九州王朝(倭国)一覧

第148話 2007/10/13


醒ヶ井神籠石を訪ねて

 
甲良神社に次ぐ、滋賀県湖東のドライブ後半の目的地は米原市醒ヶ井でした。そこは中山道をおさえる交通の要衝の地で、醒ヶ井から多和田にかけて古代の環状
列石があり、神籠石ではないかとする説もあって、一度訪ねてみたいと思っていました。というのも、わたしは「九州王朝の近江遷都」という仮説を以前発表し
たのですが、その考古学的痕跡として、近江京を守る神籠石がないだろうかと、常々思っていたからでした。

   ある本で、醒ヶ井の環状列石の存在を知ったのですが、九州の神籠石と異なり、規模が小さいこと、内部に水源を持たないことが気にかかっていたのです。そこで、現地に行き地元の人に聞いてみました。そして、納得しました。これはいわゆる神籠石ではないということを。
 その理由は次のようです。列石が山頂を取りまいているとはいえ、それは自然石で九州の神籠石のような直方体の切石ではないこと。その位置が中山道から山
一つ離れており、交通の要衝の地とは言えないこと。そして、そこからは琵琶湖が見えず、狼煙台としても不適切という点です。
   残念な結論でしたが、現地に足を運んで確認することができ、有意義でした。「歴史は足にて知るべきものなり」(秋田孝季)です。これで、湖東のドライブは一段落。次は湖北を目指します。そこにも、様々な古代伝説が待っています。


第147話 2007/10/09

甲良神社と林俊彦さん

 先週の土曜日は、滋賀県湖東をドライブしました。第一の目的は、甲良町にある甲良神社を訪れることでした。甲良神社は、天武天皇の時代に、天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。そのため御祭神は武内宿禰です。筑後の高良大社の御祭神は高良玉垂命で、この玉垂命を武内宿禰のこととするのは、本来は間違いで、後に武内宿禰と比定されるようになったケースと思われます。
 ご存じのように、尼子姫は筑前の豪族、宗像君徳善の娘ですから、勧請するのであれば筑後の高良神ではなく、宗像の三女神であるのが当然と思われるのですが、何とも不思議な現象です(相殿に三女神が祀られている)。しかし、それだからこそ逆に後世にできた作り話とは思われないのです。
 わたしは次のようなことを考えています。それは、天武が起こした壬申の乱を筑後の高良神を祀る勢力が支援したのではないかという仮説です。天武と高良山との関係については、拙論「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第9集)で論じましたので、御覧頂ければ幸いです。
 この甲良神社のことをわたしに教えてくれたのは、林俊彦さん(全国世話人、古田史学の会・東海代表)でしたが、その林さんが10月5日、脳溢血で亡くなられました。まだ55歳でした。古田史学の会・東海を横田さん(事務局次長、インターネット担当)と共に創立された功労者であり、先月の関西例会でも研究発表され、わたしと激しい論争をしたばかりでした。その時に、この甲良神社のことを教えていただいたのです。7日の告別式に参列しましたが、棺の中には古田先生の『「邪馬台国」はなかった』がお供えされており、それを見たとき、もう涙を止めることができませんでした。かけがえのない同志を失いました。合掌。


第140話 2007/08/26

「天下立評」

 8月の関西例会で、わたしは「平安時代の「評制」文書─『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』の史料批判─」というテーマを発表しました。延暦23年 (804)に成立した、伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』に「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、しかも同文書は太政官に提出された解文、いわば公文書であることを紹介しました。すなわち、平安時代の近畿天皇家内部の公文書に九州王朝の制度であった「評」が記されていることを指摘しました。

 たとえば『日本書紀』はおろか、延暦16年(797)に成立した『続日本紀』でも、700年以前の「評」を「郡」に改竄されているのですが、ほぼ同時期に解文として提出された『皇太神宮儀式帳』には「天下立評」や「評督」という記述が使用されており、近畿天皇家のとった九州王朝隠滅方針にも、内部では温度差のあったことがうかがえます。
  さらに、「難波朝廷天下立評給時」という記事は、九州王朝が評制を施行した時期を難波朝廷(孝徳天皇)の頃、すなわち650年頃であるとするもので、評制開始時期を記した現存する唯一の史料でもあり、貴重です。この頃、太宰府政庁よりもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮が完成しており、このこと と「天下立評」とは何かしら関係しているのではないかと想像しています。この件、今後も研究していきたいと思っています。


