九州王朝(倭国)一覧

第1651話 2018/04/15

九州王朝系近江朝廷の「血統」論(1)

 今上天皇の御譲位が近づいていることもあり、皇位継承における男系・女系問題などを考える機会が増えました。そうした問題意識もあって、九州王朝の「血統」についても考えてみました。
 近年発表された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の九州王朝系近江朝という仮説は、『日本書紀』に見える「近江朝廷」の位置づけを九州王朝説から論究した最も有力なものと、今のところわたしは考えています。その正木説の主要根拠の一つである、九州王朝の皇女である倭姫王を天智が皇后として迎えることにより、天智は九州王朝の「血統」に繋がることができたとするものがあります。この意見には賛成なのですが、九州王朝の皇女を皇后に迎えても天智の子孫は女系となり、果たしてそのことで九州王朝やその家臣団、有力豪族たちを納得させることがてきたのかという疑問を抱いていました。
 もちろん当時の倭国内で男系が重視されていたのか、そもそも九州王朝が男系継承制度を採用していたのかも不明ですから、別に女系でもかまわないという批判も可能かもしれません。しかしながら、『日本書紀』によれば近畿天皇家は男系継承制度を採用したと考えざるをえませんから、当時の代表的権力者の家系は男系継承を尊重したのではないでしょうか。とすれば、天智が九州王朝のお姫様を正妻にできても、「ブランド」としての価値はあっても、九州王朝の権威をそのまま継承する「血統」的正当性の根拠にはならないように思われるのです。
 そうしたことを正木説の発表以来ずっと考えていたのですが、今朝、あることに気づきました。(つづく)


第1649話 2018/04/13

九州王朝「官道」の造営時期

 「古田史学の会」は会誌『発見された倭京 太宰府都城と官道』(明石書店、2018年3月)において、太宰府を起点とした九州王朝「官道」を特集しました。その後、同書執筆者の一人である山田春廣さんが、ご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)において「東山道」の他に「東海道」「北陸道」についての仮説(地図)を発表されました。こうした古田学派研究陣による活発な研究活動に刺激を受けて、わたしも九州王朝「官道」について勉強を続けています。
 中でも九州王朝「官道」の造営時期について検討と調査をおこなっているのですが、とりあえず『日本書紀』にその痕跡がないか精査しています。山田さんが注目され、論文でも展開された景行紀に見える「東山道十五国」も史料痕跡かもしれませんが、そのものずばりの道路を意味する「大道」については次の三つの記事が注目されます。

(A)「この歳、京中に大道を作り、南門より直ちに丹比邑に至る。」『日本書紀』仁徳14年条(326)
(B)「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
(C)「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』孝徳紀白雉4年条(653)

 (B)(C)はいわゆる「難波大道」に関する記事と見なされて論争が続いています。(A)は、仁徳の時代に「京」はないとして、歴史事実とは見なされていないようです。
 わたしたち古田学派としてのアプローチは『日本書紀』のこれらの記事が九州王朝系史料からの転用かどうかという視点での史料批判から始めなければなりませんが、わたしとしては確実に九州王朝系史料に基づいた記事は(C)ではないかと考えています。すなわち、前期難波宮を九州王朝が副都として造営したときにこの「大道」も造営したと考えれるからです。また、実際に前期難波宮朱雀門から真南に通る「大道」の遺構も発見されており、考古学的にも確実な安定した見解と思います。
 しかし、この「処処の大道」が太宰府を起点とした「東海道」「東山道」などの「官道」造営を意味するのかは、『日本書紀』の記事だけからでは判断できません。7世紀中頃ではちょっと遅いような気もします。本格的検討はこれからですが、(A)(B)も含めて検討したいと思います。

 


