九州王朝(倭国)一覧

第2174話 2020/06/24

九州王朝の国号(3)

 「倭」「倭国」の国号表記は、『三国志』以降『旧唐書』までの歴代中国史書にも受け継がれます。岩波文庫『魏志倭人伝』の解説によれば、次の通りです。

 書名   編者(生没年、編纂王朝) 九州王朝の国号
『後漢書』 范曄(398-445、南朝宋)  倭
『三国志』 陳寿(233-297、西晋)   倭
『晋書』  房玄齢(578-648、唐)   倭
『宋書』  沈約(441-513、南朝梁)  倭
『南斉書』 蕭子顕(489-537、南朝梁) 倭
『梁書』  姚思廉(?-637、唐)    倭
『南史』  李延寿(?、唐)      倭
『北史』  李延寿(?、唐)      俀
『隋書』  魏徴(580-643、唐)    俀・倭
『旧唐書』 劉呴(887-946、五代晋)  倭

 以上のように、歴代中国正史の成立年代時の九州王朝の国号は、『三国志』以来『旧唐書』成立の十世紀まで「倭」とされており、例外的に『北史』『隋書』の夷蛮伝に「俀」表記が見られます。この「俀」表記を巡って古田学派内では永く論争が続いています。
 ちなみに、古田説では夷蛮伝に見える「俀」を九州王朝、帝紀に見える「倭」を近畿天皇家のこととされています。他方、近年の古田学派内では、『隋書』の「俀」も「倭」も共に九州王朝のこととする説が多く発表されています。(つづく)


第2173話 2020/06/23

九州王朝の国号(2)

 一世紀の金石文「志賀島の金印」に次いで古い同時代史料による九州王朝の国号は、有名な『三国志』倭人伝に見える「倭」「倭国」です。倭人伝には次の表記が有り、三世紀頃には人偏の「倭」の字が国号表記に使用されていたと判断できます。なお、当時の「倭」の発音は「わ」ではなく、金印の「委奴国」の「委」と同じ「ゐ(wi)」と考えられています。

 「景初二年六月。倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏、將送詣京都。其年十二月詔書報倭女王、曰制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利、奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬。」(『三国志』魏志倭人伝)

 景初二(238)年六月に魏の明帝に謁見した倭国の使者に対して、同年十二月に明帝は「詔」を下し、その中で卑弥呼を「親魏倭王」と為して「金印紫綬」を授けたとあります。このように『三国志』では一貫して人偏の「倭」を国号に使用しています。
 『三国志』の著者は陳寿(233-297年)で、成立は西晋の時代三世紀末頃(280年以降)とされています。西晋は魏の禅譲を受けた王朝であり、『三国志』は魏王朝を継承した西晋内において成立した同時代史料です。従って、その倭人伝に記された明帝の「詔」に見える「親魏倭王」という表記は当時の九州王朝の国号が「倭」「倭国」であったことを示す有力な史料根拠なのです。この国号「倭」「倭国」は、後の史書にも受け継がれており、遅くとも三世紀からは人偏の「倭」が九州王朝の国号表記として中国から認知されていたと思われます。
 なお、国号を「委」から「倭」の字に変更したのは九州王朝側なのか中国側(魏王朝)なのか、そしてその理由は何なのかという興味深いテーマもありますが、本稿では立ち入りません。(つづく)


第2172話 2020/06/22

九州王朝の国号(1)

6月の関西例会で論議になったテーマに九州王朝の国号や『隋書』での表記問題がありました。これらの問題の論点整理とこれまでの研究到達点を紹介することにします。
 九州王朝の国号を論じる上で重要なことは、その根拠が同時代史料に基づいていることです。歴代中国史書や海外史料の場合はその同時代性が、『古事記』『日本書紀』などの大和朝廷による国内史料の場合は史料性格への配慮が不可欠です。こうした視点を明示しながら、私見を述べていきます。
 九州王朝の国号を示す最古の同時代史料は「志賀島の金印」です。同印には「漢委奴国王」とあり、日本列島の代表国名は「委奴国」です。この場合、人偏がついた「倭奴国」ではないことに留意が必要です。後漢の光武帝による金印授与のことを記した『後漢書』には「倭奴国」とありますが、『後漢書』の成立はずっと後代の五世紀であることから、同時代(一世紀)金石文の金印に印された「委奴国」が当時の国名表記とする理解が優先します。五世紀時点では人偏の「倭」の文字が国号として使用されていたため、「倭奴国」と『後漢書』には記されたと思われます。
 また、後漢時代における「委奴」の発音には諸説ありますが、わたしは「ゐの(wino)」とするのが最有力と考えています。ちなみに、通説の「漢のわのなの国王」などと訓めないことは『失われた九州王朝』で古田先生が指摘された通りです。(つづく)


