九州王朝(倭国)一覧

第596話 2013/09/15

文字史料による「評」論(1)

 わたしが古田史学に感銘を受けて、九州王朝や九州年号研究を始めて27年になりました。その間、遅々として進まない研究分野や、予想以上の展開を見せた分野など様々でしたが、近年、新たな史料の出土や発見、そして優れた研究者の登場により、九州王朝史研究は着実に進み始め たように思われます。もちろん、古田先生の先駆的で精力的な研究活動に触発され導かれたことは言うまでもありません。

 そこで今回は九州王朝の行政制度「評制」について、文字史料を中心とした史料根拠に基づいて論じてみたいと思います。歴史研究ですから、史料根拠に基づかない、あるいは明示しない「説」や「論」では他者を納得させることはできませんし、なによりも学問的態度とは言えませんので、史料根拠を明示しながら丁寧に論じたいと考えています。

 まず最初のテーマとして、前期難波宮遺跡出土木簡に見える「秦人凡国評」について考えてみました。『大阪城址2』(大阪府文化財調査研究センター、 2002年)によれば、大阪城三の丸跡地の遺構(16層)から出土した木簡に「戊申年」(648)の他、「秦人凡国評」と記されたものがあります。この地層は7世紀中頃のものと編年されていますが、前期難波宮の「ゴミ捨て場」のような遺構状況のようで、「戊申年」木簡は出土していますが、廃棄されたの前期難波宮完成(652)以後と見られています。

 ここで注目したのが「評」木簡が出土したことの意味です。「秦人凡国評」が具体的にどの地域なのかは特定できませんが、7世紀中頃の難波の地、すなわち前期難波宮の地域が評制の施行範囲ということを示していることは確かでしょう。それは、7世紀中頃の難波は九州王朝による評制支配地域であることを意味します。それまでの国造等と称されていた地域豪族による支配から、九州王朝が任命する評督を介しての中央集権体制、すなわち評制が難波の地に及んでいた証拠の木簡なのです。

 従って、前期難波宮は九州王朝による評制下の宮殿ということができます。前期難波宮九州王朝副都説への反論として、近畿天皇家の勢力範囲、あるいはそれに近い難波に九州王朝が副都を造るとは考えられない、という意見がありました。それに対して、わたしは九州王朝は列島の代表王朝であり、必要であればその支配地のどこに副都を造ろうと不思議とするには当たらないと反論してきました。この反論が正当なものであることは、この「秦人凡国評」木簡の「評」の字が示しているのではないでしょうか。(つづく)

 ところで、明日から中国出張です。明日は上海で仕事をした後、湖北省武漢に向かいます。湖北省は三国志の名場面の地ですが、たぶん仕事だけで観光する時間は全く無いと思います。とりあえず台風で飛行機が欠航しないことを今は祈っています。


第594話 2013/09/12

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」(4)

 『旧唐書』倭国伝・日本国伝には両国の歴史・位置・地勢が明確に書き分けられており、当時の唐の官僚たちは日本列島に倭国と日本国が存在したという認識を持っていたことを疑えません。そして、そうした情報を唐の官僚たちは、日本列島に派遣した使者や、日本列島からの遣唐使から得たことも 疑えません。更には歴代中国史書の記録も参考にしたことでしょう。そこで、最後のテーマとして『旧唐書』倭国伝・日本国伝に記されている倭国と日本国の人 名について検討してみることにします。
 倭国伝にはただ一ヶ所だけ次のように人名が記されています。

 「その王、姓は阿毎氏なり。」

 『隋書』に記されている「阿毎多利思北弧」の「阿毎」です。近畿天皇家の歴代天皇の姓が「阿毎」だったという記録は『日本書紀』や『古事記』には見られず、近畿天皇家とは別の「王」と考えざるを得ません。
 日本国伝になると、逆に「王」の名前は記されずに、次のような遣唐使の人名が記録されています。

