九州王朝(倭国)一覧

第111話 2006/12/24

最後の九州年号

 『古田史学会報』77号で発表した拙論「最後の九州年号」が、少なからぬ反響をよんでいるようです。九州年号の原形を最も保っているとされる『二中歴』に見えない「大長」を、704年から712年まで続いた最後の九州年号であるとする説ですが、もしこの説が正しければ、九州年号の大長は、大和朝廷の年号「慶雲」「和銅」と並行して存在していたこととなり、九州年号と大和朝廷との権力交代についても、そのあり方の再考が必要となります。
  ところが、大長が大和朝廷の年号と並行していたという説には先行説がありました。鶴峯戊申の『襲国偽僭考』です。そこには「文武天皇大寶二年。かれが大長五年。」と記されており、私の説とは大長元年の位置が違いますが、大和朝廷の大寶年号と併存していたと鶴峯が認識していたことがうかがえます。なお、鶴峯は大長が何年まで続いていたかは記していません。
 従来の九州年号研究では、『襲国偽僭考』の大長は698年から700年までの3年間と認識されていましたが、今回読み直してみて、そうではなかったことが判明しました。九州年号は700年までで、701年からは大和朝廷の大寶に代わると、全ての九州年号研究者が思い込んでいたのではないでしょうか。

最後の九州年号ー「大長」年号の史料批判ー(会報77号) へ

「大長」年号が登場する最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析 へ


第106話2006/11/06

元興寺と九州王朝

  昨日の日曜日、奈良に行き、東大寺大仏殿や興福寺、そして元興寺を見学してきました。本当は正倉院展を見たかったのですが、「2時間待ち」の大行列を見て、断念しました。一般客による長蛇の列とは別に、「読売旅行」の小旗に先導された団体客が別の場所に並んでいたのには、何やら不公平感を持ちました(正倉院展の後援が読売新聞社らしい)。
 そんなわけで、正倉院展はさっさとあきらめ、まだ行ったことのなかった興福寺の国宝展で念願の阿修羅像を見学した後、奈良町界隈のおしゃれな店を横目に、元興寺へ行きました。
  受付のおじさんが、「年輪年代測定により元興寺が日本最古のお寺であることが証明されました」「法隆寺よりも古い」と熱心に説明してくれたのが印象的でした。ご存じのように、通説では元興寺は蘇我馬子が建立した飛鳥の法興寺を、平城京遷都にともなって現在の地へ移築されたものです。また、元興寺禅室の部材が年輪年代測定により582年伐採とされたことにより、法隆寺五重塔心柱の594年よりも古いことが判明しました。
  元興寺のもともとの名前が法興寺とすれば、九州年号の「法興」(591〜622)との関係が注目されます。部材の伐採年582年が法興年間の9年前という近接した年代であることも、法興寺と法興年号との関係を強めます。特に、日出ずる処の天子を名乗った多利思北孤の年号「法興」は日本列島中に鳴り響いていたものと思われますから、それとは無関係に「法興寺」などという名称を使用できたとは到底考えられません。やはり、法興寺(元興寺)は九州王朝と関係の深い寺院であったと考えるべきでしょう。
  なお、太宰府の観世音寺が九州年号の白鳳年間に建立されていますが、その頃を白鳳時代と呼ぶのならば、同様に法興寺(元興寺)や法隆寺は法興時代の寺院と呼ぶのがふさわしいのではないでしょうか。飛鳥時代ではなく法興時代です。この新提案、いかがでしょうか。


第105話 2006/10/29

九州王朝系図『倭漢惣歴帝譜図』

 古田史学の会・10月度関西例会において、相模原市の冨川ケイ子さんが「九世紀初頭における『禁書』の書名とその内容」というテーマで研究発表されました。
本年から、中近世の「禁書」を研究されてきた冨川さんの研究対象が、いよいよ9世紀の「禁書」へと及んできました。今回取り上げられたのが『日本後紀』大同4年(809)2月条に見える『倭漢惣歴帝譜図』です。天御中主尊を始祖とし、中国や朝鮮の王家との繋がりが記されているという『倭漢惣歴帝譜図』を「禁書」とする詔勅が記されているのですが、冨川さんはこの系譜を九州王朝の系図ではないかと指摘されました。卓見だと思います。
 現存する「松野連系図」なども呉王を始祖として、倭の五王らへと繋がっています。また、漢の高祖の末裔を称する氏族も北部九州には少なからずいます。おそらくこうした系図と同類のものが『倭漢惣歴帝譜図』という名前で9世紀には存在していたものと思われます。
 なお、『倭漢惣歴帝譜図』を九州王朝系のものとする考えは、十数年前に古田先生が口頭で発表されています。冨川さんの発表を聞きながら、その時のことが懐かしく思い出されました。


