九州王朝(倭国)一覧

第295話 2010/12/04

平城宮大極殿に立つ

 先日、奈良の平城宮址に行ってきました。遷都1300年祭のイベントが終了した後だったので見物客もまばらで、復原された大極殿をゆっくりと見学することができました。
 平城宮址に行った目的の一つは大極殿の見学ですが、もう一つは先行して造られていた朱雀門を久しぶりに訪れることでした。というのも、この朱雀門建設の現場責任者で2009年1月に物故された飯田満麿さん(当時本会副代表・大林組OB)を偲ぶためでした。この大極殿完成を飯田さんも天国から喜んで見守って おられることでしょう。
 それではなぜわたしが大極殿を見たかったかというと、8世紀初頭における日本列島の代表者が君臨した宮殿と、中央集権的律令体制の官僚群が執務する朝堂の規模を体感したかったからなのです。
 710年に平城遷都した近畿天皇家は、その直前の列島の代表者たる九州王朝の権威と支配領域を「禅譲」であれ「放伐」であれ引き継いだのですから、九州王朝とほぼ同規模の宮殿と官僚組織、そして官僚達が執務する役所・官衙を有したはずです。それが平城宮の規模なのですから、逆説的に考えれば九州王朝も平城宮と同程度の官僚組織と役所・官衙が持っていたことになります。
 このような視点から7世紀後半の宮殿址・官衙址として九州王朝の都としてその条件を満たしている遺構は、まだ全貌が未調査の近江京を除けば、前期難波宮とその官衙群しかないのです。あるいは近畿天皇家の都とされる藤原宮だけなのです。
 このような論理性と考古学的事実に導かれて、わたしは見事に復原された平城宮大極殿に立った瞬間、前期難波宮九州王朝副都説の新たな論理的確信を深めたのでした。もしかすると亡くなられた飯田さんが、わたしを平城宮址に呼んでくれたのかもしれません。


第292話 2010/11/14

前期難波宮大規模官衙の論理

 前期難波宮九州王朝副都説について、この数年間わたしは繰り返しその論証や傍証について述べてきました。そしてこの説の当否が、九州王朝から大和朝廷へ の権力交代の研究にとって非常に重要な論点とならざるを得ないことも明白になってきたように思われます。7世紀後半の九州王朝の宮殿や王都を北部九州内に留まるものとするのか、あるいはわたしのように難波副都を含めたスケールで考えるのかで、その様相が大きく変わってくるからです。
 そこで、2011年は前期難波宮九州王朝副都説を考古学の面から検証すべく、『古田史学会報』に「ここに九州王朝ありき ー前期難波宮の考古学ー」という論文を連載しようと計画しています。
 その一論点は、九州王朝が全国に施行した評制による中央集権体制を支えた官僚組織とその役所である大規模官衙を有した宮殿は、7世紀中頃においては前期難波宮しかなく、その宮殿は「大宰府政庁」をはるかに凌駕し、更にその宮殿の西と東には大規模官衙群が出土しているという考古学事実こそ、ここが九州王朝副都であったと解する他無い論理性を有しているというものです。 評制を九州王朝の制度とする九州王朝説に立つ限り、その全国支配の為の行政施設遺構を提示できなければなりませんが、そのような大規模遺構は7世紀中頃の日本列島に於いて前期難波宮しかないのです。評制を施行し全国を統治した官僚群とその官衙が筑前や豊前にあったとしたい論者は、わたしが指摘するこの論理性をクリアできる考古学的事実を提示する学問的義務がありますが、それができた論者をわたしは知りません。


第290話 2010/11/02

神籠石山城の固有名称

古代の山城や軍事施設には当たり前ではありますが固有の名称があったはずです。例えば大野城や水城は『日本書紀』(天智紀)に記されていますので、一応 は九州王朝内でもそのように呼ばれていたものと思われます。しかし、北部九州に点在する神籠石山城それぞれの固有名称は残念ながら文献には残っていませ ん。 失われた神籠石山城それぞれの名前を復原できないかと考えているのですが、久留米出身のわたしの土地鑑の範囲内で試案を考えてみました。まず杷木神籠石で すが、これはそのものズバリの「はき」あるいは「はぎ」ではないでしょうか。「き」は「城」ですから、語幹は「は」です。「は城」が後に杷木の字が当てら れたと考えています。「は」の意味はまだわかりませんが。
次に高良山神籠石ですが、高良山の旧名が高牟礼山(たかむれ)であること、古くからの地主神が高木神とされ、麓には高樹神社があります。ですから、高良山神籠石山城の固有名称は「高城」(たかき・たかぎ)ではなかったでしょうか。
今のところこの二つしか試案は出せませんが、他の神籠石山城も地元の地名や神社名から固有名称を類推できるのではないかと期待しています。どなたか調査研究されませんか。