 長安三年(703) 大臣朝臣真人(粟田朝臣真人)
 開元(713~741)の初 朝臣仲満(阿倍仲麻呂)
 貞元二十年(804) 学生橘免勢 学問僧空海
 元和元年(806) 高階真人(高階遠成)

 このように日本国伝にはわが国の国史に残る著名な人物が登場していることから、この日本国が近畿天皇家の王朝であることは自明です。他方、肝心の天皇家の姓や名前を記さないという史料状況は不思議です。この点、これからの研究テーマとなるでしょう。
 こうした日本国伝の人名記事もすべて701年以後の記録として登場することは重要な問題点です。すなわち、九州王朝から近畿天皇家へと列島の代表者が交代した「ONライン」以後に近畿天皇家の人物名が日本国伝に記録されていることとなり、この点も古田説と見事に一致するのです。
 その点、701年以前の九州王朝を対象とした倭国伝に倭国からの遣唐使の人名が記載されていないという史料事実も注目されます。『旧唐書』編纂時にそれらの記録が散逸して残っていなかったという可能性もあるかもしれませんが、『旧唐書』編纂方針に関係するのかもしれません。この点も、今後の研究課題で す。
 以上四回にわたり、『旧唐書』の倭国伝と日本国伝の解説を行ってきましたが、より本格的な史料批判、すなわち『旧唐書』全体に登場する「倭国」と「日本国」の全数調査に基づいた研究が必要です。既に古田先生が多くの著書で論究されているところですが、先生に続く古田学派の研究者の登場が待たれます。


第593話 2013/09/11

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」(3)

 『旧唐書』倭国伝・日本国伝には両国の位置や地勢情報が記されています。次の通りです。

(倭国)
 「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。」「四面に小島、五十余国あり、皆これに附属する。」

 ここでのキーポイントは「新羅東南の大海の中にあり」「山島に依って居る」「四面に小島」というように、倭国が「島国」 であることが明確に認識されていることです。「新羅東南の大海の中」という概略だけでは倭国が九州島なのか近畿なのかは断定しにくいのですが、「山島」で あり、「四面に小島」があるということから、倭国は九州島と考える他ないのです。なぜなら、近畿とするならば「本州島」が明確に「島」と断定されるために、津軽海峡の存在が当時の倭国や唐に認識されていなければなりません。しかし、そのような痕跡は見あたらず、やはり倭国は島国である九州島という選択肢 が最有力なのです。あえて言えば、四国も「島国」として候補地になりそうなのですが、四国の南側に「小島」があるとは言いにくいので、「四面に小島」とい う記述には合致しません。これが九州島であれば、問題なく「四面に小島」があるという表現に適応するのです。

(日本国)
 「その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。」「その国の界、東西南北各数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。」

 日本国の場合は島国の倭国とは異なり、西と南は大海だが、東と北は大山があり、その先は倭人ではなく「毛人の国」と記されています。『旧唐書』東夷伝には「毛人国伝」はありませんから、この「毛人国」と唐は正式な国交がなく、情報も限られていたと想像されます。また、「そ の国日辺にある」という記述から、日本国は倭国よりも東に位置していることも推定できます。こうした点から、この日本国の地勢記事は近畿がふさわしいものとなります。より正確に言えば、関東もその候補になりえます。あるいは、当時の唐の認識としての日本国は近畿や関東を含む領域としていた可能性もありそうです。
 以上のように『旧唐書』に記された倭国と日本国の位置や地勢記事は、両者は明らかに別国という認識に基づいており、倭国は島国(中心領域)としての九州王朝であり、日本国は近畿地方の天皇家の王朝と見なされるのです。この史料事実も古田先生の多元史観・九州王朝説を強力に支持しているのです。
 なお、倭国伝中の「京師を去ること一万四千里」や「東西は五月行、南北は三月行」という記事の史料批判も必要ですが、別の機会に詳しく説明したいと思います。簡単に言えば、これらは『三国志』や『隋書』の影響を受けた表記であり、特に「一万四千里」は短里と長里を混在させた合計里程と思われ、興味深い問題を内在しています。(つづく)