第137話 2007/08/13

薩夜麻「冤罪」説
 お盆休みは、ご近所のトヨタレンタカー河原町店からプリウスを借りて、丹後半島にでも行くつもりでしたが、あいにく連
休中は車の予約がいっぱいで、まだ行けないでいます。なにせ、教習所の車以外では、社用車のプリウスと、レンタカーのヴィッツしか運転したことがなく、他
の車種は慣れていないのでまだ借りる気がしません。

 さて、「古田史学の会」では近年優れた研究者を輩出していますが、「天子宮」研究の古川さんと共に、『古田史学会報』81号には正木裕さん(川西市在住)の「薩夜麻冤罪説」という優れた論稿が掲載されています。
 
『日本書紀』では、部下を奴隷に売って、自らは帰国した不名誉な役割を与えられている筑紫君薩野馬ですが、古田説では九州王朝最後の天子とされています。
この不名誉な記事が、『日本書紀』編者による「冤罪」であることを論証されたのが、この正木稿なのです。81号には前編が掲載されており、後編がますます
楽しみです。
 このように「古田史学の会」には九州の古川さん、関西の正木さん、そして関東には数々の好論を発表されてきた冨川さん(相模原市在住)がおられ、論客が
群雄割拠の状況です。このところ研究が滞っている私を尻目に、こうした会員による優れた研究が陸続と続く古田史学・多元史観の底力は恐るべし、です。まさ
に、歴史学のパラダイムシフトが今おこっているのです。


第136話 2007/08/12

天子宮
 
九州には熊本県などに多数の「天子宮」が分布しています。以前からこの事実が気になっていましたが、端的に言えば九州王朝説でなければ説明できない「事
実」ではないでしょうか。この天子宮問題に九州王朝説の立場から果敢に挑戦されているのが、古川清久さん(本会会員、武雄市在住)です。その研究成果が
『古田史学会報』81号より連載開始となりました。

 
私としては『隋書』に記された倭国の天子、多利思北孤と関係するのではないかと想像していますが、それは『隋書』に阿蘇山が紹介されていることと、天子宮
が熊本県に濃密に分布していることによります。古川さんの天子宮の基礎研究とも言える連載、「伊倉─天子宮は誰を祀るか─」ではどのような結論になるのか
楽しみです。まずは天子宮の精密な分布状況と祭神、伝承の調査が望まれるところです。
    「天子宮」は、「古田史学の会」九州の論客、古川さんならではの未踏の研究テーマと言えるでしょう


第124話 2007/03/06

藤原宮の紀年木簡

  藤原宮出土の「評」木簡群と同様に注目されるのが、紀年木簡群です。紀年が書かれていますから、木簡制作年が判断でき、史料としてとても貴重です。藤原宮をはじめ、紀年木簡にはONラインを境に顕著な変化があります。700年以前は芦屋市出土の「元壬子年」木簡を除けば、すべて干支のみで紀年が表記され、九州年号は記されていません。
 この史料事実は、近畿天皇家が年号に無関心であったのではなく、強い関心を示していた証拠です。何故なら、701年以後の紀年木簡は近畿天皇家の年号を用いているからです。ONラインを境にして、紀年表記の形式が干支から年号へと見事に一変しているのです。
 すなわち、近畿天皇家は支配下に置いた諸国からの貢進物の荷札の木簡にさえ、九州年号を使用させず、自ら年号を制定した701年以後はその年号を使用させるという、極めて露骨な政策をとったとしか思えないのです。同時に、藤原宮などに貢進物を送った諸国は、そうした近畿天皇家の政策に忠実に従ったのであり、その結果が、現在までに出土している紀年木簡の姿と言えます。
 このように、紀年木簡の示す史料事実は、藤原宮時代の近畿天皇家の権力を推し量る上で貴重です。この時期、九州王朝は衰退の一途を辿っていたことも、同時に推測できるのではないでしょうか。


第123話2007/02/25

藤原宮の「評」木簡

この一年間、研究してきたテーマに木簡の史料批判があります。その成果として、「元壬子年木簡」など、九州年号研究にとって画期的な発見もありましたが(第69話、72話、他)、現在わたしが最も注目しているのは藤原宮出土の「評」木簡群です。