第289話 2010/11/01

「河野氏まつり」

永納山山城を見学した翌日の10月24日には、合田さんと一緒に松山市北条ふるさと館で行われた「河野氏まつり」(第20回河野氏関係交流会)に 行ってきました。河野水軍で有名な河野氏は、古代氏族越智氏の子孫とされ、風早国(旧北条市)を発祥の地としています。その北条地区で毎年行われている 「河野氏まつり」は様々なイベントがあり、是非参加されることをお奨めします。 古田史学の会・四国の会長でもある竹田覚さん(風早歴史文化研究会々長)が主催者として歓迎の挨拶をされて始まった「河野氏まつり」は、講演会や北条高校 の女子生徒による薙刀演舞や水軍太鼓演奏などがあり、若い人たちもまつりに花を添えました。町おこしとしても郷土愛を育む取り組みとしても、とても素晴ら しい内容でした。
中でも、北条地区を取り囲む四つの山(鹿島・恵良山・雌甲山・宅並山)からの狼煙の実演は、古代史研究の視点からも大変有り難いものでした。あいにくの 雨空で曇っていたのですが、山頂からの狼煙がふるさと館最上階にある展望台からはっきりと見えました。古代に於いて、狼煙が効果的な連絡手段であったこと を自分の目で確かめられたのですから、感動しました。
講演会場では来賓紹介の後、他府県からの参加者としてわたしもご紹介いただき、いささか照れました。できればまた行きたいと思いました。


第288話 2010/10/29

永納山山城を見る

10月23〜24日に四国へ行って来ました。23日は、合田さん(古田史学の会全国世話人)や今井久さん(古田史学の会・四国)のご案内で、永納 山山城を見学しました。四国で発見されたただ一つの神籠石山城とされていますが、今回実見した結果、いわゆる北部九州の神籠石山城との共通点や違いを確認 できました。
考古学界や古代史学界で、神籠石山城の定義が合意形成されているようには思えませんが、おおよそ次のような特徴が指摘できます。
(1)直方体状に加工された列石に囲まれており、その列石上に土塁がある。あるいは、柵なども設置されている。
(2)その列石と土塁の内部に水源があり、列石と水路の交点には石積みの水門がある。
(3)同じく内部に倉庫跡などがあり、「逃げ城」的性格が見て取れる。

永納山山城は列石が切石ではなく自然石であることが、この定義からは外れますが、その他は共通しているようです。従って、あえて定義命名するならば、「自然石利用型」神籠石山城と呼べるかもしれません。しかし、よく考えると「神籠石山城」という名称もあまり学問的論理的名称とは言えないのではないでしょうか。もともと、学界で長く続いた「神域説」と 「山城説」の論争があり、その神域説に基づいた名称が「神籠石」と呼ばれた歴史的背景だったからです(福岡県久留米市の高良山では学界論争以前から「神籠 石」という名称がありました。戦国末期の成立とされる『高良記』に「神籠石」と記されています)。その論争も発掘調査の結果、「山城説」で決着しているの ですから、神籠石山城という名称は論理的に矛盾しているのです。
そこで、より学問的な名称は無いものかと、永納山山城を見ながら考えたのですが、たとえば大野城などのような積石式山城が、「朝鮮式山城」と朝鮮半島の 古代山城との類似から呼ばれていることに倣えば、北部九州式山城と呼ぶのも一案ではないでしょうか。あるいは、九州王朝説の立場を明確にするのであれば、 ズバリ「九州王朝式山城」も良いかも知れません。その形状に着目するのであれば「列石・土塁式山城」というのもイメージしやすくて、考古学的な名称とは言 えないでしょうか。
これらを叩き台にして、まずは古田学派内での合意形成が図れればいいですね。なお、古田先生におたずねしたところ、「神籠石」というのは当て字であり、本来「コウゴイシ」には別の意味があったとされています。いずれ先生から詳しく発表されると思います。


第286話 2010/10/17

卑弥呼は桜井にいたか?