第592話 2013/09/08

正木さんの「34年遡上盗用」説の真髄

 多元的古代研究会(安藤哲朗会長)の会誌『多元』117号に正木裕さんの論稿 「九州王朝説と通説との分水嶺 — 盗用を認めるか・否か」が掲載されました。正木さんの「34年遡上盗用」説がコンパクトにまとめられ、この仮説の検証が古田説の正しさを証明することにもなるということが示された好論でした。ちょうど良い機会ですので、この正木説の論証方法と真髄について説明したいと思います。
 正木さんも当論稿で明確に述べられていますが、『日本書紀』の天武紀や持統紀に34年前の記事が盗用されており、それらの事例を示されたうえで、「勿論 個々の事例について『絶対的な根拠』などあるはずもない。(それがあるなら通説はとっくに瓦解している)しかし、『通説では不審な記事だが゛九州王朝の史書からの盗用″なら合理的に説明できる』事例を積み重ね、かつ『何故そのような盗用を行ったのか』を検討する」と正木論証の性格と目的について記されてい ます。
 この「絶対的根拠」はないが通説では不審な記事が合理的に説明できる、という論証性格こそ、わたしが「相対論証」と命名した論証方法なのです。すなわち、史料根拠に基づいて他の可能性を論理的に排除できる「絶対論証」に対して、同じく史料根拠に基づきながらも他の可能性を排除できないが、他の仮説よりも合理的に説明できる「相対論証」に相当するのが正木さんの「34年遡上盗用」説なのです。わたしはこのような論証方法があることを古田先生から学びまし た。古田説にもこの「相対論証」に相当する論証が少なくありません。
 従って、「絶対論証」と「相対論証」の差は、直接証拠に基づいているとか、間接証拠にもとづいているとかの史料根拠の違いではなく、他の仮説を排除できる論理性を有しているのか、他の仮説を排除はできないものの他の仮説よりも相対的に合理的であるという論理性を有しているかの違いなのです。直接証拠が圧倒的に少ない古代史学では、必然的に「相対論証」を多用せざるを得ないのは当然でもあるのです。
 しかし、今回特筆したいのは正木説の根幹・真髄についてです。その真髄とは「何故34年なのか」の説明に成功されたことなのですが、正木説に反対する人だけではなく、賛成する人にも理解を深めていただければと思い、このことについて説明します。
 正木さんが「34年遡上盗用」説を関西例会で発表されてから、何故33年でも35年でもなく34年前の記事から移動盗用されたのかの説明ができなけれ ば、恣意的との反論を免れないと、わたしは度々批判してきました。そうすると、正木さんはこの34年の理由を九州年号史書から年号ごとに移動させた結果、 34年のずれになったと説明されたのです。すなわち、白鳳の23年間、朱雀の2年間、朱鳥の9年間の合計が34年であることから、たとえば白鳳の前の白雉 の9年間の記事を34年移動させると、白雉元年(652)の記事が朱鳥元年(686)へと、同じ「元年」から「元年」へと記事が移動することになるので す。同様に白雉2年の記事は朱鳥2年への移動となり、その差はやはり34年なのです。
 このように九州年号による編年体史書の九州王朝系記事が、『日本書紀』の天武紀・持統紀に九州年号の34年差のまま移動盗用されたとする仮説に、正木さ んは到達されたのです。この「何故34年なのか」という疑問に答えられる仮説の発見こそ、正木説の本質であり真髄なのです。この点にご留意いただき、これ までの正木論文を読み直してみてください。正木説の真の凄さがご理解いただけると思います。

韓国・扶余出土木簡の衝撃 — やはり『書紀』は三四年遡上していた 正木裕
(古田史学会報94号)