 『日本書紀』や『続日本紀』によれば、藤原宮は持統八年(694)から平城京遷都する和銅三年(710)年まで、近畿天皇家の宮殿として機能したのですが、そこから出土する「評」木簡は、九州王朝から近畿天皇家へ権力交代する701年の直前の時期に当たる木簡であることから、権力交代時の研究をするうえでの第一級史料といえます。
たとえば、多くの木簡は「荷札」の役割を果たしたと思われますが、各地の地名を記した「評」木簡を見てみると、どのような地域から藤原宮へ貢物が届けられたかを知ることができ、当時の近畿天皇家の勢力範囲を推定することができます。
ちょっと古いデータですが、角川書店の『古代の日本9』(昭和46年)掲載資料によれば、東は安房国の「阿波評」や上野国の「車評」、西は周防国の「熊毛評」などがあり、近畿だけでなく関東や東海、中国地方の諸国の「評」地名を記した木簡が出土しています。したがって、7世紀末時点では大和朝廷は東北を除いた本州全体を支配下に置いていたと考えられます。
逆に言えば、この時点、九州王朝は九州島や四国ぐらいしか実効支配していなかったのかもしれません。そして、こうした背景(権力実態)があったからこそ、701年になってすぐ近畿天皇家は年号や律令の制定、評から郡への一斉変更をできたのではないでしょうか。藤原宮の「評」木簡を見る限り、このように思わ れるのです。


第122話 2007/02/23

庚午年籍の保存命令

 今日も一日、花粉症に苦しみながら仕事をしました。洛北の山の杉花粉は半端じゃありません。かなりこたえます。というわけで、今夜は中島みゆきの「サーモン・ダンス」(アルバム『転生』収録)を聴いて、元気を取り戻しながらこの日記を書いています。

 「生きて泳げ 涙は後ろへ流せ 向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ」というフレーズが大好きな曲です。昔、古田先生から聞いた話しですが、先生も中島みゆきの曲を聴きながら原稿を書かれていたそうです。みゆきファンのわたしとしては、中島みゆきの曲を古田学派の応援歌に認定したいぐらいです。まあ、半分本気、半分冗談ですが。

 さて、このところ庚午年籍についての考察を続けてきましたが、もう少し論及したいと思います。九州王朝により670年に造籍された庚午年籍は、大和朝廷に交代した後も、大宝律令などで永久保存が命令され、その書写は九世紀段階でも全国的レベルで続けられたことについては、既に述べてきたところです。
 701年時点以降も全国的に庚午年籍が残っていたということは、この庚午年籍の永久保存を九州王朝も命じていたと考えざるを得ません。そうでなければ、神亀四年(727)になっても九州諸国の庚午年籍七七〇巻が残っていたとは考えにくいのではないでしょうか。
 このように考えると、庚午年籍は九州王朝にとっても特別に重要な戸籍であったことになります。それでは、なぜ特別に重要な戸籍だったのでしょうか。おそらくは、白村江敗戦以後の混乱した状況下で、氏族の再編成も含めて行われた造籍事業だったからではないでしょうか。これからの研究課題です。


第121話 2007/02/18

暖冬の嵐

  暖冬の今年、早くも春一番が吹き荒れましたが、関西例会でも論戦の嵐が巻き起こっています。昨日の関西例会では、山浦さんから、『なかった』1号・2号に 連載された田遠清和さんの「『心』という迷宮−漱石『心』論」に対する強烈な反論がなされました。山浦さんの反論には、例会参加者からは概ね賛意が得られ ましたが、論文発表が待たれるところです。
 新入会員で例会初発表の永井さんからは、冨川さんの「武烈天皇紀における『倭君』」に敬意を表しながらも、問題点を厳しく指摘する発表がありました。水野代表からも、高市皇子天皇説に基づいた大胆な仮説が発表されました。これにはちょっとついていけないなあ、との感想を持ちましたが、こうした仮説が発表できるのも例会の良いところだと思います。いずれにしても、水野代表にしては大胆な仮説で、面白い内容でした。
 毎月のように初めての参加者がみえられる関西例会ですが、春の嵐のような論戦もまた、楽しいものです。もちろん、互いの敬意や節度は守った上でのことで すが。二次会の飲み会も安い会場がみつかり、大いに盛り上がっています。関西の皆さん、ご遠慮なく参加して下さい。参加費は500円。絶対にお得です。

〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 古代史「道楽三昧」(豊中市・木村賢司)
2). 『日本書紀』に引用された『百済本記』(奈良市・飯田満麿)
3). 「百年の孤独」か「百年の誤読」か(豊中市・山浦純)
4). 日本書紀「五月五日薬猟」資料批判 I(川西市・正木裕)
5). 武烈紀における麻那君・斯我君記事の持つ意味(たつの市・永井正範)
6). 持統天皇と文武天皇の間(相模原市・冨川ケイ子)
○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・鴫原姓の分布・高市皇子天皇説・他(奈良市・水野孝夫)