第1648話 2018/04/12

発見された後期難波宮の大規模区画と官衙群

 前期難波宮には律令官制に対応した東西の官衙遺構が発見されています。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究によれば、律令官制を支える中央官僚は八千名に及ぶとの試算が示されています。他方、前期難波宮の上部に造営された聖武天皇の後期難波宮には前期難波宮のような大規模官衙遺構の発見がありませんでした。
 ところが、大阪文化財研究所発行『葦火』185号(2017年4月)に高橋工さんの「後期難波宮西方で官衙地区を初めて発見」という報告が掲載されていることに気づきましたので紹介します。
 発見された遺構は難波宮史跡公園の西、大阪医療センター内に位置し、後期難波宮の五間門区画の塀と官衙(役所)建物群が見つかりました。8世紀の土器が出土しており、後期難波宮の遺構と見て問題ありません。しかも南北の規模は約200m、東西は100m以上あることもわかりました。これは内裏をも凌駕する規模をもっていた可能性もあるとされています。
 今回の調査区は「五間門区画」と呼ばれているもので、後期難波宮大極殿の西方にあり、東面に2棟の五間門を持つ、掘立柱塀を巡らせた一画です。五間門は宮殿の正門などに採用される格式の高い門とされ、この区画を天皇や上皇の御在所とする説もあるそうです。その南側からは堀立柱建物群も発見されており、これらは官衙の一部と見られています。このことから「五間門区画」の南方に官衙群が展開していたと推定されています。
 後期難波宮は、神亀3年(726)から聖武天皇によって造営が始められ、天平16年(744)に一時的に皇都として定められましたが、遷都期間が短かったこともあり、実際に都の機能を有していたか不明でした。しかし今回の発見により、政治を行う機能が備わっていたことが証明されたと思われます。このことは多元史観・九州王朝説にとっても無関係ではありません。今後、七世紀における九州王朝の都城を論じる場合、宮殿だけではなく、律令官制の中央官僚群が政務に就いていた大型官衙遺構の出土が不可欠となったからです。
 たとえば、7世紀における律令官制による全国統治が可能な官衙遺構を持つ王都は、太宰府(倭京)、前期難波宮(難波京)、近江大津宮(近江京)、藤原宮(藤原京)が知られています。7世紀において、これら以外の地に九州王朝(倭国)の王都があったとする場合は、宮殿・官衙遺構の明示を一元史観論者から求められることでしょう。この一元史観論者からの指摘や批判に答えられるような理論構築がわたしたち古田学派の研究者には必要です。先月発行した『発見された倭京 太宰府都城と官道』もそうした取り組みの一環なのです。


第1647話 2018/04/11

後期難波宮の基幹排水路と谷の整地

 大阪文化財研究所が発行している『葦火』188号(2018年1月)に高橋工さんによる「後期難波宮の石組 基幹排水路を発見」という発掘調査報告が掲載されており、その中に興味深い記事がありましので、ご紹介します。
 今回発見されたのは後期難波宮の東側に南北に伸びる基幹排水路で、前期難波宮造営時に埋め立てられた谷の整地層(厚さ2.4m以上)の上に造られた石組溝として出土しました。この溝について、次のように説明されています。

 「これらの溝は、宮殿の雨水や廃水を集めて流した基幹的な排水溝とみてよいでしょう。排水溝に集まった水は、地形にそって南へ流れ、調査地付近で暗渠となって、整地層の下から埋められていない谷へ排出されたものと考えられます。」

 そして、わたしが最も注目したのは次の指摘です。

 「整地層の分布から、宮殿の中枢部に近い谷の北部のみを埋め立て、調査区より南側は谷が埋め立てられずに残っていたとみられます。また、整地層のすぐ北側には、朱雀門から東へ延び、宮の南を画する塀があるはずです。塀のすぐ外側は谷が埋め立てられていなかったことになり、大規模な土木工事である整地が、必要最小限の範囲で行われたことを示しているとみてよいでしょう。」

 このように前期難波宮造営時に、上町台地に入り組んでいる急峻な谷を平地にまで埋め立てているものの、それは必要最小限だったようです。逆から言えば、宮殿造営に必要であれば大きな谷も埋め立てたということを意味します。次のような記述もあります。
 「調査区はこの谷を東西方向に横断していたので、谷の幅が約40mであることがわかりました。谷の中は、約3.5m掘っても底が出なかったので、それ以上の深さです。
 これほど急峻な谷は、難波宮を造営する際には障害となったはずです。実際、この谷は2.4m以上の厚さをもつ整地層で埋め立てられ、平地として造成されていました。」