  昨日の関西例会では久しぶりにビデオ鑑賞を行いました。弥生時代の宮殿跡が出土した纏向遺跡の発掘調査担当者である橋本輝彦氏の講演ビデオで、演題は「卑弥呼は桜井にいたか?」(本年9月25日「先人に学ぶ人間学塾」主催)。木村賢司さんが撮影されたものです。
 纏向遺跡が「邪馬台国」ではないことは、第237、238,239話などで指摘しましたし、古田学派内では「邪馬台国」論争はとっくに終わっています。しかし、畿内説論者の言い分も知っておいたほうが良いという木村さんの配慮により、ビデオ鑑賞することになったものです。
 そして、木村さんの意見は正解でした。邪馬台国畿内説の非論理性というものが良く理解できたからです。中でも、纏向遺跡から出土した小規模鍛冶遺構の痕跡とされる鉄くず(カナクソ)の説明には驚きました。橋本氏は畿内と北部九州の勢力は当時友好的であった証拠として説明されたのです。すなわち、武器や農具の材料となる製鉄技術が先進地である北部九州から纏向にもたらされたのは、両者が友好的であった証拠とされたのです。
 北部九州の勢力と纏向遺跡にいた勢力が友好的だったとするのは大賛成ですが、それならば当時の倭国の代表者であった「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)は 製鉄の先進地である北部九州にあったとするのが、学問的論理性というものではないでしょうか。同講演会では最後に参加者からの質問がありました。もしわたしが参加していたら、必ずこの質問をしたと思いますが、「邪馬台国」畿内説の橋本輝彦氏がどう返答されるのか、興味津々です。なお、ビデオで見た橋本氏のお人柄は誠実そうな方でした。だからこそ、正直に製鉄の先進地は北部九州と言われたのでしょう。   
 10月度関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「尊卑・長幼」「近時中国寸評」(豊中市・木村賢司)

(2) ビデオ鑑賞「卑弥呼は桜井にいたか?」橋本輝彦氏講演(撮影・木村賢司)

(3) 磐井の乱の再検討(川西市・正木裕)
 『書紀』継体紀で、古田氏が九州王朝の天子「磐井」だとされる「委意斯移麻岐弥」(『書紀』では「穂積臣押山」)は、任那の四国や伴跛の己文*、加羅の多沙津を百済に割譲する等「親百済」で、これは当時の倭国の立場と一致する。逆に「近江毛臣」は南加羅等の新羅への割譲始め一貫して「親新羅」だ。
 従って毛臣が新羅討伐軍の大将とあるのは不自然だし、新羅から「磐井に」倭国への謀反要請があったとするのも、「磐井に」ではなく「毛臣に」であり、毛臣は新羅を討伐する側ではなく、新羅の要請で謀反を起し討伐される側と考えるのが自然だ。
 また毛臣が帰還の勅命に叛いたため、阿利斯等が謀反を企図し戦となった記事も、本来は毛臣の謀反・叛乱であり、これが「遂に戦ひて受けず」という磐井の叛乱記事として『書紀』に盗用されたと見るべき事を指摘した。
文* は、三水偏に文。JIS第3水準ユニコード6C76

(4) 大和川の水利(木津川市・竹村順弘)
(5) 後漢書・三国志の日付干支(木津川市・竹村順弘)

(6) 『日本書紀』と《『須田鏡』における男弟王の年紀》から割り出される真実(たつの市・永井正範)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・藤原不比等(顕彰)碑・神武東征とは南九州の話・他(奈良市・水野孝夫)


第285話 2010/10/12

「日の丸」の起源

10月9日の久留米地名研究会での講演会は御陰様で盛況でした。するどい質問もいただき、参加者の熱心さが伝わってきました。主催者の皆さまや参加していただいた皆さまにお礼申し上げます。
今回の京都からの往復の新幹線内では、『知っておきたい「日の丸」の話し』吹浦忠正著(学研新書)を読みました。著者はわが国における「国旗」研究の第一人者で、その博識ぶりが随所に記された好著でした。
中でも「日の丸」の起源について触れられた部分は参考になりました。氏の見解は「日の丸」は古代日本における太陽信仰に淵源するものとされていますが、 この点、古田先生と同見解です。更に、通例では「日の丸」の起源を『続日本紀』の文武天皇大宝元年正月朝賀の儀に飾られた日像が初見史料とされているよう ですが、著者はそれよりも早い時期に成立している法隆寺蔵「玉虫厨子」に描かれた日像、あるいは7世紀前半の珍敷塚古墳(福岡県)の壁画に描かれた太陽な どを起源として考えるべきではないかとされています。
いずれも九州王朝に関係しそうな史料・遺跡であることに興味を覚えました。もちろん、日本列島における太陽信仰は九州王朝以前から、恐らくは旧石器縄文 時代にまでさかのぼるものと推測されますが、「日の丸」に対して様々な視点から解説されている同書の読後感はとてもさわやかなものでした。


