九州王朝(倭国)一覧

第1622話 2018/03/07

九州王朝の高安城(2)

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「王朝交代 倭国から日本国へ (2)白村江敗戦への道」(『多元』一四四号、二〇一八年三月)で発表された高安城九州王朝造営説が成立するのか、まず地勢的に考察してみました。
 『日本書紀』天智6年(667)条には高安城築造について「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」と記されてあり、その場所を「倭国(やまと国、奈良県)」とするだけで、屋嶋城のように「讃吉国山田郡」と郡名(山田郡)までは記されていないことから、「高安」という城名だけで『日本書紀』読者にはその場所がわかると考えるべきと思われます。従って、現存地名の高安山近辺(奈良県生駒郡平群町・大阪府八尾市)とする理解は穏当と思われます。ただし、倉庫跡の礎石は発見されていますが、明確に城跡と確定できるような城壁の石積みや土塁が未発見であることに、本当に高安山近辺としてよいのか一抹の不安はあります。ちなみに、対馬の金田城や讃岐の屋嶋城は城跡と見なし得る遺構が出土しています。
 ここで注目されるのが竜田関との位置関係です。竜田関は高安山の東南方向にあり、大和川沿いの竜田道の関所です。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究(「関から見た九州王朝」『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)によれば、竜田関は竜田道峠の大和側にあり、大和から河内・摂津への侵入を防ぐ位置にあることが判明し、九州王朝副都難波京防衛の為の関とされました。従って、竜田関よりも河内・摂津側に近い高安城も難波京防衛を目的とした城と考えても問題ないようです。(つづく)


第1621話 2018/03/04

九州王朝の高安城(1)

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から驚きの論稿が発表されました。多元的古代研究会の機関紙『多元』一四四号(二〇一八年三月)に掲載された「王朝交代 倭国から日本国へ (2)白村江敗戦への道」です。その中の「7.高安城・屋嶋城・金田城造営も白村江前」において、次のように高安城の築城目的を説明されているのです。

 「そして倭国(九州王朝)は、その後順次、対馬から瀬戸内経由難波までの防衛施設を整備していたと考えられる。(中略)また、高安の城は生駒山地の高安山(標高四八七m)の頂にあり大阪平野・大阪湾から明石海峡まで見通せる。
 これは唐・新羅が『筑紫から瀬戸内を超え、難波まで攻め込んでくる』ことを想定した防衛施設整備と言えよう。」(11頁)

 わたしは高安城は近畿天皇家による造営と、今まで特に疑問視することもなく考えてきたのですが、正木さんはそれを九州王朝(倭国)が造営したとされたのです。『日本書紀』天智6年(667)条には高安城築造について次のように記されており、わたしは大和国(倭国)防衛を主目的として大和を主領域としていた近畿天皇家によるものと単純に理解していました。

 「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」

 対馬の金田城や讃岐の屋嶋城は筑紫や難波副都防衛のために九州王朝(倭国)が築城したと理解していました。高安城については「倭国(やまと国)」とありますから、大和に割拠していた近畿天皇家によるものと理解していました。ところが正木さんによれば高安城も難波京(九州王朝の難波副都)防衛を主目的とした九州王朝による築城とされたのです。そこで、この正木説が成立するのかを検討します。(つづく)


第1620話 2018/03/02

九州王朝の難波大道(3)

 安村俊史さんによれば、前期難波宮朱雀門から南の堺市付近まで一直線に伸びる「難波大道」を『日本書紀』孝徳紀白雉4年(653年、九州年号の白雉2年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとされました。他方、『日本書紀』推古21年(613年)条の「難波より京に至る大道を置く」の「難波大道」について次のような「渋河道ルート」を提唱されました。

・難波津-熊野街道-[四天王寺]-渋河道-[渋河廃寺]-渋河道(大和川堤防)-[船橋廃寺]-[衣縫廃寺]-〔石川〕-大和川堤防-〔大和川〕-竜田道-[平隆寺]-[斑鳩寺]-[中宮寺]-太子道(筋違道)-飛鳥(小墾田宮)