第103話 2006/10/15

万葉仮名と九州王朝

 このほど、難波宮跡から万葉仮名が書かれた木簡が出土しました。7世紀中頃の木簡とのことで、当時における日本列島での文字文化や和歌文化を研究する上で、まさに一級史料といえるでしょう。
 この新聞報道を読んでみますと、この木簡の出土により万葉仮名の成立が従来説の7世紀末より30年ほど遡ったと、その意義を強調されていますが、古田史学によれば万葉仮名はもっと古くから九州王朝で成立していたと考えられます。
 古田先生の講演録「筑紫朝廷と近畿大王」(『市民の古代』15集、1993年)で、万葉仮名と九州王朝の関係について触れられていますが、『万葉集』巻七に「古集」というものが記されており、『万葉集』よりも古い歌集が存在していたことを指摘されています。そしてその「古集中に出ず」として紹介された歌が筑紫で成立したものであることを論証されました。すなわち、「古集」とは筑紫万葉であるとされたのです。
 したがって、このことからも九州王朝内で万葉仮名による歌集が『万葉集』に先行して作られていたことがわかります。と同時に、万葉仮名は古くから九州王朝内で成立していたということになるというわけです。
 志賀島の金印など、古くから漢字文明に接していた九州王朝ですから、その漢字を倭語の表音表記として転用することが、いつからかなされたものでしょう。それがいつのことかは、まだ正確にはわかりませんが、少なくとも通説の7世紀末、あるいは今回の木簡の7世紀中頃といった、そんな「新しい」時代のことではないと思います。
 万葉仮名成立についても、古田史学、多元的歴史観による解明が待たれているのです。


第102話 2006/10/10

古田武彦と「百問百答」
 本会の友好団体、古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)より素晴らしい一冊が上梓されました。『古田武彦と「百問百答」』という本です。同会会員
より出された131の質問に対して、古田先生が答えられたもので、最新の古田先生の考え方や新説が満載となっています。

   同会の藤沢徹会長による「はじめに」の文章をお借りすれば、次のような新知見が紹介されています。
  (1)「磐井の乱はなかった」理由
  (2)唐は九州王朝の天子薩夜麻を何故釈放したのか。その政治的意義
  (3)中大兄・中臣鎌足の白村江戦線離脱の戦略的評価
   いずれも古代史上の重要で興味深いテーマです。ちなみに、私の「九州王朝の近江遷都」説に対しても4頁にわたりご批判をいただいています。恩師から直接にご批判をいただけることに感謝したいと思います。
   おおいに触発される多彩なテーマが扱われており、お奨めの一冊です。
 
  お求めは、
  東京古田会(http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line/)


第101話 2006/10/03

太王四神記

 今、韓国でドラマ「太王四神記」の制作が行われているそうです。高句麗中興の祖、好太王の伝記で、韓流人気俳優ヨン様ことペ・ヨンジュン氏が主役。わたしは、このドラマの完成と公開をとても楽しみしています。別にヨン様のファンではないのですが(好感の持てる俳優で、わたしは「冬ソナ」のファンです)、 このドラマの中で「倭」がどのように扱われるのかを注目しているのです。

  ご存じのように、好太王は朝鮮半島に攻めてきた「倭」と戦って撃退するという、特筆すべき業績の持ち主です。現代の韓国の国民感情から考えても、攻めてきた日本に勝ったというエピソードがドラマに採用されないとは考えにくいし、歴史事実としても特筆大書されるシーンだと思うのです。
  好太王碑にも記されているこの「倭」が九州王朝であることは、古田説では明白なのですが、国内のシンポジウムなどでは大和朝廷だったり、海賊だったりされ ています。そこで注目したいのが、「太王四神記」ではどの説が採用されるのかです。恐らく無難なところで、大和朝廷説あたりで落ち着くとは思いますが、せめて「北部九州の勢力」といった説が採用されたら、わたしは間違いなくヨン様の大ファンになります。
 更にもう一つ付け加えれば、このドラマを通じて、古代に於いて日本列島の王朝が朝鮮半島へ出兵し、敗北したという歴史事実が日本国内に広く知れ渡ることにも期待したいと思います。もちろん「自虐史観」からそう言うのではありません。歴史の真実を冷静に受け止める日本国民が増えることを願っているからです。
    このドラマを機会に、ヨン様ファンが古代史にも興味をいだいていただければと今から楽しみにしています。

参考
◎画期にたつ好太王碑『市民の古代』第4集 古田武彦
好太王碑訪中団の報告『市民の古代』第7集 事務局 藤田友治
◎中国の好太王碑研究の意義と問題点『市民の古代』第7集 古田武彦
◎好太王碑と九州王朝『市民の古代』第7集 古田武彦
◎好太王碑と高句麗文化について『市民の古代』第8集 古田武彦