第284話 2010/10/02

久留米地名研究会 済み

 来る10月9日(土)に久留米地名研究会で講演をします。会場は「えーるピア久留米(久留米生涯学習センター)」(西鉄久留米駅から南徒歩10分)で午後1時半からです。演題は「筑後 地方の九州年号−九州王朝の地名研究とその方法−」で、九州年号を切り口にして九州王朝の実在を論じ、「九州」という地名が持つ論理性について触れます。 後半は具体的な地名研究の歴史学への応用として、『古事記』神武記の史料批判と北部九州の地名との関連を紹介する予定です。
 他方、筑後地方の九州年号や地名・神名調査の協力についてもお願いしたいと考えています。地名研究が歴史研究にどのように貢献できるかを参加者の皆さんと一緒に考える機会になればと楽しみにしています。
 下記に講演レジュメの一部を紹介します。ふるってご参加下さい。

1.九州年号の論理
1) 鶴峯戊申『襲国偽潜考』で古写本「九州年号」より九州年号を紹介。
2) 明治25年『日本史学新説』広池千九郎著 で古写本「九州年号」より九州年号を紹介。
3) 宇佐八幡宮文書『八幡宇佐宮繋三』元和三年(1617)五月、神祇卜部兼従編纂  「文武天皇元年壬辰大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り 給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ、」 ※〔 〕内は細注。
参考
九州年号・九州王朝説 ーー明治二五年 冨川ケイ子(会報68号)
「宇佐八幡宮文書」の九州年号古賀達也(会報五九号)

2.「九州」の論理
古田武彦氏との共著『九州王朝の論理』所収「九州」史料一覧参照

3.筑後地方の九州年号
『耳納』掲載「筑後地方の九州年号」参照

4.『古事記』神武記の地名と神名
○『古事記』「熊野村」「吉野河の河尻」「宇陀」「訶夫羅前」「井氷鹿(井光)」
○『筑後志』三瀦郡  「威光理明神社 同郡六丁原村にあり。」 「威光理明神社 同郡高津村にあり。」
参考
盗まれた降臨神話 『古事記』神武東征説話の新史料批判 古賀達也(会報48号)

5.「元壬子年」木簡の論理と衝撃
芦屋市三条九ノ坪遺跡出土(1996年)『市民タイムズ』(長野県松本市)2006/08/20 参照


第282話 2010/09/19

孝徳紀「東国国司詔」の新展開

 関西例会では大化改新詔の研究が進められていますが、その中心的研究者の正木さんが今回も新たな仮説を発表されました。それは、孝徳紀の東国国司詔の中に文武天皇の即位の宣命が挿入されているというものです。ちょっと恐い仮説ですがなかなか説得力のある論証が試みられました。会報での発表が期待されます。 
 竹村さんからは今回も多数の発表がなされましたが、中でも日本書紀訓註の一覧データは示唆的でした。日本書紀には難解な字などに訓註(読み)が施されて いますが、万葉仮名が整理統一される以前の古い史料に基づいたと思われる神代紀や神武紀に特に訓註が多く施されています。ところが、皇極紀・孝徳紀・斉明紀・天武紀にも他の天皇紀に比べて訓註が頻出しているのです。他方、天智紀は訓註がゼロです。
 この現象は日本書紀編纂時の原史料の性格の違いによるものと思われますが、この現象が竹村さんの一覧データにより明白となりました。このような史料のデータ化は文献史学の地道な基礎研究に属すると思いますが、こうしたデータが例会に報告されることは研究者として大変ありがたいことです。
 9月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 武烈を誰が殺(や)った(豊中市・木村賢司)

2). 菩薩は全て女性(豊中市・木村賢司)