 この「渋河道ルート」と考える理由として次の点を挙げられました。

a.古代寺院の立地-7世紀初頭〜前葉に創建された寺院が建ち並ぶ。
b.奈良時代には平城宮から難波宮への行幸路であった。(『続日本紀』の記事が根拠)
c.斑鳩を経由-飛鳥から斑鳩へ移った厩戸皇子の拠点を通過。
d.太子道の利用-斑鳩から飛鳥への斜向直線道路が7世紀初頭には設置されていた。
e.大和川に近接-大和川水運で利用された渋河、船橋、斑鳩などの施設が利用可能。
f.高低差少ない-河内と大和国境の峠越えで最も起伏が小さいルート(標高78m)。

 以上の理由を挙げ、7世紀前半は斜向直線道路の時代であり、それは自然地形を利用しながら、ある地点の間を直線で結ぶ道路であったとされました。そしてこの「渋河道ルート」が厩戸皇子との関係が深いことも指摘されました。
 こうした安村さんの見解は一元史観に基づかれてはいますが、説得力を感じました。これを多元史観・九州王朝説で再解釈してみると、次のような理解が可能です。

①九州王朝による古代官道は7世紀初頭頃までは斜向直線道路で、国府など各地点を結んでいた。
②7世紀初頭以降になると正方位の直線道路や条坊都市・条里が都市計画に採用される。
③その傾向は難波・斑鳩・飛鳥間や周辺地域にも痕跡を残している。
④上町台地でもその北部から四天王寺・斑鳩を結ぶ道路(渋河道など)に斜向直線道路が見られ、その周辺に「聖徳太子」に関連する寺院が並んでいるが、これも九州王朝の多利思北孤か利歌彌多弗利による造営と見なすことができる。
⑤7世紀中頃になると、正方位規格による難波京条坊都市や難波大道、条里(110m方眼)が造営されている。
⑥すなわち、九州王朝による正方位による都市計画思想が7世紀初頭頃から採用され、その先駆けが太宰府条坊都市だったと思われる。

 以上のような七世紀における九州王朝の都市計画思想に基づき、全国の都市遺跡や古道を精査することにより、九州王朝の影響力範囲や編年研究の進展が期待されます。(了)


第1618話 2018/03/01

九州王朝の難波大道(2)

 二月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)での質疑応答のとき、わたしは安村俊史さんに次の質問を行いました。
 「レジュメ記載の古地図によれば、四天王寺周辺の南北直線道路は正方位ではなく、東へ10度ほどぶれているが、それは何故か。創建四天王寺も同様に東偏していたのか。難波京条坊は四天王寺付近までは広がっていないのか。」
 この質問に対して、安村さんの回答は次のようでした。
 「創建四天王寺の中心軸は正方位である。周辺の道路が東偏しているのは、上町台地の最も高い場所を走った結果によると思われる。正方位の条坊跡は四天王寺付近でも発見されており、条坊はそこまで広がっていたと推定できる。」
 この安村さんの説明にわたしは一応納得できたのですが、四天王寺周辺の直線道路が東偏している理由がやはり気になっています。四天王寺は『二中歴』「年代歴」の記事(二年難波天王寺聖徳造)にあるように、九州年号の倭京二年(619年)に難波「天王寺」として創建されたと考えられますが、そのとき九州王朝は「天王寺」を正方位で造営しておいて、周囲の直線道路は上町台地の地勢に合わせて東偏させたのでしょうか。あるいは既に存在していた道路は東偏のままにしておき、「天王寺」は正方位に造営したのでしょうか。または東偏している道路は正方位の条坊とは無関係に、後代になって造営されたのでしょうか。今のところよくわかりませんので、引き続き考古学者の見解を尋ねてみたいと思います。
 いずれにしましても、7世紀初頭(倭京元年か)に造営されたと考えられる太宰府条坊や同じく倭京二年に創建された難波「天王寺」が正方位であることから、7世紀の九州王朝(倭国)が正方位を重視した都市計画思想を持った王朝であることは疑えません。(つづく)


