九州王朝(倭国)一覧

第260話 2010/05/05

一元史観からの太宰府「王都」説

 わたしが注目した『古代文化』2010年3月VOL.61に掲載された赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」ですが、良く読むと最終的に主張したい結論が明確には記されていません。しかし、「朝倉橘廣庭宮の記憶」というサブタイトルに示されているように、従来通説では天智の頃とされていた大宰府政庁1期の遺跡(正確には1−1期)を斉明天皇の頃へと時代を引き上げようとされているのです。その論拠の一つとして井上信正説を「大変魅力的な説」として紹介されたのです。
 しかも、赤司氏の狙いはそれだけには留まっていません。大宰府政庁1−1期を斉明天皇の朝倉橘廣庭宮に関係するものと位置付け、従来朝倉市とされてきた朝倉橘廣庭宮の比定地に対して、大宰府を朝倉橘廣庭宮とする説や史料の存在にも触れ、あたかも大宰府が朝倉橘廣庭宮であるとしたいような筆致が見られます。恐らくは続稿ではそこまで進まれるのではないかと、わたしは予想しています。
 そのことは次の文からもうかがえます。斉明天皇の筑紫行きに対して「遷都ともいうべき相当の覚悟があったと考えてよい。政庁1−1期の建物は、この遷都と何らかの関係があったとみられる。」とされ、更には「その軍事的な中心であった大野城の南麓に大宰府の官衙が威容をなす景観の出現を想像すると、その磁場の中心が筑紫大宰と解することにいささかの躊躇を覚える。」と、水城や山城に防衛された城塞都市太宰府を一地方長官の筑紫大宰の役所とすることに「躊躇」を示されています。そして、「7世紀末に筑紫大宰が、現在地で確立されたことは認められるが、溯って当初のマスタープランの端緒では核心的存在に相応しい権力の発現がなされたのではないだろうか。」とまで述べられているのです。
 「核心的存在に相応しい権力の発現」とはすごい表現だとは思いませんか。大和朝廷一元史観にとっての「核心的存在に相応しい権力」とは大和朝廷の天皇のこと以外にあり得ません。その「発現」が城塞都市太宰府だと言われているのです。すなわち、太宰府建設の基本計画は大和朝廷の天皇のための「王都」建設だと言っているのと同じなのです。ですから、先に紹介した「遷都ともいうべき相当の覚悟があったと考えてよい。」などという表現が用いられているのも理由があったのです。
 わたしには赤司氏や太宰府当地の研究者が、こうした見解、太宰府「大和朝廷の王都」説(あるいは王都予定地説)に至らざるを得ない理由はよくわかります。列島内に類例を見ない巨大防衛施設の水城、そして太宰府を取りまくように配置されている山城群(大野城・基肄城・阿志岐山城)を日夜目にしている現地の研究者であれば、その地が抜きん出たただならぬ地であることは一目瞭然だからです。
 たとえば、九州歴史学の重鎮、田村圓澄氏も率直に次のような疑問を呈されていました。
 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁1期の頃:古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和六二年刊。
 太宰府現地の研究者が太宰府「大和朝廷の王都」説(あるいは王都予定地説)に至ろうとしていることは学問的にも歴史的にも画期的な動きです。何故なら、太宰府「大和朝廷の王都」説は九州王朝説とほとんど紙一重の距離にまで近づいているからです。太宰府が大和の天皇のための都か、現地九州の天子のための都かという、その一線を越えられるか否かの位置にある仮説なのです。
 天動説から地動説へ移り変わった時代と同じように、大和朝廷一元史観から九州王朝・多元史観への一線を、勇気ある研究者が自らの良心に従い飛び越えようとする歴史的瞬間を間近にした時代をわたしたちは生きているのです。


第259話 2010/05/04

井上信正説の運命

 先日、京都府立総合資料館に行ったとき、目にとまった本がありました。『古代文化』2010年3月VOL.61です。同誌には「日本古代山城の調査成果と研究展望(上)」が特集されており、神籠石などを含む古代山城の最新研究動向(ただし大和朝廷一元史観)を概観する上で参考になります。また、近年発見された二つの神籠石(阿志岐城跡・唐原山城跡)の解説も掲載されており史料価値が高く、古田学派・多元史観の皆さんにもご購読をすすめます(定価2500円・税込み)。わたしも四条通のジュンク堂まで行って購入しました。