 前期難波宮朱雀門の南側に谷が入り込んでいることを根拠に、難波京には朱雀大路が無かったとする見解があったのですが、今回の調査で、宮殿のすぐ側で平地にまで埋め立てた整地層が発見されたことにより、難波京造営にあたり、朱雀大路にかかる谷も埋め立てられたと考えてもよいと思われます。難波宮は発掘調査のたびに新発見が続き、前期難波宮九州王朝副都説を提唱するわたしとしては目が離せません。


第1641話 2018/04/05

百済伝来阿弥陀如来像の流転(4)

 創建観世音寺の金堂跡から出土した基壇の瓦積について説明します。小田和利「観世音寺の伽藍と創建年代」(『観世音寺 考察編』九州歴史資料館、2007年)には次のように記されています。

 「第3節 金堂
 調査の結果、44次数に及ぶ発掘調査をとおして、今回、初めて創建期と考えられる瓦積基壇を検出した。また、創建期から明治期に及ぶⅤ期の基壇変遷が明らかとなるなど大きな成果が得られた。(中略)
 ここで注目されるのが、瓦積基壇の基壇化粧として用いられた格子目叩打痕平瓦片である。この平瓦片は偏行忍冬唐草紋軒平瓦(瓦形式541A)の凸面に叩打された格子目と同一であり、偏行忍冬唐草紋軒平瓦は観世音寺南面築地推定地にあたる第122次調査の井戸SE3680から老司Ⅰ式軒丸瓦・軒平瓦とともに出土しており、井戸SE3680出土の土器年代から8世紀前半頃と考えられる。近年、観世音寺の創建年代を考察した小田富士雄によれば、偏行忍冬唐草紋軒平瓦の年代を観世音寺Ⅱ期(和銅2年・709〜和銅4年・711)に比定することができるとしている。」(3頁)

 このように創建観世音寺の金堂基壇出土瓦を老司Ⅰ式(複弁蓮華紋の瓦当を持つ)の時代としており、通説ではそれを8世紀前半頃とし、わたしは7世紀後半頃としているわけです。今回のテーマである百済伝来阿弥陀如来像はこの創建金堂に安置されたのですが、通説では少なくとも百済滅亡の660年から710年頃の約半世紀以上の間、どこか別の場所に置かれていたことになり、わたしの説の場合は少なくとも10年以上どこかに安置されていたことになります。(つづく)


第1637話 2018/03/31

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

  書評(4)

 『発見された倭京 太宰府都城と官道』には特集以外の一般論文も収録しています。特集テーマではないが、『古田史学会報』等に掲載された論文のうち、書籍として後世に残し、広く読者や研究者に紹介するべきものと編集部が判断した次の論文です。

【一般論文】
倭国(九州)年号建元を考える 西村秀己
前期難波宮の築造準備について 正木 裕
古代の都城 宮域に官僚約八千人 服部静尚
太宰府「戸籍」木簡の考察 付・飛鳥出土木簡の考察 古賀達也
【フォーラム】
九州王朝の勢力範囲 服部静尚

 これらの論文の中でも、西村稿「倭国(九州)年号建元を考える」と服部稿「古代の都城 宮域に官僚約八千人」はその進歩性において際だっていたので、採用を決めました。
 西村稿は、最初の九州年号を「継躰」とする『二中歴』の「善記」年号の細注記事「善記以前武烈即位」を根拠に、九州年号の建元は「善記」であり、そのとき「継躰」を遡って追号したとするものです。論理性にのみ支えられたといっても過言ではない論証方法であり、わたしとしてはそこまで言い切ってよいものかと、結論には直ちに賛成できませんでしたが、なぜ『二中歴』以外の九州年号史料に「継躰」がないのかという疑問への一つの「回答」であることを評価しました。更に九州年号原型論にとどまらず、九州王朝(倭国)がどの時点でどのような事情により中国南朝の冊封体制から離れ、自らの年号を建元したのかという研究分野においても、新たな展開を期待させる学問上の進歩性を有した論文です。
 服部稿は七世紀における九州王朝の都城論において、律令国家としての九州王朝(倭国)の首都の行政規模を具体的に計算し、八千人の官僚群が必要であることを明らかにしたものです。従って、服部論文以後の九州王朝都城論はこの大量の官僚群の収容が可能かどうかを無視して論じることができなくなりました。その意味で古田学派の都城研究の学問水準を引き上げるという業績を有しており、学問研究に寄与するという進歩性が明確です。
 このように、編集部では論文の採用選考において、その論文が持つ新規性と進歩性を重要な判断基準の一つとしています。(おわり)