第2165話 2020/05/31

造籍年間隔のずれと王朝交替(3)

 「白雉元年籍」(652)と「庚午年籍」(670)との間隔は18年であり、ちょうど六年で割り切れるため、九州王朝も6年ごとに造籍していたのではないかとしました。このことを確認するため『日本書紀』を調べたところ、孝徳紀に次の記事がありました。

 「東国等の国司に拜(め)す。よりて国司等に曰はく、(中略)皆戸籍を作り、また田畝を校(かむが)へよ。」大化元年(645)八月五日条(東国国司詔)
 「甲申(19日)に、使者を諸国に遣わして、民の元数を録(しる)す。」大化元年(645)九月条
 「初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造れ。」大化二年(646)正月条(改新詔)

 このように大化二年(646)に初めて造籍法を造れとの詔が出されています。その前年の八月には「皆戸籍を作」れと東国の国司に命じ、九月には諸国の「民の元数」を記録したと記されており、このとき初めての造籍があったことがうかがえます。この大化二年(646)は先に指摘した「白雉元年籍」(652)造籍の6年前です。従って、この大化元年・二年の記事も6年ごとの造籍が行われたことを示しているのではないでしょうか。
 もしこの記事が九州王朝系史書によるものであれば、九州王朝は「大化二年(646)」(九州年号の命長七年)に初めての造籍を行い、その6年後の白雉元年(652)に2回目の造籍を実施し、その後も6年ごとに造籍し、白鳳十年(670)の「庚午年籍」まで造籍が行われたと推察できます。もしかすると、白鳳四年(664)については白村江戦敗北の翌年であり、敗戦の混乱により造籍が行われなかったかもしれません。というのも、この年の造籍を示す記事が『日本書紀』や後代史料に見えないからです。
 「庚午年籍」(670)の造籍後も、「庚寅年籍」(690)まで造籍の史料痕跡が見えないことから、「庚午年籍」は九州王朝にとって最後の造籍であり、近畿天皇家にとってもその後の造籍作業のための基本戸籍であるため、『大宝律令』『養老律令』で「庚午年籍」の永久保存を命じたものと思われます。恐らく、672年の「壬申の乱」など、九州王朝から大和朝廷への王朝交替に至る混乱で造籍が滞り、持統4年(690)に至ってようやく「庚寅年籍」が造籍されたものと思われます。この頃、近畿天皇家は国内最大規模の藤原宮(藤原京)の造営を開始しており、大宝元年(701)の王朝交替に向けて、着々と体制固めを進めていたことがわかります。
 以上の考察の結果、6年ごとの造籍が律令で規定されたにもかかわらず、「庚午年籍」(670)と「庚寅年籍」(690)の間で造籍年間隔にずれが生じているのは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替があったことによるものと思われるのです。


第2164話 2020/05/31

造籍年間隔のずれと王朝交替(2)

 「九州王朝律令」が現存しませんから、九州王朝における造籍年間隔は不明ですが、推定のためのいくつかの手がかりはあります。もちろんその代表は「庚午年籍」(670)です。この庚午年(670)を定点として、その他の造籍年がわかれば、間隔を推定する根拠になります。これまでの九州王朝史研究の成果により、『日本書紀』に九州王朝による造籍があったと考えてもよい記事があります。孝徳紀白雉三年(652)正月条に見える次の記事です。