 同誌の中で最も注目した論稿が赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」でした。赤司氏は論文の中で、大宰府政庁2期や観世音寺よりも条坊が先行するとした井上信正説を紹介され、「大変魅力的な説」と賞讃されています。わたしも井上説は大変魅力的と考えていますが、井上説を論理的に突き詰めると藤原京よりも太宰府条坊が先だって成立したことになり、通説(大和朝廷一元史観)にとって致命的な「毒」を井上説は含んでおり、一元史観の学界においてどのように遇されるのか興味津々と「心配」を表明したことがありました(第219話 観世音寺創建瓦「老司1式」の論理)。そうした意味では、井上説が無視されることなく、福岡県内の研究者ではありますが赤司氏に評価されていることに安堵しました。

 しかし、問題はここからです。井上説を評価する赤司氏は、条坊都市太宰府が藤原京よりも先行して成立したとはされていないのです。両都市の先後関係を直接的には断定されておられませんが、「王都(藤原宮:古賀注)の整備と併行して、大宰府の造営もなされた」という文面からして、太宰府条坊と藤原京は同時期の成立と赤司氏は考えられておられるようです。
 これまでわたしが度々指摘してきましたように、観世音寺創建瓦の老司1式は藤原宮の瓦に先行するというのが、従来の考古学土器編年だったのですから、太宰府条坊成立が観世音寺よりも早いとする井上説を認めるのなら、太宰府条坊は藤原京よりも成立が早く、日本最初の条坊都市としなければならないはずです。 土器の相対編年を得意とする日本考古学界が、大和朝廷一元史観に不都合なこの土器編年の問題から目をそらし、井上説の都合の良い部分だけを「利用」するの学問的態度とは言い難いのではないでしょうか。もっとも、それでも赤司氏は太宰府条坊と藤原京が同時期成立とされているようなので、従来の学界の態度よりも半歩前進と評価すべきなのでしょう。(つづく)


第258話 2010/05/04

多利思北孤の学問僧たち

『日本書紀』推古31年(623)条の新羅と任那からの仏像一具・金塔・舎利貢献記事が九州王朝への記事となると、その後に記された新羅使節と一緒に唐より帰庫した学問僧たちも九州王朝が派遣した人物ということになります。
 そこには恵齊・恵光・恵日・福因等の名前が記されていますが、彼らこそが『隋書』イ妥国伝に記された、大業3年(607)に多利思北孤が隋に送った「沙門数十人」の一員だったのではないでしょうか。少なくとも時期的にはピッタリです。彼らは中国で仏法を16年ほど学んだことになりますが、その間、中国で
は隋が滅び、唐王朝が成立します。また、倭国では多利思北孤が没します。
 このような東アジアの激動の時代に彼らは異国の地で仏法を学んだのでした。恐らくは、帰国を果たせなかった沙門たちもいたことでしょう。この後、倭国は唐や新羅との関係悪化が進み、運命の白村江戦へと激動の時代に向かっていきます。


第257話 2010/05/03

盗まれた弔問記事

 九州王朝の難波天王寺が、後に近畿天皇家により聖徳太子が建立した四天王寺のことにされたとする仮説を発表してきましたが、この仮説は更に『日本書紀』 に記された四天王寺関連記事中にもまた、九州王朝の難波天王寺の記事を盗用したものがあるのではないかという新たな史料批判の可能性をうかがわせてくれま す。
 こうした視点で『日本書紀』を精査したところ、推古31年(623)条に新羅と任那からの使者が来朝し、仏像一具と金塔・舎利などを貢献してきたので、仏像を葛野の秦寺に置き、その他の金塔・舎利などを四天王寺に納めたという記事があることに注目しました。この四天王寺は九州王朝の難波天王寺のことではないかと考えたのです。
 難波天王寺は九州年号の倭京2年(619)に完成していますから、その4年後に新羅と任那は九州王朝に仏像や舎利を贈り、難波天王寺に金塔・舎利を納めたものと思われます。何故なら推古31年(623)は九州年号の仁王元年にあたり、その前年に日出ずる処の天子である多利思北孤が没しているからです。隣国の天子が亡くなった翌年に仏像や舎利を贈るという、この使節の目的は弔問以外に考えられません。しかも多利思北孤は篤く仏教を崇敬した菩薩天子なのですから、それに相応しい贈り物ではないでしょうか。
 『隋書』イ妥国伝にも、新羅や百済がイ妥国が大国で珍しい物が多く、これを敬迎したと記されています。また、常に通使が往来するとも記されており、関係が緊密であったことがうかがえます。こうした関係から考えても、多利思北孤が亡くなった翌年に遣使が来るとすれば、弔問と考える他ありません。まかり間違っても、九州王朝を素通りして近畿の推古に贈り物をすることなど、九州王朝説に立つ限り考えられないのです。
 従って、弔問使節が持参した仏像や舎利などが納められた寺院は九州王朝の寺院であり、推古31年条に見える四天王寺は九州王朝の難波天王寺と考えざるを得ません。この時の奉納品が四天王寺に存在していたことは、「太子伝古今目録抄所引大同縁起延暦二十二年四天王寺資財帳逸文」にも記されていますから、まちがいなく現四天王寺=九州王朝難波天王寺に納められたのです。
 このように、現四天王寺を九州王朝の難波天王寺と考えると、『日本書紀』に盗用された九州王朝の事績を洗い出すことが可能となるケースがあります。『日本書紀』以外の四天王寺関連史料も同様の視点で史料批判することにより、九州王朝史の復原が進むのではないかと期待されるのです。