第1636話 2018/03/30

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

  書評(3)

 『発見された倭京 太宰府都城と官道』の主テーマは太宰府条坊都市とそれを守る水城や大野城などの防衛施設ですが、併せて古代官道も特集しました。本書に古代官道特集を加えた理由について説明します。
 九州王朝説による古代官道論については合田洋一さんや肥沼孝治さんによる先駆的研究がありましたが、特集のきっかけとなったのは補完的で際立った二つの論文の出現でした。ひとつは西村秀己さんの「五畿七道の謎」、もうひとつは山田春廣さんの「『東山道十五國』の比定-西村論文『五畿七道の謎』の例証」です。
 西村論文は発表前に西村さんからその概要はお聞きしていました。五畿七道に「北海道」が無いことを指摘され、壱岐・対馬へと続く海路こそ九州王朝の「北海道」であったとされ、その他の東海道や北陸道なども、本来は九州王朝の都(筑前)を起点としていたとする仮説です。西村さんらしい骨太な論証で注目していたのですが、その具体的な例証を提示されたのが山田論文です。
 山田さんは『日本書紀』景行紀に見える不思議な記事「東山道十五国」について、一元史観では東山道には十五国もなく説明つかないが、九州王朝説によれば筑前を起点として東北地方までの経過国数がぴったり十五国であることを見いだされ、西村仮説が成立することを見事に論証されました。
 この二つの論稿を契機に、九州王朝官道論と太宰府都城論を並べることにより、九州王朝の勢力範囲や権力構造を多面的に把握することができるはずと思いました。そのような判断から、第二特集として「九州王朝の古代官道」を加えました。両論文は古田説・九州王朝説を発展させた論証重視の秀逸の研究成果です。(つづく)


第1631話 2018/03/24

『発見された倭京 太宰府都城と官道』発刊

 「古田史学の会」の会誌『古代に真実を求めて』21集『発見された倭京 太宰府都城と官道』が明石書店から発刊されました。「古田史学の会」2017年度賛助会員へは明石書店から順次発送されますので、しばらくお待ちください。一般会員は書店やアマゾンでお取り寄せください。「古田史学の会」でも会員特価販売しますので、注文方法等については『古田史学会報』4月号をご参照ください。
 ご参考までに、同書「巻頭言」を転載します。