 「正月よりこの月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。」『日本書紀』孝徳紀白雉三年正月条

 この記事は正月条でありながら、「正月よりこの月に至るまでに」とあり、不審とされてきました。わたしはこの記事を根拠に、直前にあった二月に行われた白雉改元の儀式記事が切り取られ、孝徳紀白雉元年(650)二月条に貼り付けられたとする説を発表しました(「白雉改元の史料批判」『「九州年号」の研究』所収)。ちなみに、九州年号の白雉元年は壬子(652)に当たり、孝徳紀の白雉改元記事は九州王朝史書の白雉元年(652)二月条から二年ずらされて孝徳紀白雉元年(650)二月条に移動されたともの考えられます。
 こうした史料批判の結果、「正月よりこの月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。」の記事も九州王朝史書からの転用と考えられ、この年に班田したのも九州王朝となります。そして、班田のためには直近に造籍した戸籍が必要であり、その造籍年も九州年号の白雉元年(652)と理解するのが穏当です。そして、この「白雉元年籍」(652)と「庚午年籍」(670)の間隔は18年であり、ちょうど六年で割り切れます。この理解が正しければ、「九州王朝律令」戸令にも『養老律令』と同様に「凡戸籍六年一造」のような6年ごとの造籍規定があり、大和朝廷は「九州王朝律令」の造籍規定を受けついだことになります。(つづく)


第2163話 2020/05/30

造籍年間隔のずれと王朝交替(1)

本年11月に開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)で〝古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「大宝二年籍」「延喜二年籍」の史料批判―〟というテーマで研究発表するにあたり、古代戸籍についての勉強を進めています。そこで、以前から気になっていた問題について記しておくことにします。それは7世紀中頃から8世紀初頭にかけての古代戸籍の造籍年の間隔についてです。
 古代戸籍には基本となる二つの定点があります。一つは現存最古の「大宝二年籍」(702)です。もう一つは、最古の全国的戸籍と考えられている「庚午年籍」(670)です。両戸籍の造籍年は九州王朝と大和朝廷の王朝交替の701年をまたいでおり、その痕跡が各戸籍の造籍年の間隔に現れています。
 古代戸籍は六年間隔で造籍することが『養老律令』などで規定されており、7世紀も基本的には同様と考えられています。通説では、「庚午年籍」(670)と「庚寅年籍」(690)・「持統十年籍」(696)、そして「大宝二年籍」(702)へと続くとされています。なお、「持統十年籍」に対して「持統九年籍」(695)とする説(南部昇『日本古代戸籍の研究』1992年)もあります。

 「凡戸籍六年一造」『養老律令』戸令

 「庚寅年籍」(690)・「持統十年籍」(696)・「大宝二年籍」(702)は六年間隔で造籍されているのですが、最初の「庚午年籍」と「庚寅年籍」とは20年の間隔があり、六年では割り切れません。この現象を多元史観・九州王朝説で説明すれば、「庚午年籍」は九州王朝による造籍、「庚寅年籍」以降は近畿天皇家による造籍であり、王朝交替による混乱の結果、6年ごとの造籍がなされなかったと考えることができます。
 しかし、大和朝廷は自らが滅ぼした前王朝の九州王朝時代の「庚午年籍」を基本戸籍として永久保存を律令に規定し、そのことを全国の国司に命じています。それでは九州王朝の造籍年間隔はどうだったのでしょうか。(つづく)


第2156話 2020/05/21

九州王朝の現地説明動画がすごい

 「古田史学の会」事務局次長の竹村順弘さんから、素晴らしいYouTube動画のご紹介メールが届きました。九州王朝説を太宰府都府楼跡や大野城・水城の現地で説明するという動画で、とてもわかりやすく、初心者向けの優れた編集でした。「古田史学の会」ホームページの存在にも触れていただいています。
 竹村さんからのメールを転載します。皆さんもぜひご覧になって下さい。そして、多くの方にご紹介いただければ幸いです。

〔以下、竹村さんからのメール〕

前略。毎度、お世話になっております。
昨日の参加者の皆様、お疲れさまでした。
WEBで面白い記事を見かけました。
下記にURLを記します。
第4話のコメント欄に、服部さんのクラウド講演会も紹介しておきました。

竹村順弘

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【古代史探索の旅Ⅱ】第1話 失われた歴史/九州王朝(前編) 大宰府と古代山城
@21,927 回視聴@2019/09/08
https://www.youtube.com/watch?v=qO6BXpiOOtk