第256話 2010/05/02

正倉院の中の「評」史料

 今日は久しぶりに京都府立総合資料館に行って来ました。自転車で鴨川沿の道を走りましたが、比叡山や如意ヶ嶽(大文字山)の新緑が青空に映えて、とても快適でした。資料館では都合三時間ほど図書を閲覧したのですが、最近の論稿なども含め、収穫が大でした。
 特に今回の目的の一つは、東野治之氏の『日本古代木簡の研究』(昭和58年)の閲覧でした。というのも、正倉院に「評」史料が存在するという論文を以前同書で読んだ記憶があったので、その論文を再確認したかったからです。
 ご存じのように大和朝廷は『日本書紀』や『万葉集』などで、700年以前の「評」を「郡」に書き換えており、故意に評制史料の隠滅をはかったと考えられてきました。しかし、膨大な評制史料である庚午年籍に関しては近畿天皇家は長期にわたり保存・書写を命じており、評制史料の取扱いは一様ではなかったのでは ないかと、わたしは考えてきました。古田先生からは正倉院文書に評制史料がないという指摘も受けていたのですが、東野氏により、正倉院内にも「評」史料が存在することが報告されていたので、同論文に深い関心を持っていたのです。
 その論文は「正倉院武器中の下野国箭刻銘についてーー評制下における貢進物の一史料」というもので、正倉院に蔵されている50本の箭(矢)に「下毛野那須 郷※二」※(仝のエが干)という刻銘があり、従来、「那須郷」と判読紹介されていたのは誤りで、正しくは「奈須評」であることを字形や他の根拠から論証され、この50本の箭は評制の時代のものであるとされたのです。
 確かに、「下毛野」という国名の次にいきなり「那須郷」とあるのは不審です。やはり国名の次には「郡」か「評」であるのが通例です。字形に至ってはとても 「郷」と読めたものではなく、他の木簡の字形と比較しても「評」と読むべきものでしたから、東野氏の指摘には説得力があります。
 東野氏はこの箭以外にも正倉院に「評」史料があることを紹介されています。それは『書陵部紀要』29号(1978年)に報告されている「黄施*幡残片」の墨書で、「阿久奈弥評君女子為父母作幡」と「評」銘記されています。この幡はその様式や評制の時代という点から見て。法隆寺系の混入品と見られています。 このように正倉院には「評」史料が現存しており、やはり大和朝廷での「評」史料の取扱は一様ではなかったと考えざるを得ないのです。
  施*は、方偏の代わりに糸偏。JIS第3水準ユニコード7D41


第255話 2010/05/01

『古代に真実を求めて』

   第13集発刊

 古田史学の会の論集『古代に真実を求めて』第13集が明石書店より発刊されました。古田史学の会の2009年度賛助会員には会則に従って発送しました。一般書店でもお取り寄せ、お求めできます。定価2400円+税です(257頁)。
 13集には古田先生の講演録1編(日本の未来−日本古代論-、2009年講演)の他、会員による9論文が収録されており、古田史学・多元史観による最新研究成果が報告されています。
 中でも、伊東義彰さんの「太宰府考」と拙論「太宰府条坊と宮域の考察」は九州王朝の首都太宰府研究に関する最新の考古学的知見に基づいたもので、是非、
ご一読いただければと思います。正木裕さんの「『日本書紀』の「三四年遡上」と難波遷都」も氏の近年の研究成果がまとめられており、示唆的です。四国松山
の合田洋一さんからは2論文(「越智国の実像」考察の新展開、娜大津の長津宮考)が寄せられました。いずれも現地調査に基づかれた力作です。その他の論文
も貴重な視点や発見が含まれており、読み応えのある一冊となりました。