〔巻頭言〕
真実は頑固である
      古田史学の会・代表 古賀達也

 「真実は頑固である」。恩師、古田武彦先生が生前に語っておられた言葉だ。その意味するところは明確である。いかなる権力者であっても、あるいは学界の権威とされる学者であろうとも、歴史の真実を隠し通すことはできない。失われたかに見える歴史の真実は、姿や場所を変えながらも、時を得て、人々の眼前に復活する。古田先生はかたくそう信じておられた。わたしも信じている。
 たとえば、『日本書紀』。養老四年(七二〇)に近畿天皇家が自らの歴史的正統性を宣言した「史書」だ。いわく、わが王朝は天孫降臨に淵源を持ち、初代の神武天皇は奈良の橿原宮で天下に君臨した、とする。しかし、その内実は先在した九州王朝(倭国)の存在を隠し、自らが神代の時代から日本列島内唯一無二の王朝であるという歴史造作の「史書」であった。この歴史の真実を隠蔽した「史書」の目的は達成されたかに見えた。その歴史観が千数百年の永きにわたり日本古代史の「真実」とされてきたからだ。
 それでも、真実は頑固である。古田武彦という希代の歴史学者の登場により、『日本書紀』が隠し通そうとした九州王朝(倭国)の真実の姿が明らかにされたのである。そして、古田先生が没した翌年の二〇一六年、九州王朝の都(太宰府)を防衛する巨大羅城(筑紫土塁)がその片鱗を現した。当地では平野部を横断する水城、国内最大の山城である大野城を始め基肄城や阿志岐山城の存在が知られていた。いずれも太宰府防衛のための軍事施設である。これだけの巨大防衛施設群に囲まれた都城は、日本列島内では太宰府だけだ。もちろん、近畿天皇家が居した大和からは、このような巨大防衛施設は発見されていない。太宰府が九州王朝(倭国)の首都であることを、これら巨大遺跡は示し続けていたのだ。そして今回の筑紫土塁の出現は、歴史の真実を隠し通すことは不可能であることを改めて示したものといえよう。
 他方、人間はときに愚かである。九州王朝実在の歴史的証言者たる筑紫土塁は、こともあろうに九州王朝の末裔ともいえる当地の行政(筑紫野市)により破壊される運命となった。わたしたちは歴史の証言者(筑紫土塁)を護ることができなかった。真実を愛する後世の人々に対して、このことをわたしたちの世代は恥じねばならず、土塁を築いた古代の筑紫の人々に対して詫びなければならない。無念である。
 しかし、それでもいう。真実は頑固である。破壊された筑紫土塁になり代わって、その存在と土塁が護ろうとした九州王朝(倭国)の都、太宰府都城の真実を解明し、後世に語り継ぐべく、一冊の書籍をわたしたちは世に残した。それが本書『発見された倭京 太宰府都城と官道』である。本書には「古田史学の会」の研究者により著された「太宰府新論」とも言うべき論稿を収録した。それは従来の大和朝廷支配下の一地方都市としての「大宰府」論ではない。日本列島の代表者として紀元前から七世紀末まで中国の歴代王朝と交流した九州王朝(倭国)の首都としての太宰府の真実を明らかにするべく著された研究論文群である。
 更に、その太宰府を起点として全国に張り巡らされた官道に関する先駆的かつ秀逸の論稿も収録し得た。これら多元的古代官道研究の進展により、九州王朝研究の裾野は広がりを持ち、その権力範囲や統治機構についても立体的に把握することが可能となるであろう。
 この真実の歴史の証言である一冊を、現代と後世の古代史ファンと研究者に贈りたい。そして、「真実は頑固である」との古田武彦先生の言葉が“嘘”ではなかったことを読者は知るであろう。わたしたち多元史観・古田学派の研究者は、これからも真実に頑固であり続けたいと願っている。(平成三十年一月二八日、筆了)

〔追補〕「太宰府」の表記については、現地地名の「太宰府」と『日本書紀』の「大宰府」があるが、本書においては、どちらの表記を使用するかは各執筆者の判断に委ねた。古田学派としては、古田武彦氏の使用例に倣い、九州王朝(倭国)の都を意味する場合は「太宰府」を用いることが慣例である。


第1629話 2018/03/18

水城築造は白村江戦の前か後か(2)

 水城基底部出土の敷粗朶の理化学的年代測定値からすると、水城造営年(完成年)を白村江戦後とする理解が比較的妥当であることがわかるのですが、わたしが白村江戦後とする理由で最も重視したのは『日本書紀』編纂の論理性でした。『日本書紀』には次のように水城築造が記されています。
 「筑紫国に大堤を築き水を貯へ、名づけて水城と曰う。」『日本書紀』天智三年(664)条
 『日本書紀』編纂において、近畿天皇家は自らの大義名分に沿った書き換えや削除は行うかもしれません。水城築造記事においても築造主体について九州王朝ではなく「近畿天皇家の天智」と書き換えることはあっても、その築造年次を白村江戦後へ数年ずらさなければならない理由や動機がわたしには見あたらないのです。ですから天智紀の築造年次については疑わなければならない積極的理由がありません。
 古田先生は、白村江戦後の唐軍に制圧された筑紫で水城のような巨大防衛施設を造れるはずがないということを水城築造を白村江戦以前とする根拠にされたのですが、これも厳密に考えるとあまり説得力がありません。というのも『日本書紀』天智紀によれば唐の集団二千人が最初に来倭(筑紫)したのは天智八年(669)です。従って、水城を築造したとする天智三年(664)は唐軍二千人の筑紫進駐以前であり、白村江戦敗北(663)の後に太宰府防衛のために水城を築造したとする理解は穏当なものです。すなわち白村江戦敗北後の天智三年(664)に水城築造ができないとする理解にはそもそも根拠がなかったのです。
 この件について「古田史学の会」の研究者とも意見交換していますが、今のところ賛成意見はなく、古田学派内ではわたし一人だけの極少数説です。かつ研究途上のテーマであり、わたし自身ももっと深く検討を続けるつもりです。その結果、もし間違っているとなれば、もちろんこの説は撤回します。(つづく)