第1617話 2018/03/01

九州王朝の難波大道(1)

 二月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)で安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)の講演「7世紀の難波から飛鳥への道」をお聞きして、とても勉強になりました。特に前期難波宮の朱雀門から真っ直ぐに南へ走る難波大道が7世紀中頃の造営とされる考古学的根拠の解説は興味深いものでした。わたしの前期難波宮九州王朝副都説から考えれば、この難波大道も九州王朝の造営とならざるを得ないからです。
 通説では難波大道の造営時期は『日本書紀』推古21年(613年)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠に7世紀初頭とされているようですが、安村さんの説明によれば、2007年度の大和川・今池遺跡の発掘調査により、難波大道の下層遺構および路面盛土から7世紀中頃の土器(飛鳥2期)が出土したことにより、設置年代は7世紀中頃、もしくはそれ以降で7世紀初頭には遡らないことが判明したとのことです。史料的には、前期難波宮創建の翌年に相当する『日本書紀』孝徳紀白雉4年(653年、九州年号の白雉2年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとされました。
 この難波大道遺構(堺市・松原市)は幅17mで、はるか北方の前期難波宮朱雀門(大阪市中央区)の南北中軸の延長線とは3mしかずれておらず、当時の測量技術精度の高さがわかります。これも前期難波宮九州王朝副都説によれば、九州王朝の土木技術水準の高さを示していることになります。そして、九州王朝は前期難波宮造営とともに遙か南の堺市付近まで朱雀大路を延長し、難波大道を造営したことになります。こうした事実から、九州王朝は難波副都造営にあたり、かなり大規模な都市計画を持っていたことがわかってきました。
 安村さんの説明では、この南北正方位の道路規格や方格地割は中国の制度を取り入れたものであり、その痕跡は難波京条坊や難波大道にとどまらず、田圃の条里(110m四方の畦跡)や飛鳥の小墾田宮の周辺にも影響を及ぼし、7世紀前半では斜行していた道路や建物が中頃には正方位になるとのこと。こうした事実から、九州王朝による正方位の都市計画思想が難波京の条坊都市だけではなく、飛鳥の近畿天皇家の宮殿にも影響を及ぼしたことがわかります。(つづく)


第1616話 2018/03/01

「邪馬台国」畿内説の論理(4)

 今朝は東京駅の東北新幹線待合室で始発の山形行き新幹線つばさ123号を待っています。昨日、大阪なんばで仕事をした後、午後に東京入りしました。今朝は春の爆弾低気圧が関東を通過中とのことで、早朝にホテルを出て東京駅で待機することにしました。