『古代に真実を求めて』第13集目次
○巻頭言  水野孝夫
○特別掲載 日本の未来ーー日本古代論 古田武彦講演録
○研究論文
 北部九州遠賀川系土器はロシア沿海州から伝わった  佐々木広堂
 『日本書紀』の「二国併記」と漢の里単位問題  草野善彦
 太宰府条坊と宮域の考察  古賀達也
 太宰府考  伊東義彰
不破道を塞げ 三 ーー天子宮が祀るのは、瀬田観音にいた多利思北孤  秀島哲雄
「越智国の実像」考察の新展開 ーー「温湯碑」建立の地と「にぎたつ」  合田洋一
 『日本書紀』の「三四年遡上」と難波遷都  正木 裕
  娜大津の長津宮考 ーー斉明紀・天智紀の長津宮は宇摩国津根・長津の村山神社だった  合田洋一
 淡路島考 ーー国生み神話の「淡路洲」は瀬戸内海の淡路島ではない  野田利郎
○付録
 古田史学の会・会則
 「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
 第14集投稿募集要項/古田史学の会 会員募集
 編集後記


第254話 2010/04/25

 

二つの四天王寺

 現在の四天王寺は、元々は九州王朝が倭京二年(619年)に創建した天王寺だったとする私の仮説には、実は越えなければならないハードルがありました。 それは、『日本書紀』に建立が記された四天王寺は何処にあったのか、あるいは建立記事そのものが虚構だったのかという検証が必要だったのです。
 崇峻紀や推古紀に記された四天王寺建立記事が全くの虚構とは考えにくいので、わたしは本来の四天王寺が別にあったのではないかと考え、調べてみました。すると、あったのです。
 難波宮跡の東方にある森之宮神社の社伝には、もともと四天王寺は今の大阪城公園辺りに造られたとあるのです。あるいは、平安期の成立とされる『聖徳太子 伝暦』に、玉造の岸に始めて四天王寺を造ったとの記録もありました。遺跡などの詳細は不明ですが、今の大阪城付近に初めて四天王寺が造られたとの伝承や史料があったのです。
 これらの事実は、現在の四天王寺は九州王朝の天王寺であって、『日本書紀』の記す四天王寺ではないとする、私の仮説にとって偶然とは言い難い大変有利な証拠でもあるのです。このことを4月17日の関西例会で報告したのですが、この「二つの四天王寺」問題と「九州王朝の難波天王寺」仮説は、『日本書紀』の 新たな史料批判の可能性をうかがわせます。このことも、追々、述べていきたいと思います。
 なお、4月の関西例会での発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・4月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 禅譲・放伐、他(豊中市・木村賢司)

2). 古田史学の会に参加して(東大阪市・萩野秀公)

3). 豊雲野神(大阪市・西井健一郎)
 1)豊日の国の祖神・豊雲野神 2)豊の位置の探索

4). 九州王朝と菩薩天子(川西市・正木裕)
 多利思北孤等九州王朝の天子が「菩薩天子」を自負していたと考えれば、以下の仮説が提起できる。
  1. 筑紫君薩夜麻の「薩」は菩薩思想を表す彼の中国風一字名である。なお「讃・珍・済・興・武」や七支刀に刻す「倭王旨」の「旨」、人物画像鏡の「日十大王年」の「年」等(磐井の磐・壹與の與もそうか)から、九州王朝の天子は中国風一字名を併せ持っていたと考えられる。
  2. 薩夜麻の為に大伴部博麻が「身を売った」とされる行為は、菩薩天子に対する仏教上の「捨身供養」である。博麻への恩賞はこれに伴うもので、持統四年九州王朝はその授与権をしっかりと有していた。(これは天武末期から持統初期の叙位・褒賞等記事の主体問題に繋がる)
  3. 『隋書』に記す、開皇二十年(六〇〇)の多利思北孤の親書に対し、隋の高祖が「大いに義理なし」と非難したのは、地上の権威と宗教(仏教)上の権威を併せ持つ統治形態・施政方式に対するものである。

5). 二つの四天王寺(京都市・古賀達也)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・『倭姫命世記』の「櫛田宮」「宇礼志」・他(奈良市・水野孝夫)