第1626話 2018/03/12

九州王朝の高安城(6)

 『日本書紀』天智6年(667)条の記事を初見とする高安城ですが、次の記事が『日本書紀』や『続日本紀』に見えます。

①「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」天智六年(667)
②「天皇、高安嶺に登りて、議(はか)りて城を修めんとす。仍(なお)、民の疲れたるを恤(めぐ)みたまいて、止(や)めて作らず。」『日本書紀』天智八年(669)八月条
③「高安城を修(つく)りて、穀と塩とを積む。」『日本書紀』天智九年(670)二月条
④「是の日に、坂本臣財等、平石野に次(やど)れり。時に、近江軍高安城にありと聞きて登る。乃ち近江軍、財等が来たるを知りて、悉くに税倉を焚(や)きて、皆散亡す。仍(よ)りて城の中に宿りぬ。會明(あけぼの)に、西の方を臨み見れば、大津・丹比の両道より、軍衆多(さわ)に至る。顕(あきらか)に旗幟見ゆ。」『日本書紀』天武元年(672)七月条
⑤「天皇、高安城に幸(いでま)す。」『日本書紀』天武四年(676)二月条
⑥「天皇、高安城に幸す。」『日本書紀』持統三年(689)十月条
⑦「高安城を修理す。」『続日本紀』文武二年(698)八月条
⑧「高安城を修理す。」『続日本紀』文武三年(699)九月条
⑨「高安城を廃(や)めて、その舎屋、雑の儲物を大倭国と河内国の二国に移し貯える。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条
⑩「河内国の高安烽を廃め、始めて高見烽と大倭国の春日烽とを置き、もって平城に通せしむ。」『続日本紀』和銅五年(712)正月条
⑪「天皇、高安城へ行幸す。」『続日本紀』和銅五年(712)八月条

 以上の高安城関係記事によれば、白村江戦(663)の敗北を受けて、近江朝にいた天智により築城され、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代が起こった大宝元年(701)に廃城になったことがわかります。こうした築城と廃城記事の年次が正しければ、次のことが推測できます。

①九州王朝が難波に前期難波宮(副都)を造営したとき、海上監視のための施設を高安山に造営しなかった。
②このことから、三方が海や湖で囲まれている前期難波宮の地勢のみで副都防衛は可能と九州王朝は判断していたと考えられる。
③すなわち、前期難波宮では瀬戸内海側からの敵勢力(唐・新羅)侵入を現実的脅威とは感じていなかった。あるいは前期難波宮造営当時(白雉年間、伊勢王の時代)は唐や新羅との対決政策は採っていなかった。
④白村江戦の敗北後に金田城・屋嶋城・高安城を築造したとあることから、その時期(白鳳年間、薩夜麻の時代)は唐・新羅との対決姿勢へと九州王朝は方針転換していたと考えられる。この白雉年間から白鳳年間にわたる九州王朝(倭国)の外交方針(対唐政策)の転換については正木裕さんが既に指摘されている(注)。
⑤文武天皇の時代になっても高安城は修理されていたが、王朝交代直後の大宝元年に廃城とされていることから、近畿天皇家は高安城による海上監視の必要性がないと判断したと考えられる。しかも、前期難波宮は朱鳥元年(686)に焼失しており、守るべき「副都」もこのとき難波には無かった。
⑥廃城後の高安山には「烽」が置かれていたが、それも廃止され、他の「烽」に置き換わった。このことから、海上監視よりも連絡網としての「烽」で藤原京防衛は事足りると大和朝廷は判断したことがわかる。

 以上のような推論が可能ですが、そうであれば高安城は九州王朝系近江朝により築城され、701年に王朝交代した大和朝廷により廃城されたとする理解が成立します。これ以外の理解も可能かもしれませんが、現時点ではこのような結論に至りました。(了)

(注)正木裕「王朝交代 倭国から日本国へ (2)白村江敗戦への道」『多元』一四四号(二〇一八年三月)