(追記)本日早朝のニュースで2020年の東京オリンピック開催が決まったことを知りました。小学生の時にテレビで見た東京オリンピックをもう一度見ることができそうです。皆さんとともに喜びたいと思います。


第591話 2013/09/07

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」(2)

 『旧唐書』倭国伝・日本国伝にはそれぞれの国の「歴史」が記録されています。おおよそ次の通りです。

 「倭国」は古の「倭奴国」。すなわち志賀島の金印を漢からもらったあの倭奴国が倭国であると、倭国伝冒頭から記されています。金印が出土したのは北部九州の博多湾岸ですから、倭国が九州王朝であることを実は冒頭から『旧唐書』は示唆しているのです。言い換えれば唐王朝の「倭国」認識が示されているわけです。
 次に「世世、中国に通ず」とあり、古の倭奴国から今(唐の時代)の倭国まで連続した王朝であり、歴代中国王朝と交流が続いていると記されています。近畿天皇家一元史観でも「倭奴国」は博多湾岸とされているのですから、「倭国」もそれと同じ国ということになり、一元史観の立場でも「倭国」を北部九州の国家と考えざるを得ないことは重要です。すなわち、一元史観の認識・立場を誠実に貫くと、倭国は九州王朝のこととなり、自らの一元史観を否定するという学問的 矛盾に陥るのです。この論理性を理解できる「賢い」一元史観論者が古田史学との論争を忌避するのも、こうした事情に気がついているからなのかもしれませ ん。
 その後、倭国との交流について『旧唐書』には、貞観5年(631)に倭国が唐に遣使を派遣し、その後、唐からも倭国へ使者(高表仁)が派遣されますが、 その使者が倭国の王子と「礼を争う」と記されています。そして、貞観22年(648)に、新羅を介して表を送ったという記事を最後に、倭国伝は終わりま す。

 「倭国伝」に続いて記されている「日本国伝」冒頭には、日本国の出自として「日本国は倭国の別種なり」とあり、日本国は倭国とは別の国という認識が示されています。「別種」の意味は正確にはわかりませんが、倭国と日本国が別国であり、日本列島には倭国と日本国が存在していたという、古田先生が提唱された「多元史観」を是とする立場で『旧唐書』は編纂されているのです。
 更に、倭国と日本国との関係について次の興味深い記事が見えます。「あるいはいう、日本はもと小国、倭国の地を併せたり、という。」小国だった日本国が 倭国を併合したと記されているのです。倭奴国の昔から歴代の中国王朝と交流していた倭国を小国の日本国が併合したという、日本列島における王朝交代が記録されているのです。
 その交代の時期も、日本国伝から推察できます。『旧唐書』日本国伝に見える唐と日本国の国交記事の最初は長安三年(703)の遣唐使(粟田真人)記事です。従って、倭国伝に見える唐と倭国の最後の交流記事が貞観22年(648)ですから、この648年と703年の間に倭国から日本国への王朝交代があったことになります。古田先生が提起されたONライン(701年)が、まさにこの期間に入っていますので、『旧唐書』の史料事実が古田説を強力に支持していることがご理解いただけるものと思います。(つづく)


第590話 2013/09/01

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」(1)

 古田史学・九州王朝説の根拠として古田先生が指摘されたもので最も有力な史料の一つが『旧唐書』倭国伝・日本国伝です。視点を変えれば、近畿天皇家一元史観の学界としては、最も国民に知られたくない史料ともいえます。もちろん教科書にも載りませんし、学界でも真正面から取り上げられることも、近年ほとんどありません。この『旧唐書』倭国伝・日本国伝について、その要点をご紹介します。
 まず最初に学問的に確認すべきこととして、『旧唐書』の史料性格があります。いうまでもなく『旧唐書』は唐(618~907)のことを記した歴史書で、 中国歴代王朝の「正史」の一つとされています。成立は唐滅亡後の後晋(936~946)の時代です。もちろん、「正史」といっても「正しい真実の歴史」という意味ではありませんから、当然のこととして誤記誤伝や意図的な改訂などもあります。時の権力者の都合や大義名分により書き換えられた記事もあることでしよう。
 しかしながら、交流している周囲の国々のことまで嘘を記す必要はないてしょうし、日本列島の代表王朝が1国(大和朝廷一元史観)なのか2国(九州王朝多 元史観)なのかを間違えることは考えにくいでしょう。このことは、古田先生が四十年来主張されてきたところです。(つづく)