 ************

 「邪馬台国」畿内説への反論や批判の方法として、いくつかのアプローチを考えましたが、わたしは安村さんとの対話を通して、氏のような誠実な考古学者に対しては論争や批判ではなく、大和朝廷一元史観と「邪馬台国」畿内説とを一旦は切り離して論議することが有効ではないかと思うようになりました。すなわち、「畿内で発生し巨大化した前方後円墳の全国伝播が大和朝廷発展の考古学的痕跡である」とする日本古代史の基本フレーム(岩盤規制)と、『三国志』倭人伝の中心国である邪馬壹国とを切り離し、文献史学での邪馬壹国所在地の説明を丁寧に行うという対話方法です。
 こうした方法が有効だと思う理由は三つあります。一つは、前方後円墳発生や伝播に関する論争を専門の考古学者に挑んでも、彼らを説得できるほどの研究が古田学派ではまだ進んでいないように思われることです。
 二つは、考古学者は出土物の理解や歴史的位置づけついては、文献史学の「安定した通説」、すなわち一元史観によらざるを得ません。従って、文献史学の通説が間違っていれば、考古学者の出土物に対する理解や歴史的位置づけも不正確になりますが、そのことの主たる責任は文献史学側にあり、文献史学での「結論」を採用した考古学者を一方的に責めるのは酷というものです。倭人伝に基づく「邪馬台国」論争はまずは文献史学のテーマですから、『三国志』倭人伝における古田説(原文改訂は研究不正であることや行程記事・短里の解説)を丁寧に考古学者に説明することは、わたしたち古田学派の得意分野でもあり、責務でもあります。
 三つは、畿内説の考古学者でも鉄器の出土分布など北部九州が優勢な考古学的事実があることを知っていることです。この畿内説論者でも認める考古学的事実を根拠に、倭人伝に記された文物が出土する北部九州の勢力と、前方後円墳を造営した勢力は別であり、倭人伝に記された中心国(邪馬壹国)と畿内の前方後円墳を結びつける学問的(文献史学の)根拠がないことを説明するという方法は、誠実な考古学者には有効ではないかと考えられることです。
 以上のようなことから、わたしは誠実な考古学者との学問的良心と理性に基づいた対話こそが現状を変化させる一つの効果的な方法ではないかと考えています。そのためにもわたしたち古田学派は、考古学に対する研鑽と異なる意見が発生した根元を見極める洞察力、そしてそのことを的確に説明できる対話力を高めることが重要ではないでしょうか。(おわり)


第1615話 2018/02/28

「邪馬台国」畿内説の論理(3)

 「邪馬台国」畿内説は①の考古学的事実に基づく実証を、②の文献根拠と結びつけるという、③の「離れ業」により「成立」しているわけですから、反論や批判の方法としては次のアプローチが考えられます。

(a)箸墓古墳の編年を3世紀中頃ではなく、従来通り4世紀であることを考古学的に証明する。あるいは、3世紀中頃ではあり得ないことを証明する。
(b)『三国志』倭人伝の史料批判を根拠とする文献史学の立場から、「邪馬台国(正しくは邪馬壹国)」は畿内ではあり得えず、文献を「邪馬台国」畿内説の根拠とできないことを考古学者に解説する。
(c)畿内の巨大前方後円墳と『三国志』倭人伝の中心国の邪馬壹国を関連付ける学問的根拠がないことを説明する。あるいは関連しているとする根拠の明示を求める。
(d)文献史学における「邪馬台国」畿内説が原文改訂(邪馬壹国→邪馬台国、壹与→台与、南→東)の所産であり、理系では許されない方法(研究不正)であることを古代史学界と社会に訴える。

 このようなアプローチが考えられますが、わたしたち古田学派は「邪馬台国」畿内説の考古学者を説得するのか、文献史学の分野で論争を続けるのか、その双方を行うのか、最も効果的なやり方を自らの力量も含めて考えなければなりません。(つづく)


第1612話 2018/02/23

多元史観・九州王朝説による時代区分

 現代日本の歴史学(戦後型皇国史観)において使用されている古代の時代区分「(新・旧)石器時代」「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」「飛鳥時代」「奈良時代」などに代わり、多元史観・九州王朝説に基づく新たな時代区分と名称を考えるため、論点整理して試案を述べます。古田学派の皆さんによる論議検討の叩き台にしていただければ幸いです。

 まず、九州王朝から大和朝廷への王朝交代を明確に区分するために701年を境にして、倭国時代(九州王朝時代)と日本国時代(大和朝廷時代)という区分と名称がわかりやすいと思います。この点は古田学派の多くの研究者の賛同もいただけるのではないでしょうか。この史料根拠としては『旧唐書』倭国伝・日本国伝などがあります。