3). 「評」の淵源についての若干の考察(川西市・正木裕)
「評」の淵源は、前漢代の「廷尉評(平)」にあり、後漢の光武帝は詔獄(警察・裁判)を所掌させ、魏・晋以後もその職は強化された。一方、「都督」の淵 源も光武帝代の督軍御史(督軍制)にあり、魏の曹丕は地方諸州の軍政を所掌する都督を初めて常設し、数万〜十数万の軍の指揮を執らせた。 この様に、金印を授かった後漢から、倭国が臣従した魏・晋朝にかけ都督と評は並存しており、そうした状況の下、倭国が都督—評督制を創設したことは想像に 難くない。

4). 西村干支計算表を使って、日本書紀の干支の比較検討(木津川市・竹村順弘)
1)朔日干支の記事分布とその概要 2)干支記事の偏在有無の検証 3)例外記事の考察 4)結語

5). 日本書紀訓註の謎(木津川市・竹村順弘)

6). こなべ古墳の被葬者(木津川市・竹村順弘)

7). 新羅本紀「阿麻来服」記事と「倭皇天智天皇」(大阪市・西井健一郎)

8). 東国国司詔の実年代(川西市・正木裕)
(1)『書紀』大化元年(六四五)八月の「東国国司招集の詔」の発せられた実年は、九州年号大化元年(六九五)であり、近畿天皇家が、九州王朝により任命されていた国宰の権限を剥奪・縮小し、律令施行に向け新職務を課す主旨。
(2)大化二年(六四六)三月の「東国国司の賞罰詔」は、文武二年・九州年号大化四年(六九八)に、近畿天皇家が、新政権への忠誠度や新職務の執行状況により、国宰を考査し処断・賞罰を行う旨の表明。
(3) 賞罰詔中に記す「去年八月」の詔とは、文武元年八月(六九七)の文武即位の宣命を指し、文武への忠誠と、国法遵守を命じたもので、これを基に賞罰が行われたと考えられる。

9). 三国史記と日本書紀の二倍年暦(木津川市・竹村順弘)

10). 日本第四紀地図とナラ山(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・牽牛子塚古墳見学会・他(奈良市水野孝夫)


第281話 2010/09/19

筑後の物部氏

第207話「九州王朝の物部」で、 九州王朝のある時期の王族は物部氏ではなかったかとする仮説を関西例会で発表したと述べましたが、その根拠の一つに高良玉垂命の系図(稲員家系図・松延家 系図・等)に玉垂命が物部であると記されていることにありました。あるいは高良大社文書の『高良記』にも玉垂命が物部であることは「秘すべし」とあり、も し外部に知れたなら「全山滅亡」とまで記されていることでした。
わたしは高良玉垂命は倭の五王時代の筑後遷宮した九州王朝の王たちではないかとする説を発表していましたから、そうすると倭の五王は物部氏になってしまうと考えざるを得ないことになったのです。もちろん、まだ断言できるほどの確信はありません。
そうしたことから、もう一つ気に掛かっていたのが、『和名抄』に記録されている筑後国生葉郡物部郷の存在でした。『太宰管内志』ではその物部郷は「今は 廃れてなし」とされており、所在地は謎に包まれていました。そこで、第222話「蘇我氏の出身地」で触れましたように、西村秀己さんの携帯による電話帳検 索により福岡県の物部さんの分布を調べてもらったところ、何とうきは市浮羽町に集中していたのでした。
わたしは福岡県内であれば筑豊地方に物部さんが多いと漠然と推定していたのですが、検索結果は浮羽町だったので、大変驚きました。そうすると物部郷も浮 羽町かその近隣にあったと考えて良いように思われます。ちなみに、わたしの本籍地は旧「浮羽郡浮羽町大字浮羽」でした。
そうすると、この物部郷の物部さんと高良大社玉垂命の物部との関係が気になりますが、今のところよくわかりません。また、浮羽郡在地の大氏族である「い くはの臣」と物部氏との関係も検討が必要です。10月9日(土)に久留米地名研究会主催で講演を予定していますので、この点を当地の皆さんにうかがってみ たいと考えています。