第100話 2006/09/30

九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
 古田先生が『古代は輝いていたIII−法隆寺の中の九州王朝−』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。
 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが判発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。
  ところで、昨年5月より始めたこの「洛中洛外日記」も、今回で100話を迎えました。これからも、マンネリ化しないよう、緊張感や臨場感、そして学的好奇心を刺激するような文章を綴っていきたいと思います。読者の皆様のご協力と叱咤激励をお願い申し上げます。


第97話 2006/09/09

九州王朝の部民制

 福岡市の上城誠さん(古田史学の会・全国世話人)から、またまたビッグニュースが届きました。9月6日西日本新聞朝刊の記事がファックスされてきたのです。それには、大野城市本堂遺跡から「大神部見乃官(おおみわべみのかん)」とはっきりとした楷書体で刻まれた須恵器が出土したことが報道されていました。
 例によって、大和朝廷一元史観での解説で、大和朝廷の部民制の痕跡と解説されていますが、そうではなく当然九州王朝の部民制を記した金石文と見るべきでしょう。もちろん、現時点では実物を見ていませんから断定的な発言は厳禁ですが、九州王朝の制度を研究する上で貴重な文字史料であることは疑えません。
 ただ、新聞の記事を読んでいて、いくつか気になったことがあります。一つは、「7世紀前半から中ごろの須恵器」とされていますが、この時期の北部九州の須恵器編年は、C14などの科学的年代測定によれば百年くらい古くなる可能性がありますので、要注意です。
 二つ目は、「大神」を「おおみわ」と読んでいますが、九州では「神」を「くま」とも読みますから、「おおくま」や「おおがみ」と読む可能性も考慮すべきでしょう。
 また、「見乃官」も高良大社(久留米市)のある水縄(みのう)連山の地名との関係も考えられ、興味深い官名です。いずれにしても、7世紀以前の部民制の痕跡を有する文字史料が近畿ではなく、福岡県大野城市から出土したことは、九州王朝説にとって大変有利な事実といえるでしょう。


第90話 2006/07/16

『筑後国正税帳』の証言

 筑後国府には考古学的に謎が多いことを述べてきましたが、文献上にも不思議な記事があります。既に古田先生が指摘されているテーマですが、天平10年(738)の正倉院文書『筑後国正税帳』に筑後国より都あるいは律令制下の大宰府に献上された品目が記されています。その中に他国の正税帳とは全く異なる品目が列挙されているのです。
 たとえば、銅釜工、轆轤工3人、鷹養人30人、鷹狩り用と思われる犬15匹です。そして何よりも驚きなのが、白玉113枚、紺玉71枚、縹玉933枚、緑玉72枚、赤勾玉7枚、丸玉4枚、竹玉2枚、勾縹玉1枚という大量の玉類です。これら全ての玉類が筑後地方から産出するとは考えられませんから、他国から筑後国に集められたと思われます。
 こうした史料事実は通説では説明不可能です。九州王朝説やわたしの筑後遷宮説でなければ説明できないと思います。すなわち、天子や王侯の遊びであった鷹狩りが行われていた証拠である「鷹養人30人」や「鷹狩り用の犬」の献上は、この地に九州王朝の都があった証拠なのです。大量の玉類も同様です。もしかすると、九州王朝の「正倉院」が筑後国にあったのではないでしょうか。そうすると、大量の玉類はそこに収蔵されていた可能性が濃厚です。
 第三期筑後国府跡に曲水の宴遺構が隣接していたことも、このことと関連して考察するべきでしょう。
古田史学会報36号「両京制」の成立 古田武彦 参照)

 話は変わりますが、昨日15日に古田史学の会・関西例会が行われました。残念ながら勤務の都合で私は欠席しましたが、テーマのみお知らせしておきます。
  〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕

 ○ビデオ鑑賞 歴史でたどる日本の古寺名刹「天台の道」

 ○研究発表
  1. 伊予の大族、越智・河野系譜にみる、国政とのかかわり伝承(豊中市・木村賢司)
  2. コバタケ珍道中・信州編(木津町・竹村順弘)
  3. 彦島物語・別伝(大阪市・西井健一郎)
  4. 九州年号古賀試案の検証(奈良市・飯田満麿)
  5. 大野城創建と城門柱の刻書(岐阜市・竹内強)
  6. 熊本県浄水寺の平安時代石碑群(相模原市・冨川ケイ子)
  7. 敵を祀る・旧真田山陸軍墓地(豊中市・大下隆司)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・教科書から消える聖徳太子・他(奈良市・水野孝夫)