第247話 2010/03/07

菩薩天子と現人神

 法隆寺建立当初(七世紀初頭頃)の本尊が、夢殿の救世観音だったとするわたしの仮説が正しければ、多利思北孤は自らを菩薩天子と認識していたのみなら
ず、自らの姿に似せた菩薩像を本尊としたことになります。ここに新しいテーマが出現するのです。それは日本仏教思想史上のテーマです。
 すなわち、仏教国において、時の最高政治権力者が自らに似せた仏像を崇拝の対象にさせたというテーマです。このような先例が古代アジアの仏教国にあった
のかどうか、今後調べてみたいと思いますが、権力者の仏教信仰において、まず思い起こされるのが中国南朝梁の武帝の逸話ではないでしょうか。
 梁の武帝は仏教を深く信仰し、度々仏前に捨身し三宝の奴と称したほどで、この時代、南朝では仏教が興隆しました。日本でも聖武天皇が自らを「三宝の奴」と
称した宣命が『続日本紀』に記されていることは有名です(天平勝宝元年四月:749)。
 こうした例から、権力者が仏教に帰依している、いわゆる仏教国においては仏法僧の三宝が上位で、世俗の権力者が相対的に下位にあるものと、わたしはこれま
で理解していました。ところが、仏教国である九州王朝倭国では世俗権力のトップが菩薩天子となり、その姿に似せた菩薩像を崇拝の対象にさせたとすれば、何
とも異質な宗教観が倭国には存在していたように思われるのです。おそらく、キリスト教国やイスラム教国では絶対に起こり得ない現象ではないでしょうか。も
ちろん、一神教と多神教の差異がありますので、単純な比較はできないでしょうが。
 それでは、こうした「異質」な宗教観は多利思北孤の時代に始めて成立したのか、それともずっと以前からあったものなのでしょうか。おそらく、日本列島や倭
国において、仏教伝来以前から存在した宗教観のように思われます。それは、『日本書紀』の景行紀や雄略紀に見える「現人神」(あらひとがみ)という表現に
表された、神が人間の姿となって現れる、あるいは「天皇」を現人神とする宗教観が淵源ではないかと考えています。『万葉集』に見える「大君は神にしあれ
ば」という表現も同類の思想です。
 すなわち、九州王朝では天子やトップを「現人神」とする伝統があり、仏教を受け入れて以降は「現人仏」「現人菩薩」「菩薩天子」などへと「発展進化」した
のではないでしょうか。中国での「菩薩天子」「如来天子」思想の調査研究を含めて、新たな研究テーマにしたいと思います。(つづく)


第244話 2010/02/07

『古田史学会報』96号の紹介

 『古田史学会報』96号が発行されました。今号には正木さんと西村さんの秀逸な論文が掲載されています。どちらにも九州王朝史研究にとって貴重な方法論と仮説が提示されています。
 九州年号と『日本書紀』中の遷都遷宮記事との関連性を情況証拠と作業仮説の積み上げで肉薄を試みられた正木稿。7世紀後半の筑紫率である栗隈王は九州王朝の王族であるから、その孫の橘諸兄も九州王朝の王族で、九州王朝滅亡後に大和朝廷の左大臣まで上り詰めたとの骨太な論証を展開された西村稿。双方ともと
ても重要な研究と方法論と思われました。この方法論を更に援用展開することにより、失われた九州王朝の歴史が復原作業が進むものと期待されます。
 なお、最近『古田史学会報』への投稿が少なく、編集割付作業に苦労しています。投稿や地域の情報提供など、よろしくお願いいたします。

  『古田史学会報』96号の内容
○九州年号の改元について(後編) 川西市 正木裕
○橘諸兄考 —九州王朝臣下たちの行方— 向日市 西村秀己
○第六回古代史セミナー〜古田武彦先生を囲んで〜
  日本古代史新考自由自在(その二) 霧島市 松本郁子
○古賀達也の洛中洛外日記より転載
  纏向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない 京都市 古賀達也
○「人文カガク」と科学の間「科学の本質は自己修正的である事だ」カールセーガン
 「古田史学を語る会・奈良」太田齊二郎
○梔子(3) **古田武彦『古代は輝いていた』より** 深津栄美
○伊倉 十二 —天子宮は誰を祀るか—  武雄市 古川清久
○史跡めぐりハイキング古田史学の会・関西
○年頭のご挨拶 代表 水野孝夫
○古田史学の会関西例会のご案内
○割付担当の穴埋めヨタ話(2) 綱敷天神の謎 西村秀己


第243話 2010/02/06

前期難波宮と番匠の初め

 第224話において、寺井誠氏の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号 2008/11/29 九州考古学会)を紹介しましたが、そこで指摘された前期難波宮から北部九州の須恵器が出土しているという考古学的事実が何を指し示すのか、どのような証明力を有するのかをずっと考えてきました。