第1625話 2018/03/09

九州王朝の高安城(5)

 「九州王朝の高安城」と銘打った本テーマを文献史学の視点から深く考察してみますと、新たな問題点が見えてきます。その一つは高安城の初見が『日本書紀』天智6年(667)条の次の記事であることです。

 「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」

 通説では白村江戦(663年)の敗北により、大和朝廷が防衛の為に高安城など三城を築城したとされています。九州王朝説によれば九州王朝(倭国)が自国防衛のために築城したと理解するのですが、従来の九州王朝説では首都太宰府防衛とは無関係な屋嶋城や高安城の築城はほとんど取り上げられてきませんでした。ところが、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に基づき、屋嶋城や高安城も九州王朝による難波副都防衛のための九州王朝による築城とする正木説が登場したわけです。
 ここで着目すべきは、天智6年(667)という築城年次です。近年、正木さんが発表された「九州王朝系近江朝廷」説によれば、このとき九州王朝の天子薩夜麻は唐に囚われており、高安城築城の翌年(668)に天智は九州王朝(倭国)の姫と思われる倭姫王を皇后に迎え、九州王朝の権威を継承した九州王朝系近江朝廷の天皇に即位します。そうすると、高安城の築城は天智によるものとなり、それは難波副都の防衛にとどまらず、近江「新都」の防衛も間接的に兼ねているのではないかと思われるのです。
 その結果、高安城築城主体について、太宰府(倭京)を首都とする九州王朝(倭国)とするよりも、九州王朝系近江朝廷(日本国)の天智によるものではないかという結論に至ります。そしてこの論理性は、同じく天智紀に造営記事が見える水城や大野城などの造営主体についても近江朝の天智ではないかとする可能性をうかがわせるのです。(つづく)


第1624話 2018/03/09

九州王朝の高安城(4)

 高安城が難波副都防衛のための、大阪平野・大阪湾から明石海峡まで見通せる「監視施設(物見櫓)」とする仮説を支持する史料根拠があります。『日本書紀』天武紀に見える次の記事です。

 「是の日に、坂本臣財等、平石野に次(やど)れり。時に、近江軍高安城にありと聞きて登る。乃ち近江軍、財等が来たるを知りて、悉くに税倉を焚(や)きて、皆散亡す。仍(よ)りて城の中に宿りぬ。會明(あけぼの)に、西の方を臨み見れば、大津・丹比の両道より、軍衆多(さわ)に至る。顕(あきらか)に旗幟見ゆ。」『日本書紀』天武元年(672)七月条

 「壬申の乱」の一場面ですが、高安城を制圧した天武軍(坂本臣財ら)が翌朝に大津道と丹比道から進軍する近江朝軍を発見したことが記されています。この記事から高安城が「監視施設(物見櫓)」の機能を有する位置にあることがわかります。
 なお、この記事には続きがあり、進軍する近江朝軍に対して坂本臣財は高安城を下山して交戦しますが、「衆少なくして距(ふせ)ぐこと能わず」退いたと記されています。すなわち、高安城には大軍がいなかった、宿営できなかったようです。せいぜい「守備隊」程度の兵士が高安城に「見張り番」として、通常は置かれていたと推定できます。この推定が正しければ、高安城は、大規模な大野城や「神籠石」山城とは目的が異なっていることになります。恐らく高安城の性格は難波副都の地勢に対応したものと思われます。
 拙論「『要衝の都』前期難波宮」(『古田史学会報』一三三号)にて詳述しましたが、九州王朝の副都として前期難波宮が造営された上町台地は、後に摂津石山本願寺や大阪城が置かれたように、歴史的にも有名な要衝の地です。三方を海や河内湖に囲まれているため、南側の防御を固めればよく、しかも上町台地北端の最高地付近に造営された前期難波宮は、周囲からその巨大な容貌を見上げる位置にあり、王朝の権威を見せつけるのにも適しています。
 したがって、このような難波副都防衛のために高安城に「見張り番」を常駐させれば、瀬戸内海からの海上船団や南から難波大道を北上する集団を発見することが可能です。すなわち、三方を海や湖で囲まれた難波副都にとって必須である南の守りの一環として高安城を築城したと考えることができるのです。(つづく)