 問題は倭国時代以前と倭国時代内の区分です。倭国時代(九州王朝時代)の開始は「天孫降臨」(紀元前2〜3世紀頃か)とできますが、それ以前は「出雲王朝時代」が今のところ穏当のよう思います。「出雲王朝時代」には石器・木器・青銅器時代が含まれ、かなり長期間のように思われます。それ以前は具体的王朝名などが未詳ですので、とりあえず使い慣れた「縄文時代」を用いるのがよいかもしれません。今後、縄文時代の研究が進展し、具体的な権力中枢や王朝名がわかれば、それに対応した時代区分と名称を付けることができるかもしれません。

 次いで検討が必要なのは倭国時代(九州王朝時代)の細分化です。この時代には、現在使用されている「弥生時代」「古墳時代」「飛鳥時代」「奈良時代」が含まれていますから、それらとある程度対応でき、その時々の九州王朝の実態を表す適切な小区分化と命名ができれば九州王朝史を理解する上で便利と思います。従来のようなお墓の規模や様式、首都所在地で分ける以外にも、王朝の形態や象徴的な文化区分で分ける方法がありそうですが、試案としては次のような視点があります。

①中国南朝の冊封体制下か独立王朝か。名称の一例としては「冊封時代」「独立時代」などがあります。時期としては、九州年号を建元した6世紀初頭後が「独立時代」、志賀島の金印授受以後から6世紀初頭頃までが「冊封時代」となりそうです。
②行政区画で分けるのであれば、7世紀中頃以後の「評制時代」、それ以前の「県(あがた)時代」という方法もあります。ただし、「県(あがた)時代」の開始時期が不明です。
③首都や中枢地域で区分するのであれば、天孫降臨から4世紀頃までの「糸島・博多湾岸時代」あるいは「筑前中域時代」。「倭の五王」時代の「筑後時代」(古賀説による)。太宰府遷都(倭京元年。618年)後の「太宰府時代」あるいは「倭京時代」。難波副都に権力中枢が移動した時期(652〜686年)の「難波京時代」あるいは「白雉・白鳳時代」(古賀説による)。難波京焼亡後から九州王朝滅亡までの「大宰府政庁時代」(正確には大宰府政庁Ⅱ期時代)。

 以上、思いつくままに記してみました。古田学派内での論議検討を経て、もっとも相応しい区分や名称が受け入れられることと思いますので、この試案には全く拘りません。自由に批判論争してください。


第1611話 2018/02/22

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(4)

 今回の比恵遺跡群からのすずり出土報道には、「邪馬台国」畿内説にあわせる為にその時代を「古墳時代」に変更するという非学問的な問題とともに、もう一つの学問の本質に深く関わる問題があります。それは「弥生時代」とか「古墳時代」という時代区分の名称の付け方に関する問題です。
 現代日本の歴史学において、古代の時代区分として、「(新・旧)石器時代」「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」「飛鳥時代」「奈良時代」などという区分名が一般的に使用されています。現時点でこれらを見ると、その名称に材質(石)が使われたり、土器の文様(縄文)、土器出土地名(弥生)、お墓の形式(古墳)、そして権力者の所在地名(飛鳥・奈良)が使われたりと、統一性も一貫性も全くありません。こうした「雑多」な区分名に対して、古田先生は九州王朝説や多元史観に基づく新たな時代区分の命名が必要と考えられていました。
 もちろん、学問の発展段階や人間の認識の発展段階にはその時々に多くの制約がありますから、その時点では学者たちが考え抜いて命名し、徐々に学界や社会に受け入れられ定着したことを疑えません。ですから、時代区分名が雑多で一貫性が無くても、そのこと自体は責めることができないと思います。しかし、現在の学問水準、すなわち多元史観・九州王朝説という画期的な学説が登場したからには、少なくともわたしたち古田学派は「戦後型皇国史観」時代に使用された名称に代わる、「多元史観」時代にふさわしい時代区分名称を検討提案しなければならないと、わたしは考えています。今回のすずり出土記事が、この学問の本質にも関わる重要問題を考えるきっかけになればと願っています。(おわり)