 というのも、通説通り前期難波宮が孝徳の王宮であれば、その建設に北部九州の工人達も参加したということになり、前期難波宮が九州王朝の副都であったという特段の証明力にならないという反論が予想されたからです。しかも、前期難波宮からは北部九州以外の土器も出土していますから、尚更です。
 こうした学問上の論証力という視点から、寺井論文の持つ意味についてより深い考察が必要と考え続けてきたのです。そして、寺井論文を何度も熟読するうちに、やがて論点がはっきりと見えてきたのです。その結論は、寺井論文はわたしの前期難波宮九州王朝副都説を間違いなく証明する貴重な考古学的事実を指し示しているというものでした。
 寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。
 この事実は重大です。何故なら、土器だけが難波に行くわけではなく、当然糸島博多湾岸の人々の移動に伴って同地の土器が難波にもたらされたはずです。そうすると九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなり、九州王朝説に立つならば、前期難波宮は孝徳の王宮などでは絶対に有り得ません。
 何故なら、もし前期難波宮が通説通り孝徳の王宮であるのならば、九州王朝は大和の孝徳のために自らの王宮、たとえば「太宰府政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を自らの中枢領域の工人達に造らせたことになるからです。こんな馬鹿げたことをする王朝や権力者がいるでしょうか。九州王朝説に立つ限り、こうした理解は不可能です。寺井氏が指摘した考古学的事実を説明できる説は、やはり九州王朝副都説しかないのです。
 しかも、九州王朝の工人たちが前期難波宮建設に向かった史料根拠もあるのです。その史料とは『伊予三島縁起』で、この縁起は九州年号が多用されていることで、以前から注目されているものです。その中に「孝徳天王位。番匠初」という記事があり、孝徳天皇の時代に番匠が初まるという意味ですが、この番匠とは 王都や王宮の建築のために各地から集められる工人のことです。この番匠という制度が孝徳天皇の時代に始まったと主張しているのです。すなわち、九州から前期難波宮建設に集められた番匠の伝承が縁起に残されていたのです。「番匠の初め」という記事は『日本書紀』にはありませんから、九州王朝の独自史料に基づいたものと思われます。
 このように寺井論文が指摘した糸島博多湾岸の須恵器出土と『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という、考古学と伝承史料の一致は、強力な論証力を持ちます。ちなみに、『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という記事に着目されたのは正木裕さん(古田史学の会会員)で、古田史学の会関西例会で発表されました。ここまで論証が進むと、前期難波宮九州王朝副都説は揺るぎなく確立された最有力説と思うのですが、いかがでしょうか。


第241話 2010/01/23

謡曲と九州王朝

 新年最初の関西例会では、正木さんから能楽・謡曲の中に九州王朝の痕跡が見えることなどが報告されました。謡曲と九州王朝の関係については、新庄智恵子さんによる先駆的な研究(『謡曲のなかの九州王朝』新泉社刊、2004年)がありますが、新庄さん同様に能楽・謡曲に詳しい正木さんから、より周密な研究報告が関西例会でなされてきました。
 特に今回の発表で驚いたのが、謡曲「白楽天」に見える国名表記で、「日本」と「和国」が混在しており、「和国」の部分が見事な七五調となっており、明らかに別史料からの転用と思われることでした。おそらく「和国」とは九州王朝「倭国」が原形で、この部分は九州王朝歌謡に淵源するものではないでしょうか。
 謡曲と九州王朝、あるいは古典文学と九州王朝の研究は、九州王朝歌謡・九州王朝文学の復原という可能性をうかがわせ、楽しみな研究分野です。正木さんの今後の研究成果に期待したいところです。

 1月関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・1月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 伊予水軍・他(豊中市・木村賢司)

2). 県・県主について(豊中市・木村賢司)

3). 謡曲と九州王朝2(川西市・正木裕)
 謡曲「白楽天」中の「住吉(の神)」について、本来は摂津住吉(の神)ではなく筑紫博多湾岸の「住吉(の神)」である事、また、謡曲「岩船」中の「如意宝珠」伝来の伝承は九州王朝のもので、舞台の「住吉」も博多湾岸である事を示した。
1.「白楽天」は、唐太子の賓客とされる白楽天が日本に渡るが、住吉神に唐土に吹き戻される能。渡った先は「筑紫の海」で、舞台は「松浦潟」の海上。そこに「西の海、檍が原の波間より、住吉の神」が現われ出るのであり、これは一義的に筑紫の事と考えるべき。この点、福岡には住吉神社が多数存在し、中でも姪浜住吉神社は、古田氏が伊邪那岐の禊場所とされる「筑紫の日向の橘の小戸の檍原」の「小戸」付近にあった(現在は少し内陸部に移転)もので、「檍が原の波間より」の句に一致する。
 また「高砂」では住吉神を神松とし、「生の松」を名所と謡うが、姪浜住吉神社は「生の松原」に隣接し、神功皇后の植えたという「逆松(生松)」も同松原に存在した。博多区の住吉神社や福岡城にも神松の伝承があり、大宰府が舞台の謡曲「老松」も神松が主役等、博多湾岸には神松伝承が集中する。
 「白楽天」の住吉神は筑紫住吉の神で、曲の句(檍が原)と国産み神話が一致する事や神松伝承から、その由来は摂津住吉より遥かに古く、本来の住吉の神は筑紫の神だったと考える。