第89話 2006/07/08

筑後国府跡の字地名

 第一期筑後国府跡は合川町枝光の南側にありますが、同地には「フルコフ」と呼ばれていた字地名があることが、『久留米市史』(昭和七年発行)に紹介されています。同書によれば「フルコフ」とは「古国府」のこととされ、そうであれば「古国府」と呼ばれるようになったのは、「新国府」である第二期筑後国府成立以後と考えられます。地名の遺存性の強さには本当に驚かされます。
 さらに、「フルコフ」の「西隈高隆の地を『コミカド』と称す」とあり、「小朝廷」の意味ではないかとしています。大変興味深い地名で、もし「小朝廷」であれば、九州王朝説や筑後遷宮説にとって貴重な傍証となるでしょう。
 この他にも「チョウジャヤシキ」などの地名も記されており、筑後国府跡地名の多元史観による調査検証が待たれます。


第88話 2006/07/07

筑後国府の不思議

 第87話で紹介した、久留米市の筑後国府跡から出土した大型建造物の柱穴について、この一週間検討を続けてきました。特に筑後国府に関する文献や発掘調査報告書を丹念に読み直したのですが、筑後国府には実に不思議な問題があることがわかりました。
 まず第一に、筑後国府跡は第一期から第四期まであり、通説でも第一期の国府(合川町古宮地区)は七世紀末の成立とされ、最古級の国府であること。なぜ、近畿ではなく九州の筑後国府が最古なのか、通説では説明困難です。
 第二に、律令体制が全国的に崩壊していた12世紀後半まで国府(第四期、御井町)が存続していたこと。このように500年も続いた国府は筑後国府だけです。
 第三に、第二期国府(合川町阿弥陀地区)は太宰府政庁と同じような配置を有していたこと。
 第四に、第三期国府(朝妻町三丁野地区)は全国最大希望の国府であったこと。
 第五に、第三期国府の東側に隣接して「曲水の宴」遺構が存在していたこと。
 第六に、国府跡の発掘調査報告を読むと、弥生時代の住居跡なども出土しているのに、古墳時代や飛鳥時代の遺跡がほとんど見当たらず、いきなり八世紀以後の遺跡となっていること。この地帯が古墳時代や飛鳥時代は無人の地だったとは考えられません。須恵器を中心とする土器編年がおかしいのではないでしょうか。

 以上、ちょっと考えただけでも不思議だらけなのです。おそらく、これらは九州王朝説に基づかなければ解決しないものと思われますが、それでも判らないことが多く、研究課題は山積しています。
 8月5日には愛媛県の松山市で講演しますが(古田史学の会・四国主催)、この問題をテーマにしたいと思います。それまでに、どれだけ解決している、今からワクワクするような研究テーマです。


第87話 2006/06/28

九州王朝の筑後遷宮

 わたしは「九州王朝の筑後遷宮」というテーマを発表したことがあります(『新・古代学』第4集、1999年)。4世紀後半から6世紀にかけて、九州王朝は筑前から筑後へ遷宮したという仮説です。九州王朝は、高句麗や新羅の北方からの脅威に対して、より安全な筑後地方に首都を移したと思われ、それはちょうど倭の五王や筑紫の君磐井の時代にあたります。また、筑後川南岸の水縄連山に装飾古墳が多数作られる時期とも対応します。そして、輝ける天子多利思北孤の太宰府建都(倭京元年、618年頃)により再び筑前に首都を移すまで、筑後に遷宮していたと考えられるのです。この論証の詳細は「玉垂命と九州王朝の都」(『古田史学会報』24号)、「高良玉垂命と七支刀」(『古田史学会報』25号)をご参照下さい。
 しかしながら、この仮説には解決すべき問題がありました。それは九州王朝の王宮に相応しい遺跡が筑後地方になければならないという考古学的な問題でした。一応の目途としては、久留米市にある筑後国府跡(合川町、他)や大善寺玉垂宮(三瀦町)付近にあるのではないかと推定していましたが、やはり5〜6世紀の王宮に相応しい規模の遺跡は発見されていませんでした。ところが、先週、ビッグニュースが飛び込んできたのです。
 福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)から毎日新聞(6月22日、地元版)のコピーがファックスされてきました。「筑紫国の役所か」「7世紀後半の建物跡」「九州最大規模、出土」という見出しで、久留米市合川町から、ひさし部分も含めて幅18メートル、奥行き13メートルの建物跡の 柱穴(直径30〜60センチ)40本が出土したことが報じられていました。近くで出土した須恵器から7世紀後半の遺跡とされていますが、この時期の九州北部の編年はC14測定などから、土器編年よりも百年ほど古くなりますから、6世紀後半の遺跡と考えるべきでしょう。そうすると、筑後遷宮期の九州王朝の王宮の有力候補となるのです。なによりも、この時期の九州最大規模の建物という事実は注目されます。
 新聞記事からは遺跡の正確な位置や詳しい内容がわかりませんので、これ以上の推測はやめておきますが、わたしの筑後遷宮説にとって、待ちに待ったニュースでした。