第589話 2013/08/31

「九州年号」の証明(3)

 いわゆる九州年号が九州王朝(倭国)の年号であることは自明のこととわたしは考えていましたが、水野代表の御指摘を受けて改めてその論拠を考えてみました。それは次のような史料根拠と論理性に基づいています。
 まず基本認識として、古田先生の九州王朝説・多元史観に基づき、古代中国史書に記された九州王朝・倭国は7世紀末まで日本列島を代表する王朝であり、 701年のONラインを境として近畿天皇家が新王朝の日本国を建国し、九州王朝から列島の代表者の地位を交代します。そして、自らの史書『続日本紀』に 701年に「大宝」年号を「改元」ではなく「建元」したと記します。従って、近畿天皇家の日本国の年号は大宝元年から始まったことがわかります。
 この701年からの日本国とそれ以前の倭国については、『旧唐書』に倭国伝と日本国伝とが、その歴史や地形などが書き分けられていることとも対応しており、歴史事実と見なすに十分な史料根拠を有しています。
 他方、『二中歴』所収「年代歴」に掲載されている古代年号群も6世紀初頭から700年まで続く「継体」から「大化」までのいわゆる九州年号と、701年 からの「大宝」から始まる近畿天皇の年号群とが書き分けられていることが、先にあげた多元的歴史認識と見事に対応しており、いわゆる「九州年号」とされている年号群が九州王朝(倭国)の年号と理解することの史料根拠となるのです。
 以上のような史料根拠と論理性が九州王朝と九州年号を結びつける「証明」なのです。なお、701年以後も「大化」「大長」という九州年号が継続していたことが判明してきましたが、この点については『「九州年号」の研究』(古田史学の会編)に詳述していますので、ご参照ください。


第588話 2013/08/31

阿部周一さんからの「鎮西」試案

 第587話「観世音寺と観音寺」に対して、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)より興味深いメールが寄せられましたので、ご紹介します。
 太宰府の観世音寺の創建年を記した史料『日本帝皇年代記』の「鎮西建立観音寺」の読みについて、わたしは「鎮西」を九州という地名表記と見なしたのです が、阿部さんは単なる地名表記ではなく、観世音寺(観音寺)の創建主体、すなわち九州太宰府(九州王朝)のことと理解すべきではないかと提起されたので す。
 その理由として、「鎮西」が「九州の」といった地域特定のための「形容詞的」用法であるなら、「鎮西建立観音寺」ではなく、「建立鎮西観音寺」というように「観音寺」の直前になければならないというものでした。しかし、「鎮西建立観音寺」とあるので、この「鎮西」は『日本帝皇年代記』に見える他の寺院建立記事と同様に読まれるべきで、そうであれば「鎮西」が観音寺を建立したと解さざるを得ないという御指摘をされたのです。
 たしかに「文法的」には阿部さんの言われることはもっともです。そのため、わたしは「検討させていたたきます」とメールで返答しました。学問的検証方法としては、当該史料『日本帝皇年代記』の史料批判、すなわち執筆者の「和風漢文」の「文法」を調べたり、史料中の同じような用例や「鎮西」の抽出と比較解析などが必要と思われます。ただちに阿部試案の当否は判断できませんが、とても興味深く鋭い御指摘ですので、しっかりと検討させていただきたいと思います。
 阿部さんのような優れた研究者がわたしの洛中洛外日記に対して、このような試案を寄せていただくことは有り難いことです。
 なお、太宰府の観世音寺を「観音寺」と表記する史料を新たに見いだしましたのまで、ご紹介します。それは『新抄格勅符抄』という平安時代成立の文書で、 そこに収録されている大同元年(806)の太政官牒に「太宰観音寺 二百戸 丙戌年施 筑前国百戸 筑後国百戸」と記されているようです。ちなみに、この「丙戌年」は朱鳥元年(686)のことと見なされているようですが(『若宮町誌』上巻、2005年)、このことが正しければ、朱鳥元年には観世音寺が太宰府に存在していたことの証拠となります。原本未見ですので、引き続き調査します。