2.「岩船」の舞台は「摂津国住吉の浦」。しかし曲中天の探女が「如意宝珠」を帝に捧げる為に来たとあるが、如意宝珠は『隋書イ妥国伝』に「如意宝珠有り。其の色青く、大なること鶏卵の如し。夜則ち光有り、魚の眼精也と云ふ。」と阿蘇山と並び記される通りイ妥国=九州王朝の象徴である。
 また、帝は住吉に高麗・唐土と貿易を始める為市を設けると言い、曲中に「運ぶ宝や高麗百済。唐土舟も西の海」とあるが、『隋書』で「新羅、百濟皆イ妥を大国で珍物多しとし、敬仰し常に通使往来す」とされ、『魏志倭人伝』で、対海国(対馬)では「船に乗り南北の市に糴(交易)す」と、九州北岸と半島の「市」間の活発な交易を記す通り、高麗百済との交易拠点も「イ妥国=九州」だった。
 また、「西の海。檍が原の波間より。現はれ出でし住吉の。」と住吉神が謡われ、住吉の松も「宮柱」と讃えられるのは「白楽天」同様である事からも、この住吉も筑紫と考えられる。
 なお宇佐八幡宮文書中に、「筑紫の教到四年(五三四)」に天竺摩訶陀国より如意珠が渡来したとあり(古賀氏の発見・洛中洛外日記第一七四話)、これも岩船の原典が筑紫で、相当古い事を示すものだ。
 また、現在姪浜住吉神社に、豊漁や航海安全を祈願し、木製の玉を激しく奪い合う「玉競(たませせり)祭」が伝わるが、これは住吉の如意宝珠伝承とも関連するものではないか。

4). 「薬猟」の虚構(川西市・正木裕)
 『書紀』推古紀等には「五月五日の薬猟」が五回記述される。この内、推古十九年記事の薬猟における額田部比羅夫連等の先導や装束の記述部分は、その直前の推古十八年の新羅・任那使人の歓送迎記事からの盗用である事、薬猟は『書紀』の記述の様な煌びやかなものでも、重要な行事でもなかったことを「万葉三千八百八十五番歌」や、隋使歓迎記事等での額田部比羅夫の役割から明らかにした。
また薬猟記事に日の干支が無いのは、推古十八年十月の記事を盗用すれば推古十九年五月五日の干支と合わないことが主たる原因であり、この記事が『書紀』編纂において、干支の調整を済ませてからの盗用であることを示すものと考えられる。盗用の動機について、古田氏が指摘する「白村江直前の猟における九州王朝の大王の不慮の死」を隠すためではないか、との仮説を提示した。

4). 倭人伝の地名比定とその領域(豊中市・大下隆司)

5). 魏志は「漢音」で読むべきだ(富田林市・内倉武久)

5). 巨大古墳の環境破壊に伴う九州王朝の関西進出(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・初詣、矢田坐久志玉比古神社・他(奈良市・水野孝夫)

試みに、連携として正木氏の例会報告を掲載致します。通常は4).のように四〇〇字以内で収録の予定。


第240話 2010/01/11

2010年も古代に真実を求めて

 明けましておめでとうございます。2010年も古代に真実を求めて頑張りたいと思います。
 昨日は古田先生をお迎えして「古田史学の会・新年賀詞交換会」を大阪で開催しました。古田史学の会・仙台の青田さんや古田史学の会・東海の竹内さん林さん、古田史学の会・四国の合田さん等、各地から多数の会員にお越し頂き、旧交を温めました。古田先生も変わらずお元気で約3時間にわたり熱弁をふるわれました。これからも先生のご長寿と研究の発展を祈念し、古田史学の会としても総力をあげて支援していきたいと考えています。
 2009年の関西例会で発表された研究において、7世紀の九州王朝史復原や大和朝廷との権力交代の実態について、激しい論争を通じて検討が深められたように思われます。昨年12月の関西例会においても、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人・会計)からの、大和朝廷で左大臣まで上り詰めた橘諸兄が九州王朝王族の子孫だったという発表は衝撃的でした。その論証の詳細は『古田史学会報』96号に掲載されますので、ご参照下さい。
 もしこの西村説が正しければ、九州王朝の有力者が少なからず大和朝廷の高級官僚になっていたことが推察され、王朝交代の実態が禅譲なのか放伐なのかという、古田学派内での永年の論争テーマの解決に寄与できるかもしれません。いずれにしても、2010年の関西例会での研究の深化を予感させる仮説です。
 12月関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 京都「泉屋博古館」を見学・他(豊中市・木村賢司)