【古代史探索の旅Ⅱ】第2話 失われた歴史/九州王朝(後編) 根拠となる史跡・資料をまとめています@12,770 回視聴@2019/10/05
https://www.youtube.com/watch?v=xvElxYBjXls

【古代史探索の旅Ⅱ】第3話 卑弥呼は九州にいた/邪馬台国が北部九州にあったことを結論付けることができました@47,482 回視聴@2020/01/14
https://www.youtube.com/watch?v=8ycasej7InU

【古代史探索の旅Ⅱ】第4話 邪馬台国の所在地を最も正しい(と思う)方法で推定しました@14,630 回視聴@2020/05/12
https://www.youtube.com/watch?v=CG-mNL-6d8g
=============

〔以下、動画への竹村さんのコメント〕

第1話から第4話までの素晴らしい作品を見させて頂きました。
コロナ禍で取材が続行できないとのこと、残念です。
私たちも、同様にコロナ禍で、勉強会や研究会が開催できずにおります。
そこで、私たちも動画を作ってみました。
【古代史探索の旅Ⅱ】のような凝った編集はできませんが、手作り感満載です。
ご視聴いただければ幸甚です。


第2145話 2020/05/03

クラウド(YouTube)古代史講演会のご案内

 本日、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)より、下記のメールが届きましたので紹介します。日本社会で自粛が続く中、ネットやSNSを用いて「古田史学の会」として何か発信やバーチャル例会などができないかと竹村さんに相談してきたのですが、この度、YouTubeで服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による古代史講演が配信されることになりました。皆様からのご意見やご要望などを参考にしながら改良・発展させることができます。ご視聴とご協力をお願いします。

【以下、転載】
前略。毎度、お世話になっております。
服部編集長によるクラウド講演会、ユーチューブにアップ中です。
竹村順弘

【クラウド講演会@服部静尚】
「古田武彦氏の多元史観で古代史を語る」

1. 邪馬台国と卑弥呼

その1、中国正史が示す邪馬壹国
https://www.youtube.com/watch?v=Qp-qKORKRhQ&list=PLP_MpU-E63hjzEnM3n11Ectq0l1xHWy0r&index=1&t=110s

その2、短里と長里1
https://www.youtube.com/watch?v=ftddJV73vos&list=PLP_MpU-E63hjzEnM3n11Ectq0l1xHWy0r&index=2&t=273s

その3、短里と長里2
 https://www.youtube.com/watch?v=H70IPR6aT68&list=PLP_MpU-E63hjzEnM3n11Ectq0l1xHWy0r&index=3

その4、卑弥呼が朝貢した理由
https://www.youtube.com/watch?v=iYQFWvR5ffg&list=PLP_MpU-E63hjzEnM3n11Ectq0l1xHWy0r&index=4&t=146

その5,俾弥呼の鏡 服部静尚
https://www.youtube.com/watch?v=-iK4UxLCfpg
古田史学の会編『古代に真実を求めて — 古代史の争点』第二十五集 出版記念講演会
2022年6月19日午後2時〜  於:アネックスパル法円坂

2. 古墳と多元史観

その1、考古学者が畿内説を支持する理由
https://www.youtube.com/watch?v=BxLQeu_jigE

その2、箸墓古墳は卑弥呼の墓か
https://www.youtube.com/watch?v=rVM54rb-fec

その3、盗まれた天皇陵
https://www.youtube.com/watch?v=FZiqnozAhw4

3. 倭国独立と倭国年号

その1、倭の五王から冊封離脱まで
https://www.youtube.com/watch?v=SmdqgTVFRY0

その2、白鳳は倭国の年号
https://www.youtube.com/watch?v=rIu8gNUPrMo

その3、天皇系図にあった倭国年号
https://www.youtube.com/watch?v=oJw1kUc8MvE

その4、金石文に倭国年号が少ない理由
https://www.youtube.com/watch?v=9NiNsAB7CVA

4. 聖徳太子の実像

   その1、天王寺と四天王寺 服部静尚
 https://www.youtube.com/watch?v=DBFr5L703u0

  参照論文
四天王寺と天王寺  服部静尚(『古代に真実を求めて』第十九集)
 http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjit19/tenoujih.html

