号し、大臣を任じ、「嫁斉明天皇産三王子。其中子志拏直賜大蔵姓。」とあるように、高貴王(阿多倍)は「斉明天皇」と結婚し、三人の子供が生まれ、その次男の志拏直が大蔵姓を賜ったという不思議な伝承です。
 その記事に続いて、阿智王が「応神天皇」の御世に七姓の氏族と共に帰化したという伝承が記されています。この伝承は『続日本紀』延暦四年六月条に見える、坂上大忌寸(いみき)苅田麿による宿禰姓への改姓を願う上表文の引用であり、「応神天皇(誉田天皇)」時代の帰化という部分は『日本書紀』応神紀二十年条の次の記事と類似しています。

 「二十年の秋九月に、倭漢直の祖阿知使主、其の子津加使主、並に己が黨類(ともがら)十七縣を率て、来歸(まうけ)り。」

 この二つの伝承のうち、七世紀中頃の来日伝承を持つ史料は「秋月系図」「大蔵氏系図」「田尻系図」(注③)などの筑前の氏族の系図で、九州王朝の家臣となった大蔵氏系氏族に限られているようです。この系列の伝承で興味深いのが、先の「秋月系図」の傍注にあるように、来日した阿多倍が「斉明天皇」と結婚したという点です。「大蔵氏系図」では「阿多王妻以敏達天皇之孫茅渟王之女」とあり、来日した阿多倍(阿多王)が敏達天皇の子の茅渟王の娘(斉明に相当)を妻にしたとあります。恐らく、来日した阿多倍が「九州王朝の皇女」を妻にしたという本来の伝承が、九州王朝の存在が忘れられた後世において、近畿天皇家の「斉明」や「茅渟王之女」に書き換えられたものと思われます。

(注)
①『群書系図部集 第七』「大蔵氏系圖」(昭和六十年版)
②東京大学史料編纂所蔵『美濃國諸家系譜』「秋月氏系図」
③『群書系図部集 第七』「田尻系圖」(昭和六十年版)


第2332話 2020/12/24

「中宮天皇」は倭姫王か

 野中寺に伝わる弥勒菩薩銘(注①)の「中宮天皇」を九州王朝の天子(筑紫君薩夜麻)の奥さんとする仮説を10年ほど前の「古田史学の会」関西例会で発表したことがあります(注②)。そのときのことを「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇〟で次のように紹介しました。

 〝中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智五年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。

 従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。 そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。〟

 ここまでを作業仮説として提起していたのですが、それ以上は進展していませんでした。ところが先日(12月21日)、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)とインターネット通話で九州王朝トップ(倭王)の称号や天皇号の位置づけについて意見交換していたときに、この中宮天皇は天智の皇后で九州王朝の皇女と考えられている倭姫王のことではないかというアイデアが浮かんだのです。これは正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が近年発表された九州王朝系近江朝説とも関連したものです。このアイデアについて日野さんに意見を求めたところ、近畿天皇家一元史観の学界内に中宮天皇を倭姫王とする説が既にあるとのことでした。

 そこで、古田学派内での先行説の有無を調べるために、正木裕さんに確認したところ、昨日開催された「水曜研究会」(注③)で同様の意見が参加者(服部静尚さん他)から出されたとのことでした。こうした研究動向を知り、仮説として成立しそうなアイデアであることに自信を得ました。これからは各研究者による様々な論証が試みられることと期待しています。

(注)
①同銘文は次の通り(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」
②古賀達也「中宮天皇と不改常典」(古田史学の会・2011年7月度関西例会)
③古田史学の会・会員有志による研究会(会場:豊中倶楽部自治会館)。毎月一度、水曜日に開催されることからこの名称が付けられた。