2). 橘諸兄・考(向日市・西村秀己)

3). 古田武彦・第6回古代史セミナー報告(豊中市・大下隆司)

4). 天武紀の地震記事と九州王朝(川西市・正木裕)
 天武紀には天武七年(六七八)の筑紫大地震はじめ、十七回もの地震記事が記録され、『書紀』中でも群を抜く。筑紫大地震以降の十六回中十二回はその余震と見られる事、火山活動に伴う降灰・雷電が記されている事等から、『書紀』のこの部分は筑紫の記事、即ち九州王朝の記録と考えられる。この時期風水害や降雹記事もあり、白村江敗戦に追い討ちをかける、度重なる天災により筑紫の疲弊は甚だしかったと推測される。
 一方、『書紀』天武十三年(六八四)の白鳳大地震は、東海・東南海・南海地震の同時発生と考えられ、被災地は筑紫ではなく東海・近畿・四国であるから、これは近畿の記事である。
 そして、この年九州年号が「朱雀」と改元されており、近畿での地震被害が改元の契機であれば、九州王朝はこの時点で拠点を近畿、その中でも副都たる難波宮に移していた事となる。これは難波宮焼失の天武十五年に九州年号が「朱鳥」に改元されていることからも裏付けられる。
 この間に九州王朝の筑紫から難波への移転がおき、近畿天皇家への権力移行期である天武末期から持統期に、両者は地理的にも近接して存在していたと考えられるのではないか

5). ホンマかいな?奈良の邪馬台国(木津川市・竹村順弘)

6). おシャカさんはなぜ死んだか(生駒市・五十嵐修)

7). 能楽と九州王朝(川西市・正木裕)
 十四世紀に観阿弥・世阿弥が大成した能楽の中に、九州王朝の芸能が取り込まれている事を謡曲「綾鼓」や「芦刈」より検証した。
 1.「綾鼓」は、世阿弥の書から古伝もとづく作品とされているが、斉明の「忌み殿」であるはずの筑紫朝倉木の丸殿に皇居があり、臣下・女御がいたとするなどの不自然さが見られる。
 一方、木の丸殿の北「麻底良山」には、古田武彦氏が九州王朝の天子筑紫君薩夜麻とされる「明日香皇子」が祀られ、南には古賀氏が九州王朝の天子とされる「天の長者」が造った「天の一朝堀」(『書紀』では斉明が「狂心の渠」を造ったとある)、東には「久喜宮」「杷木神護石」がある等から「綾鼓」は筑紫を舞台とした演芸を、原典を生かして世阿弥が再構成したものと考えられる。
 2.「芦刈」も、古い能をもとにして世阿弥が今の形に作ったと考えられているが、シテ(主人公)が活躍する「日下」は内陸部の「河内」に属し、難波の浦の景色は望めないのに、曲では「摂津」難波が舞台とされ海辺の秀でた情景がテーマとなる等、曲の内容と場所に矛盾がある。
 一方で、博多湾岸には草香(草香江)があり海浜の情景描写に適合し、曲中の聞かせ所・見せ所の「笠の段」に謡われ・舞われる「笠尽くし」も摂津難波では「笠」の意味が不明だが、博多湾近郊には御笠、御笠川、御笠山などの「笠」地名と謂れ・伝承が集中する。同じく「笠の段」中の「田蓑島」も、博多湾岸の草香江付近には「田島」「蓑島」が存在する。 「笠の段」は「博多湾岸」の名所を歌ったものとして極めて自然であり、筑紫を舞台とした原曲を分解しその一部を取り込み、舞台・場所や人物を変え世阿弥が再構成したものと考えられる。
 以上「綾鼓」や「芦刈」の原典は九州王朝の曲・演芸であり、これを中世に観阿弥・世阿弥らが再構成したもので、こうした手法は他の能楽「老松・檜垣・布刈・高砂・難波・竜田・磐船他」にも見られると考えられる。

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・柿本人麻呂を祀る神社・他(奈良市・水野孝夫)

2010.1.16 試みに、正木氏の例会報告を掲載。