第277話 2010/08/15

太宰府の鬼門

 お盆明けには仕事で関東・新潟 へ出張するので、今日、そのお土産を買いに近所のお漬物屋さん出町野呂本店に妻と二人で行ってきました。その帰り道に「幸神社」と刻まれた石柱に気づき、何と読むのか妻に訊ねたところ、「さいのかみ神社」と呼ばれており、お猿さんの人形があるとのこと。すぐ近くなので寄ってみました。
 小さいがなかなかしっかりとした作りの神社で、北東の角に猿の彫り物が掲げられていました。幸神社はちょうど御所の鬼門(北東)に当たるため、鬼門封じの猿が社殿の北東に掲げられていたのです。
 京都御所の紫宸殿の塀の北東(猿ケ辻)に猿の彫り物が掲げられていることは有名ですが、ここにもあったのです。ちなみに御祭神は猿田彦大神で、天武天皇の白鳳(九州年号)年間に創建されたと案内板に記されていました。更に、ここは「出雲路」という地区で、歌舞伎の「出雲の阿国」もこの付近に住んでいて、幸神社の巫女をしていたことがあるとも記されていました。わたしは「出雲の阿国」はその名前から出雲(島根県)出身と勝手に思い込んでいたので、ちょっと意外でした。
 そしてその帰り道で、ある疑問が脳裏を横切りました。それは、北東を宮殿や都の鬼門とする風習は平安京から始まったのだろうか。もしかすると九州王朝の太宰府でも同様の鬼門守護の風習が先行して存在したのではなかったのか、という疑問です。
 自宅に戻ると早速調べてみました。すると思わぬ大発見に遭遇したのです。京都の鬼門守護の山は比叡山ですが、太宰府も同様に宝満山が鬼門に当たり、その麓と山頂には竃門(かまど)神社が鎮座しています。そして社伝によれば白鳳四年(664)に天智天皇が大宰府政庁守護のために鬼門に位置するこの地に竃門神社を創建したとされているのです。
 一元史観の通説では大宰府政庁(2期遺構)は8世紀初頭の造営とされているのですが、わたしは『二中歴』に記されている観世音寺の創建時期(白鳳年間)と両者の瓦の編年(観世音寺は老司1式、大宰府政庁2期は老司2式)を根拠に白鳳年間頃であると主張してきました。 今回知った竃門神社の現地伝承は通説ではなく、私の説と一致していたのです(第273話「九州王朝の紫宸殿」等参照下さい)。
 白鳳四年(664)に太宰府(九州王朝の都)の鬼門守護として竃門神社が創建されたのであれば、王宮造営もそれと同時期と考えざるを得ないからです。この社伝の出典は調査中ですが、『筑前国続風土記附録』には天智天皇が筑紫下向の時に太宰府に皇居を造り、あわせて鬼門に位置する竃門山(宝満山、御笠山とも言う)の地で八百万神を鎮祭したと記されていますから、白鳳年間に竃門山は鬼門とされていたことになり、社伝と一致しています。
 このように近畿天皇家一元史観による太宰府編年は考古学的にも文献的にも現地伝承からも完全に否定されていることが、一層明かとなったのでした。今後の課題としては、竃門神社でも京都と同じようにお猿さんが王都守護しているのか確認したいと考えています。現地の人でご存じの方がおられれば、御教示いただ けないでしょうか。


第275話 2010/08/08

『先代旧事本紀』の謎

 第200話(2008/12/14)「高良玉垂命と物部氏」において、九州王朝系史料の『高良記』に玉垂命が物部であると記されていることに触れ、第207話(2009/02/28)「九州王朝の物部」で は、ある時期の九州王朝の王は物部ではなかったかという考えを述べました。このように、わたしにとって物部氏を多元史観・九州王朝説においてどのように位置づけるかというテーマが重要課題としてあるのですが、その際、物部氏系の代表的史料である『先代旧事本紀』の研究は避けて通れないものになっています。
 学界では同書中の「国造本紀」は他に見えない記事を含んでおり、研究対象とされていますが、全体としては偽書として扱われているようで、近年は優れた研究がなされていないように思います。この『先代旧事本紀』を多元史観の視点で史料批判を進めたいと、何度も読んでいるのですが、いくつかの謎があるので す。
 例えば、物部氏の系譜記事が「天孫本紀」として扱われており、記紀とは取扱いが異なっています。物部氏が天孫族であるとするのが同書編纂の眼目とさえ思われるのです。更には、「帝皇本紀」の継体天皇の項に「磐井の乱」が記されていないのです。すなわち物部氏の一人である物部麁鹿火の活躍が全く記されてい ません。物部氏の業績を特筆する同書に於いて、何とも不思議な現象ではないでしょうか。ちなみに物部麁鹿火は同書の「天孫本紀」に見え、安閑天皇の頃に大連となったとされています。
  『先代旧事本紀』にはこの他にも謎に満ちた記載があります。どなたか一緒に研究されませんか。きっと九州王朝と物部氏の関係が解き明かされるのではないかという予感をもっています。