  その2、十七条憲法は聖徳太子作でない 服部靜尚
 https://www.youtube.com/watch?v=38EJqo6bsbw

  その3、十七条憲法とは 服部靜尚
 https://www.youtube.com/watch?v=qxbhNYhDyWQ

 参照論文
聖徳太子は九州王朝に実在した — 十七条憲法の分析より 服部静尚
(『古代に真実を求めて』第二十三集)

 http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjit23/syotokuk.html

  その4、蘇我氏と天皇家の関係

 https://www.youtube.com/watch?v=fpdO9qHgvWI

  その5、古代瓦と飛鳥寺院
 https://www.youtube.com/watch?v=g7XdBYmvrCE

5. 大化の改新

その1、関に護られた難波宮
https://www.youtube.com/watch?v=AlkJ5LPVLb0

その2、難波宮の官衙に官僚約八千人
https://www.youtube.com/watch?v=ZQGUQ7ktiuE

その3、条坊都市はなぜ造られたのか
https://www.youtube.com/watch?v=iTSzap2FOQA

6. 天皇と飛鳥

その1、飛鳥のなぞ1
@DSCN7676@17:29@https://youtu.be/D_BPOFKUAU4

その2、飛鳥のなぞ2
@DSCN7682@18:17@https://youtu.be/kJ-4ouxnnCU

その3、法隆寺薬師如来像と天皇称号
@DSCN7684@16:28@https://youtu.be/S2WDHjDUnkk

7. 白村江戦と壬申の乱

その1、白村江戦と泰山封禅
https://www.youtube.com/watch?v=V9B3eUbFyho

その2、筑紫都督府と日本国成立
https://www.youtube.com/watch?v=7Uu-VyySewE


その3、壬申の乱の八つのなぞ
https://www.youtube.com/watch?v=to0i9SAUUEg

その4、壬申の乱は2つの王朝の戦い
https://www.youtube.com/watch?v=7TBqtnfd3qQ

8、日本書紀

その1、『紀』中国人述作説を批判する
https://www.youtube.com/watch?v=aMvqOmhKdgo

その2、『紀』はこのようにして成立した
https://www.youtube.com/watch?v=REoOm2JO-Cw

総括 なし


第2142話 2020/04/25

古代の感染症と九州年号「金光」

 「洛中洛外日記」2136話〝厄除けで多利思北孤を祀った大和朝廷〟において、天平年間の感染症(天然痘)の流行により大和朝廷が厄除けのために、九州王朝の天子・多利思北孤を法隆寺で祀ったとする拙論を紹介しました。九州王朝でも感染症の流行に対して厄除けのために九州年号を改元したことがわかってきました。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も『古田史学会報』No.157(2020.04.13)掲載の〝「壹」から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3〟で、金光元年(570)に熱病が蔓延するという国難にあたり、邪気を祓うことを願って九州王朝が「四寅剣」(福岡市元岡古墳出土)を作刀したことが述べられています。
 わたしも「洛中洛外日記」848話(2015/01/03)〝金光元年(570)の「天下熱病」〟で『王代記』金光元年条の次の記事を紹介しました。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」『王代記』(大永四年(1524)写本、『甲斐戦国史料叢書 第二冊』収録)

 『善光寺縁起』に同様の記事があり、『王代記』の記事はその「要約」であることがわかりました。概要は、天下に熱病が流行ったのは百済から送られてきた仏像(如来像)が原因とする仏教反対派の物部遠許志(もののべのおこし)が、鋳物師に命じてその仏像を七日七晩にわたり鋳潰そうとしたが全く損なわれることはなかった、というものです。その後、仏像は難波の堀江に捨てられるという話が『善光寺縁起』では続きます。なお、金光元年(570)に相当する『日本書紀』欽明紀にはこの事件は記されていません。
 正木説によれば福岡市元岡遺跡から出土した「大歳庚寅」銘鉄剣は国家的危機に際して作られた「四寅剣」とされ、この「庚寅」の年こそ金光元年(570)に相当するとされました。詳しくは正木裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」、古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(『古田史学会報』107号、2011年12月)をご参照下さい。
 百済からの如来像もたまたま金光元年に近畿にもたらされたのではなく、「天下熱病」の平癒祈願のため九州王朝を介して送られたものではないでしょうか。にもかかわらず、それを鋳潰そうとしたり、難波の堀江に捨てたものですから、九州王朝と河内の物部は対立し、後に「蘇我・物部戦争」等により、物部は九州王朝に攻め滅ぼされたのではないでしょうか。その後、河内や難波を直轄支配領域とした九州王朝は、上町台地に天王寺や前期難波宮・難波京を造営したとわたしは考えています。