第120話 2007/02/11

九州王朝の造籍事業

 評制文書である庚午年籍は九州王朝により、白鳳十年(670)に全国的規模で造籍されたようです。『続日本後紀』の承和六年(839)七月条に中務省が 「左右京職五畿内七道諸国」に庚午年籍を書写して提出するよう命じています。承和十年(843)正月条でも再度書写と提出を諸国に命じていますので、庚午年籍が筑紫諸国だけではなく全国的規模で造籍されていたことがわかります。
 こうした史料状況から、白村江の敗戦後、天子の薩夜麻を唐に捉えられていた九州王朝であるにもかかわらず、全国的な造籍が可能な支配力をまだ有していたことがうかがえます。
 このような九州王朝の造籍力は大和朝廷の時代の大寶二年造籍でも受け継がれたようで、「用紙・体裁・記載様式における西海道戸籍の高度の統一性」が研究者 (宮本救氏)により指摘されています(『古代の日本9』角川書店)。こうした「西海道戸籍の高度の統一性」も、九州王朝説に立てば良く理解できるところで す。
 通説では庚午年籍が全国的な戸籍としては初めてのものとされていますが、これが九州王朝にとって初めての造籍であったかどうかは、今のところ不明です。今後の研究課題と言えます。九州王朝説に立った造籍研究は前人未踏のテーマですが、どなたか挑戦されてみてはいかがでしょうか。


第119話 2007/02/09

九州の庚午年籍

 大量の評制文書である九州の庚午年籍に関する記事が『続日本紀』に記されています。次のようです。

「秋七月丁酉、筑紫諸国の庚午籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」
  神亀四年(727)

 九州諸国の庚午年籍七七〇巻に官印を押したという記事ですが、この記事からわかることは、九州諸国の庚午年籍には大和朝廷の官印は727年まで押されて いなかったという点です。逆に言えば、727年になってようやく大和朝廷は九州の庚午年籍を手に入れることができたということではないでしょうか。
 通常、戸籍には国印が押されていますから、この七七〇巻の筑紫諸国庚午籍には九州王朝時代の各地の国印は押されていたかもしれません。この記事では、国 印ではなく官印を押したとありますから、別に大和朝廷の官庁の印を新たに押したのではないでしょうか。もっとも、国印も官印の一種と思われますから、断定 はできませんが。
 ここからは想像ですが、九州王朝の最後の残存抵抗勢力が七七〇巻の庚午年籍を持っていて、それを大和朝廷が討伐し、この庚午年籍を727年に奪取したの かもしれません。もし、太宰府にあったのなら、もっと早く701年に近い時期に入手できたと思われます。というのも、大和朝廷による筑前島郡川辺里の大寶 二年(702)戸籍が正倉院にあることから、この頃の筑前や太宰府は大和朝廷の支配下にあったと考えられるからです。
 ちなみに、筑紫諸国以外の国々の庚午年籍に対する官印押印記事は『続日本紀』には見えませんから、この筑紫諸国の庚午年籍を手に入れて官印を押したという事実は、特筆すべき事件であると大和朝廷の史官たちには意識されていたのでしょうね。


第118話 2007/02/04

評制文書の保存命令

700年以前の九州王朝の行政単位だった「評」を『日本書紀』や『万葉集』が全て「郡」に書き換えて、九州王朝の存在の隠滅を計ったことは、古田先生が度々指摘されてきたところです。
ところが、「評」を隠した大和朝廷が評制文書の保存を命じていたことをご存じでしょうか。それは「庚午年籍」(こうごねんじゃく)と呼ばれている戸籍です。九州王朝の時代、庚午の年(670年)に作られた戸籍ですが、当然、評の時代ですから、地名は○○評と記されていたはずです。この「庚午年籍」の永久保管を大和朝廷の大宝律令や養老律令で規定しているのです。その他の戸籍は30年で廃棄すると定めていますが、「庚午年籍」だけは保存せよと命じているのです。大寶二年七月にも「庚午年籍」を基本とすることを命じる詔勅が出されています(『続日本紀』)。
更に時代が下った承和六年(839)正月の時点でも、全国に「庚午年籍」の書写を命じていることから(『続日本後紀』)、9世紀においても、評制文書である「庚午年籍」が全国に存在していたことがうかがえます。
『日本書紀』や『万葉集』で、あれほど評を隠して、郡に書き直した大和朝廷が、その一方で大量の評制文書「庚午年籍」の永久保管を命じ、少なくとも9世紀まで実行されていたことは、何とも不思議です。このように、歴史は時に単純な理屈だけではわりきれない現象が起こりますが、だからこそ歴史研究はやりがいがあるのかもしれません。

参考
古田武彦講演録
大化改新と九州王朝
(『市民の古代』第6集 1984年)