第580話 2013/08/15

近江遷都と王朝交代

 今年もNHKの大河ドラマ「八重の桜」を楽しみに見ていますが、前半のクライマックス「会津戦争」が終わり、今週からは京都を舞台にした「京都 編」が始まりました。同志社大学校舎が建てられた旧薩摩藩邸跡地や大久保利通邸跡地などの石碑がご近所にありますので、とても身近に感じられる大河ドラマです。娘の母校の同志社大学からも新島八重の生涯を紹介したパンフレットが送られて来るなど、並々ならぬ力の入れようです。

 近江大津宮についての考察を続けてきましたが、いよいよ最後のテーマ「王朝交代」の考察に入ります。これまでの考察をまとめますと、遷都年は『日本書紀』天智6年(667)と『海東諸国紀』の白鳳元年(661)とする二説があり、下層出土土器の編年(飛鳥編年による)から白鳳元年(661)説のほうが妥当と思われるということでした。しかし、『日本書紀』天智紀などの記事から、天智が近江大津宮にいたことは、特に否定できるような疑問点も見あたり ませんから、史実としてよいでしょう。そうすると、九州王朝により造営され「遷都」した大津宮に、天智天皇は「遷都」したことになります。すなわち、二つの王朝が同じ大津宮に異なる時期に「遷都」し、君臨したと考えてみてはどうでしょうか。
 白村江戦の敗北と九州王朝の筑紫君薩野馬の抑留などにより、大きなダメージを受けた九州王朝に代わって、天智は主人不在の大津宮で新王朝の樹立、または九州王朝からの王権の継承を宣言したのではないかという作業仮説(アイデア)が浮かんでいるのですが、そのことと関連するのではないかと思われる史料根拠があります。
 第577話で触れた『続日本紀』に見える「不改の常典」、すなわち「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命もその史料痕跡の一つなのですが、『日本書紀』天智7年(668)7月条に見える次の記事が注目されます。

 時の人の曰く、「天皇、天命将及」といふ。

 岩波『日本書紀』には、「天命将及」に「みいのちをはりなむとす」という訓みをつけ、頭注には「中国で王朝交代の意」との説明をしています。訓みは天智天皇の寿命のこととする変な解釈を行っていますが、やはり頭注で説明された「王朝交代」のこととするべきです。多元史観では何の問題もなく「王朝交代」と字義にそった解釈が可能ですが、近畿天皇家一元史観では天智天皇の寿命のこととする矮小な解釈しかできないのです。先の「不改常典」の内容についても一元史観の諸説が提案されていますが、いずれもうまく説明できていません。「天命将及」も同様に一元史観ではうまく説明できないのです。
 ちなみに、『日本書紀』天智7年(668)7月条の、「天命将及」を天智天皇が大和朝廷の創立者であったとする証拠として指摘された論者に中村幸雄さん(古田史学の会草創の同志、故人)がおれらます。このことが記された中村さんの研究論文「誤読されていた日本書紀」は当ホームページに掲載されていますので、是非ご覧ください。
 さらにもう一つ、朝鮮半島の史料『三国史紀』新羅本紀の文武王10年条(670)に見える次の記事です。

倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以(ゆえ)に名と為すと。

 文武王10年条(670)ですから天智9年に相当します。倭国から日本国への国名の変更記事ですが、『旧唐書』では倭国伝(九州王朝)と日本国伝 (近畿天皇家)を書き分けられていますから、同様に考えれば『三国史紀』のこの記事も倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への「交代」を反映した記事ではないでしょうか。
 以上のように、天智が大津宮で「王朝交代」を行った史料痕跡が見えるのですが、もしこの推論が正しかったとすれば、天智は「王朝交代」に成功したので しょうか。この点は比較的はっきりしています。天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年 (671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝を継承者としての「改元」もされていません。ですか ら、天智は何らかの宣言(不改常典)はしたのでしょうが、「王朝交代」には成功しなかったと思われます。
 以上、近江大津宮遷都年・造営年の考察から、天智の「不改常典」「王朝交代」まで推論を試みてみました。もちろん、この推論が正解かどうかは学問的検証の対象です。一つの作業仮説(アイデア・思いつき)としてご検討していただければと思います。


第578話 2013/08/09

近江大津宮の造営年と遷都年

 今日は大阪に来ています。わたしが理事をしている繊維応用技術研究会の講演会に出席しています。様々な分野の講演が続きましたが、中でも高輝度光科学研究センター(スプリング8)の熊坂崇さんの講演「放射光施設SPring-8における生体高分子の構造研究」は大変興味深い内容でした。最先端科学でここまで高分子構造が解明できるのかと驚きました。歴史研究に応用できれば、もっと多くの科学的知見が得られ、歴史の真実の解明が一層進むことと思われました。
 さて、第577話において、大津宮遷都年の二説の6年の差が、歴史理解において大きな問題点を含んでいることを述べました。ここでのキーポイントは、その6年の間に白村江戦の敗北という九州王朝における大事件が起こっていることです。ですから近江大津宮遷都年が661年なのか、667年なのかの検討が必要です。このテーマを考古学と文献史学の両面から迫ってみましょう。
 まず確認しておかなければならないことですが、造営年と遷都年が同時期かどうかという点です。『日本書紀』天智6年条の遷都記事を根拠に、従来は何となく大津宮造営年(完成年)も同年と考えられてきたようですが、『日本書紀』には大津宮造営に関する記事は見えません。前期難波宮は652年に完成したことが記されていますが、大津宮はいきなり遷都記事があるだけで、造営年(完成年)は記されていないのです。このことに留意する必要があります。
 というのも、第566話で紹介しましたように、白石太一郎さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報 16』(2012年12月)によると、『日本書紀』天智紀には大津宮遷都は天智6年(667)とされていますが、大津宮(錦織遺跡)内裏南門の下層出土土器の編年が「飛鳥1期」(645~655頃)であり、遷都年に比べて古すぎるようなのです。
 この考古学的知見が正しければ、大津宮は白村江戦以前に完成していた可能性が高く、そうであれば第577話で指摘したように、その宮殿は九州王朝の宮殿 と考えざるを得ないという論理性により、遷都年は『海東諸国紀』に記された白鳳元年(661)とする理解へと進みます。それでは、『日本書紀』天智6年条の遷都記事は九州王朝史書からの盗用だったのでしょうか、それとも史実なのでしょうか。(つづく)


第575話 2013/07/28

白雉改元「小郡宮」説

 わたしはこれまで、白雉改元の儀式が行われた宮殿は前期難波宮であり、その時期は九州年号の白雉元年(652)であることを論証してきました。そのキーポイントは『日本書紀』孝徳紀の白雉元年二月条(650)の白雉改元記事は、九州年号の白雉元年二月(652)に行われた 行事の白雉年号ごと二年ずらしての盗用であることを明らかにしたことです(宮殿完成記事は652年九月条)。
 ちなみに近畿天皇家一元史観の通説では、白雉改元の宮殿を小郡宮とされているようです。吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤 海』(吉川弘文館、2011年)によれば、「難波宮の先進性」という章で白雉改元の宮殿について次のように紹介しています。