第2136話 2020/04/17

厄除けで多利思北孤を祀った大和朝廷

 勤務先の玄関ホール受付に厄除けの神札が貼ってあることに気づきました。京都市南区にある吉祥院天満宮の神札で、「三密除 新型コロナウィルス 禍退散守護」「吉祥院天満宮」「朱雀天皇承平四年菅神勧請…」などと書かれています。企業としては社員の生命・健康が心配ですし、社内で感染者を出したら操業停止の社会的圧力も受けますから、〝神札にもすがる〟気持ちはよくわかります。
 わたしは厄除けの神札が吉祥院天満宮のものであることに興味を持ちました。もちろん御祭神は菅原道真公ですが、九州王朝説の視点ではそれに先立つ「天神」信仰があり、その「天神」とは九州王朝の祖先神である天照大神(アマテラス)たちのことです。ですから「天神」様に病疫退散を願うのは、おそらく古代からの風習だったように思います。
 古代日本にも度々伝染病が流行したことが諸史料に見えます。著名なものでは聖武天皇の時代、天平年間に王朝中枢が九州方面から流行した天然痘の脅威に曝されたことが『続日本紀』に見えます。天平七年(735)八月、大宰府管内で疫病が発生し、九月に新田部親王が、十一月には舎人親王が相次いで薨去します。「この年、天下に豌痘瘡(天然痘)流行」と『続日本紀』に記されています。しかし感染は止まらず、天平九年(737)には、藤原房前(四月)、藤原麻呂・藤原武麻呂(七月)、藤原宇合(八月)と政権中枢の藤原氏一族が次々と病没しています。
 この最中、天平八年(736)二月二二日に天皇家(光明皇后ら)は法隆寺で大規模な法会を開催し、釈迦三尊像に多くの奉納品を施入しています(『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』による)。この法会・施入が「二月二二日」であることにわたしは注目し、「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」(『古代に真実を求めて』15集、2012年)を発表しました。この「二月二二日」は釈迦三尊像の光背銘に記された九州王朝の天子、上宮法皇(阿毎多利思北孤)の命日であり、いわゆる近畿天皇家の「聖徳太子」の命日(二月五日、『日本書紀』推古紀)ではありません。
 『日本書紀』が成立した養老四年(720)からわずか十六年後に行われた法会の時に、大和朝廷の皇后や官僚たちが、自らが編纂した『日本書紀』に記された「聖徳太子」の命日を知らなかったとは考えられませんし、何よりも大宝元年(701)に「王朝交替」した近畿天皇家にとって前王朝(倭国・九州王朝)の天子(多利思北孤)を象(かたど)った釈迦三尊像や和銅年間に移築した法隆寺が九州王朝の寺院であったことを忘れ去っていたはずはありません。こうした理由から、近畿天皇家は九州地方から発生した天然痘の流行を前王朝の祟(たた)りと考え、その前王朝の寺院(法隆寺)で大規模な法会を多利思北孤の命日「二月二二日」に開催したものであり、従って法隆寺は「九州王朝鎮魂の寺」であったとする仮説を拙論で発表しました。
 同論文は小論ではありますが、わたしとしては自信作の一つです。吉祥院天満宮の「神札」を見て、この論文のことを思い出しました。一日も早く新型コロナウィルスの流行が終わり、「関西例会」などの活動が再開できることを祈っています。


第2115話 2020/03/20

湯岡碑文の「我」と「聊」の論理

 「洛中洛外日記」2112話(2020/03/16)〝蘇我氏研究の予察(2)〟において、「伊予温湯碑文」(「伊予湯岡碑文」)の次の冒頭記事にある三名の称号・名前(法王大王、恵忩法師、葛城臣)の他に、「我法王大王」(わが法王大王)の「我」(わが)という、本碑文の作成人物の存在が記されていると説明しました。