第1610話 2018/02/21

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(3)

 福岡市比恵遺跡群から出土したすずりの編年が新聞記事によれぱ3世紀後半とされ、「邪馬台国の時代」と紹介し、それを「古墳時代」としています。従来は「邪馬台国(『三国志』原文は邪馬壹国)」は弥生時代とされてきたにもかかわらず、今回の記事では「古墳時代」とされたのですが、そこには性格が異なる二つの学問上の重要な問題があります。そのことについて説明します。
 まず一つ目は、「邪馬台国」畿内説成立のために古墳の編年を変更するという問題です。『三国志』倭人伝によれば、倭国の女王、卑弥呼は3世紀前半に没しているようですから、3世紀後半であれば卑弥呼の次代の壹与が女王に共立された時期に相当します。もちろん従来の古代史学では両者とも弥生時代と認識されてきました。他方、畿内には弥生時代の倭国を代表するような王者にふさわしい墳丘墓がありませんでした。学界の多数説となっている「邪馬台国」畿内説論者にとって、この考古学的事実が自説に「不都合な真実」だったことは容易に想像できます。そこで彼らが目を付けたのが、初期の前方後円墳である箸墓古墳です。その編年を従来説の4世紀前半から3世紀前半〜中頃とすることで、箸墓古墳を卑弥呼あるいは壹与(台与)の墓と見なしました。
 そもそも「邪馬台国」畿内説というものは、日本列島の代表王朝(権力者)は弥生時代の昔から大和の天皇家であるというイデオロギー(戦後型皇国史観)を論証抜きで「是」と定め、それに合うように倭人伝の原文改訂(邪馬壹国→邪馬台国、南→東、壹与→台与、など)を行ったり、考古学的事実を恣意的に解釈するという、学問的には禁じ手の乱発で「成立」した学説です。このことは拙論「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房に収録。初出「洛中洛外日記」737〜744話)で詳述していますので、是非ご覧ください。
 こうして「古墳時代」の代表的初期前方後円墳の一つである箸墓古墳を「邪馬台国」の卑弥呼か壹与の墓と見なしたいがため、その時代を「古墳時代」としなければならなくなったのです。そして、各新聞社はそうした古代史学界・考古学界の「空気」を「忖度」して、3世紀後半と編年されたすずりの時代を「古墳時代」「邪馬台国の時代」とする、実に奇妙な新聞記事の出現となったのです。(つづく)


第1609話 2018/02/20

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(2)

 犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から送られてきた朝日新聞(2月17日)には、「古墳時代 博多で何書いた?」という見出しですずり出土が報じられていました。読者の興味をひくための見出しと思われますが、それであれば本文中に何を書いたのかの解説があってしかるべきです。ところが、古代の博多にあった奴国が文字を使用していたと述べるにとどまる中途半端な記事となっています。
 朝日新聞社と言えば古田武彦先生の名著『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』(初期三部作)を発刊し、日本古代史学界や古代史ファンに激震を走らせた会社です。その新聞記事の内容がこのレベルでは、朝日新聞も「地に落ちた」と言わざるを得ず、とても残念です。
 『古代史再検証 邪馬台国とは何か』(別冊宝島誌のインタビュー)でも紹介しましたように、古代日本列島において筑前中域(糸島博多湾岸)は、文字文化の先進地域です。『三国志』「魏志倭人伝」には次のように倭国の文字文化をうかがわせる記述が見えます。

「文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ」
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す」