 「白雉元年(六五〇)、小郡宮とは明記されていないが、おそらくはそうであろう宮において白い雉が献上された(『日本書 紀』白雉元年二月甲申条)。その様子は以下のようであった。(中略)白雉献上の様子や礼法の規模の大きさからすると小墾田宮より大規模であったように推測 されるが、遺構などが見つかっていないため、これ以上踏み込むことはできない。」(117~118頁)

 このように小郡宮説が記されていますが、「小郡宮とは明記されていないが」「おそらくはそうであろう」「遺構などが見つかっていない」「これ以上踏み込むことはできない」という説明では、とても学問的仮説のレベルには達していません。それほど、白雉改元「小郡宮」説は説明困難な仮説なのですが、ある意味、著者は正直にそのことを「告白」されておられるのでしょう。その「告白」が指し示すことは、白雉改元の儀式が可能な大規模な宮殿遺構は前期難波宮しか発見されていないということです。「白雉」は九州年号ですから、改元した王朝は九州王朝です。その場所の候補遺構が前期難波宮しかなければ、前期難波宮は九州王朝の宮殿と考えざるを得ません。
 そして、『日本書紀』に記されている三つの九州年号「大化」「白雉」「朱鳥」のうち、「白雉」のみがその改元の様子が詳細に記されていることから、近畿天皇家が改元儀式に参列し、その様子を見ることができたからこそ、『日本書紀』に記すことができたと思われます。そうすると、孝徳の宮殿と改元の儀式が行われた九州王朝の宮殿は参列可能な程度の近くにあったことになります。この点も、前期難波宮九州王朝副都説でしかうまく説明できない『日本書紀』の史料事実なのです。


第573話 2013/07/25

いびつな宮殿、飛鳥宮

 今日は初めて福井県鯖江市に宿泊しました。鯖江駅前の案内板には「近松門左衛門の町」と表記されており、鯖江市と近松がどのような関係にあるのか興味を持ちました。京都に帰ったら調べてみようと思います。
 長時間の移動を伴う出張の際には、本を一冊かばんに入れておくのですが、今回の出張のお供は吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・ 渤海』(吉川弘文館、2011年)です。古代都城の変遷や、中国の影響などわかりやすく解説された好著でした。もちろん著者は近畿天皇家一元史観に立って いますので、日本の都城として太宰府などは触れられていませんし、前期難波宮ももちろん孝徳天皇の難波長柄豊碕宮として取り扱われています。そうした「学問的限界」はありますが、参考にはなります。皆さんにもご一読をお勧めします。
 同書を読んで改めて感じたテーマがあります。同書89頁に掲載されている飛鳥浄御原宮(飛鳥宮3−B期)の平面図にそれは示されています。数年前に既に 古田史学の会関西例会でも発表したのですが、天武天皇や持統天皇の宮殿と見なされている飛鳥浄御原宮を平面図で見ると、その形が長方形や正方形ではなく、 いびつな台形なのです。
 天武天皇よりも以前に、大規模で見事な左右対称の朝堂や内裏を持つ前期難波宮や大津宮が造営されているのに、その後の飛鳥浄御原宮は平面形がいびつな台形で、建造物の配置も左右対称ではありません。もしこれらの宮殿が同一王朝のものとしたら、この「落差」をどのように説明できるのでしょうか。
 この宮殿の様式の落差は、同一王朝内のものではなく、前期難波宮を九州王朝の副都とするわたしの仮説と整合することがご理解いただけるものと思います。 また、わたしは九州王朝の「近江遷都(白鳳元年)」という仮説も発表していますが、この仮説とも整合する考古学的事実なのです。
 このように前期難波宮九州王朝副都説は文献的史料根拠だけではなく、考古学的事実という根拠も持っているのです。