 「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」(『釈日本紀』所引『伊予国風土記』逸文)。

 読者の方から、「我法王大王」の「我」は、「わが君」のような慣習的な呼称(用法)であり、「我」を4人目の特定の人物と考えなくてもよいのではないかというご意見が届きました。この見解には根拠があり、もっともな疑問で、わたしも理解できます。しかしながら、この「我」を碑文の作成人物とする中小路駿逸先生(故人、追手門学院大学教授)の説をわたしは支持しています。良い機会ですので、その中小路説について説明します。
 中小路先生は論文「湯岡碑文と赤人の歌について」(『愛文』第二七号、1992年)で、次の理由により同碑文の「我」を碑文作成者とされました。

①碑文は序文と本文からなっている。
②序文は「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」であり、この碑文作成に至る事情が述べられている。
③「惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。(中略)後之君子、幸無蚩咲也。」が本文に当たる。
④この二つの部分の関係を示すのが「聊作碑文一首」の「聊」(いささか)の一字である。
⑤当碑文以前の先行例(『詩経』『楚辞』『文選』)によれば、「聊」なる語が、常に、その文における「われ」、すなわち第一人称の人物の、動作・状態を修飾するのに用いられており、第二人称・第三人称の人物の動作・状態について用いられた例を見いだしえない。
⑥当碑文の作者も先行例の用法に従ったものと考えるのが妥当である。

 こうした論理展開により、次のように結論づけられています。

⑦ゆえに、「聊作碑文一首」は「われは、いささか(しばらく、ひとまず)以下の(あるいは、この)碑文を作る」の意ととるほかなく、この場合「碑文」とは少なくとも「惟夫」から「蚩咲」までを含むがゆえに、その部分は「われ」が作ったのであり、また「その部分を『われ』が作る(作った)」という文辞を含む「序」を書いたのは、その「われ」以外ではありえないがゆえに、当碑はその「序」も「本文」も、同一の一人物の作である。

 このように中小路先生は指摘され、碑文に見える「法王大王」は「聖徳太子]ではなく、古田先生と同じく九州王朝の「大王」とされました。この中小路先生の、碑文中の「我」は碑文の作成者とする説をわたしは支持しています。


第2114話 2020/03/17

蘇我氏研究の予察(4)

 『日本書紀』の七世紀前半頃の「蘇我氏」関連記事には九州王朝・多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績転用部分と本来の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」の事績部分が混在しており、それらを分別する学問的方法論の確立が必要と、わたしは考えているのですが、実は事態はもっと複雑です。というのも、九州王朝にも重臣としての「蘇我臣」が存在した史料痕跡があるからです。
 「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟、777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟でも紹介しましたが、『二中歴』「都督歴」に次の記事が見えます。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)

 鎌倉時代初期に成立した『二中歴』の「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前にいた「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としているのです。九州王朝が評制を施行した7世紀中頃、筑紫本宮で大宰帥に任(つ)いていたのが蘇我臣日向ということですから、蘇我氏は九州王朝の臣下ナンバーワンであったことになります。また、この「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかとわたしは考えています。
 このように『二中歴』によれば、近畿天皇家の蘇我氏とは別に、九州王朝にも「蘇我臣」がおり、重用されていたこととなりますから、『日本書紀』には、近畿天皇家の「蘇我氏」関連記事、九州王朝の重臣「葛城臣」と「蘇我臣」の転用記事が混在している可能性があります。従って、この三者を分別する学問的方法論が必要と思われ、九州王朝説に基づく蘇我氏研究は一筋縄ではいかないと思われるのです。
 このような視点と理由により、古田学派内での従来の蘇我氏研究について、「わたしの見るところ、失礼ながらいずれの仮説も論証が成立しているとは言い難く、自説に都合のよい記事部分に基づいて立論されたものが多く、いわば『ああも言えれば、こうも言える』といった研究段階に留(とど)まってきました。」との辛口の批評をせざるを得なかったわけです。『日本書紀』に留まることなく、九州王朝系史料に基づいた多元的「蘇我氏」研究の本格的幕開けを期待しています。(おわり)