 このように倭国やその中心国の邪馬壹国では「文書」による外交や政治を行っていると明確に記されているのです。福岡市の文化欄担当記者であれば、この程度の知識は持っていてほしいと思うのですが、無理な期待でしょうか。
 更に同記事では出土した福岡市を「奴国」としていますが、もしそうであれば「奴国」よりも上位で大国でもある邪馬壹国の地はどこだとするのでしょうか。この「奴国」とされた糸島博多湾岸よりも大量のすずりが出土した弥生時代や古墳時代の遺跡は他にあるのでしょうか。たとえば「邪馬台国」畿内説によれば奈良県の弥生時代の遺跡からもっと多くのすずりが出土し、文字文化の痕跡を示していなければなりませんが、同地の弥生遺跡からすずりの出土はありません。
 「古墳時代 博多で何書いた?」という見出しで読者の興味を引くのであれば、こうした「答え」も記事に盛り込み、読者の知識の幅やレベルを高めることができます。そうした真の教養に裏打ちされた記事こそ、「クオリティーペーパー」と呼ばれるに相応しいものと思います。なお、公平を期すために言えば、このニュースを掲載した他の新聞も、その内容は朝日新聞と五十歩百歩です。(つづく)


第1608話 2018/02/19

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(1)

 今朝は仕事で岐阜に向かっています。好天に恵まれ、JRの車窓から金華山城(岐阜城)が美しく映えています。

 *********

 肥後から「兄弟」年号史料を発見された犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から、福岡市博多区の比恵遺跡群で「邪馬台国」時代のすずりが出土していたことを報じる地元紙(西日本新聞、朝日新聞。2月17日)の切り抜きがメールにて送られて来ました。
 報道によると、この遺跡は3世紀後半と編年されており、「古墳時代」のすずりとしては初めての出土とのこと。記事では「邪馬台国」時代のすずりなどと紹介されていますが、その「3世紀後半」を「古墳時代」と記されています。もともと「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)は弥生時代とされてきたのですが、近年の傾向として「古墳時代」と表記される例が見られるようになりました。新聞社もその学界の状況(空気)を「忖度」したものと思われます。この点、後述します。
 弥生時代のすずりは既に糸島市や筑前町など4遺跡から出土しており、この糸島博多湾岸が弥生時代の倭国の中心領域であり、女王俾弥呼(ひみか。『三国志』帝紀には「俾弥呼」。倭人伝には「卑弥呼」と表記)が統治した邪馬壹国の所在地であったことは古田武彦先生が指摘されてきた通りです。その地からすずりが出土したのですから、文字文化の先進地域であった直接証拠と言えます。この一点から見ても、「邪馬台国」論争は学問的には決着しています。このことをわたしは『古代史再検証 邪馬台国とは何か』(別冊宝島誌のインタビュー)で次のように指摘しました。当該部分を引用します。(つづく)

 文字文化が発展した「女王国」の中心部

 『魏志倭人伝』には、女王国の場所がある程度推定できる記述がいくつもあります。(中略)
 また『魏志倭人伝』には、朝鮮半島から対馬・壱岐・松浦半島・糸島平野・博多湾岸を経由して「邪馬壹国(女王国)」に至ったことが記されていますが、その最後に「南、至る邪馬壹国。女王の都する所」という記述があります。しかし、畿内説を唱える人たちは、「ここで出てくる『南』は誤りで、本当は東だった」と『倭人伝』の記述に誤りがあったと主張しています。南だと都合が悪いから東に変えたわけですが、これも元々のデータを改ざんしたルール違反「研究不正」です。(中略)
 他にも、古田氏は北部九州で痕跡が見られる倭国の「文字文化」にも注目していました。『魏志倭人伝』には、「文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ」「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す」など、「女王国」が文字を使って外交や政治を展開したことをうかがわせる記述があります。そのため、弥生時代の遺跡や遺物からもっとも「文字」の痕跡が出土する地域が、「女王国(邪馬壹国)」の候補地だったと考えるのが妥当であると、古田氏は主張しました。
 そうした文字文化が出現する地域がどこかというと、北部九州や糸島博多湾岸(筑前中域)です。この地域からは志賀島の金印や室見川の銘板、最近では弥生時代の硯なども出土しており、『魏志倭人伝』の記述の裏付けにもなっています。(以下、略)