邪馬壱(壹)国一覧

第3460話 2025/03/28

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (2)

 ―総里程「万二千余里」の根拠は何か―

 まず、〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい〟とする古田説への批判について考えてみます。特に前半の総里程「万二千余里」を概数、すなわち厳密な計算に基づかないアバウトな数値とする理解については、古田先生による次の指摘があります。

〝さて問題のポイントは、帯方郡治から邪馬一国までが一万二千里。帯方郡治から狗邪韓国までが七千余里、そして海上に散らばっている島々(倭地)を「周旋」(周も旋もめぐるという意味)してゆくのが、五千里ということです。つまり12000-7000=5000(倭地)であって、はっきりした関係をなしています。これを偶然の一致だとか、倭地は周りが五千余里だということで、九州は長里で大体五千里になるだろう、足らないのは向こうがまちがえたなどとするのはおかしい。素直に解釈すべきだと思います。〟『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。「狗邪韓国、倭地」論 143~144頁。

〝一方、その大宛列伝(『史記』)をモデルにしてつくられた『三国志』の倭人伝では、「七千余里+五千余里=一万二千余里」と、足した結果も余里になっている。両方「余里」だったら足した結果にも「余里」をつけるのが当然です。この点、陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう。〟同。里程論 175頁。

 このように、倭人伝における陳寿の里程計算方法について詳述されました。これは文献史学におけるフィロロギーという学問の方法に基づいたものです。フィロロギーとはドイツの古典文献学者・歴史学者アウグスト・ベーク(August Boeckh 1785~1867年)が提唱した学問で、「人が認識したことを再認識する」というものです。このフィロロギーを村岡典嗣先生(1884~1946年、東北大学)がわが国にもたらし、弟子の古田武彦先生らが継承され、わたしたち古田学派の研究者がそれに続いています。日本ではフィロロギーを「文献学」とも訳されていますが、対象は文献だけではないことから、古田先生は原義(原語)のまま「フィロロギー」と呼ばれていましたので、わたしはこれに従っています(注①)。

 今回のケースでは、『三国志』の著者陳寿がどのような認識で倭人伝の行程・里程記事を著したのかを、現在のわたしたちが精確に再認識するということになります。すなわち、「万二千余里」をアバウトな概数と認識していたのか、陳寿なりの根拠を持った認識(ある情報に基づく計算式)に依っていたのかを探る、ということです。

 理系の化学や数学などの分野とは異なり、文献史学では人の心(理性・感情・認識・記憶など)や言動(講演、著述活動など)も重要な研究対象としますから、どうしてもフィロロギーの方法論を採用せざるを得ません。なぜなら、史料事実(真偽の程度未詳のエビデンス)と歴史事実は異なる概念であり、史料事実や出土事実それ自体が歴史事実を直接語るわけではないからです。このことについては別稿で論じたいと思います。

 先の古田先生の論考に見える「七千余里」「五千余里」「万二千余里」は、倭人伝の次の記事を典拠とします。

❶「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」
❷「自郡至女王國、萬二千餘里。」
❸「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

 ❶は帯方郡(ソウル付近とされる)から韓半島南岸の狗邪韓國までの距離(七千余里)、❷は帯方郡から女王国までの総里程(一万二千余里)
、❸は狗邪韓國から女王国までの距離(五千余里)のことですが、❸については野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)による有力な異論もあります(注②)。

 古田先生が「陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう」とするように、陳寿の里程記事はアバウトな概数ではなく、根拠とした数値と計算式に基づいた里数と思われます。そもそも、アバウトな概数であれば「余里」(+α里)という表記は全く不要です。そのような概数であれば、一万二千里とか七千里、五千里と記せばよいだけだからです。おそらく陳寿は、倭国を訪問した魏使の報告書や、倭国に二十年間滞在した「塞曹掾史張政」(注③)の知見に基づいていると考える他ありません。「○○余里」とまで記した里数値はそうした情報に基づいており、現代人の認識や自説に基づく解釈によって、それらを概数と決めつけることはできないように思います。

 更に言えば、倭人伝の里程記事に見える里数を単純に足しても、それは一万五百里(伊都国まで)、または一万六百里(不彌国まで)であるため、それらの概数表記は「一万里」あるいは「一万千里」となります。従って対海国(対馬)と一大国(壱岐)の半周読法(注④)により導き出された里数(千四百里)を採用しない限り、仮に概数としても「一万二千余里」にはなりません。このことからも、倭人伝の「萬二千餘里」はアバウトな概数ではなく、陳寿が神経を働かせて〝根拠に基づく計算〟により記された里数と見なさざるを得ないのです。(つづく)

(注)
①フィロロギーについては次の書籍を参照されたい。
アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』(安酸敏眞訳、知泉書館、2014年。原題 Encyklopadie und Methodologie der philologischen Wissenschaften 1877年)。
古田史学の会・関西例会では同書をテキストに、茂山憲史氏(『古代に真実を求めて』編集部)が2017年4月から一年間にわたり「フィロロギーと古田史学」を連続講義した。
②野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。
同『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』私家版、2016年。
③古田武彦『すべての日本国民に捧ぐ 古代史―日本国の真実』1992年、新泉社。
④倭人伝行程記事中の対海国「方四百里」と一大国「方三百里」は両島の大きさを示すだけではなく、島の2辺を半周する里程、すなわち八百里と六百里の計千四百里とする解釈。これにより、部分里程の和が帯方郡から女王国までの総里程一万二千余里と一致し、「邪馬台国」研究に於いて、「万二千余里」の説明に初めて成功した。

【写真】アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』と関西例会で発表する茂山憲史さん。


第3458話 2025/03/26

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (1)

今年の八王子セミナーのテーマは〝「邪馬台国」はどこか〟をテーマとして、文献史学や考古学の専門家を講師にお招きし、講演とパネルディスカッションなどの企画検討が進められています。こうした実務的な検討テーマとは別に、学問的な質疑や論争も交わされており勉強になります。

よい機会でもあり、質問に対しての回答を考えるために『「邪馬台国」はなかった』(注①)を始めとする古田先生の初期の著作を何度も読み直しています。その勉強の成果の一端を、「洛中洛外日記」でも紹介してきたところです(注②)。

ところが先日の実行委員会で、倭人伝の行程記事について思ってもいなかった指摘がなされました。それは〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい。〟あるいは〝魏使が、島を半周して測った証拠がないにも拘わらず「島を半周して測ったことにすれば、総和が12000里になる」と主張するのは論理的・科学的ではない〟というものです。すなわち、対海国(対馬)と一大国(壹岐)の島巡り半周読法(注③)は合計が一万二千里になるように解釈したもので、測定した証拠はないという古田説の根幹部分に対する批判です。

古田説支持者から、こうした古田先生の学問の方法の根幹部分(部分里程の和は総里程にならなければならない。注④)に対する批判がなされたことに驚いたのですが、どのように説明すれば納得してもらえるのだろうか、同時にその主張(部分里程の和が総里程と一致しなくてもよい)が成立するとした根拠は何だろうかと、わたしは考え込みました。〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と、わたしは考えていますので、古田先生ならどのように返答されるだろうかと思案中です。(つづく)

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。

②古賀達也「洛中洛外日記」第3420~3424話(2025/02/03~07)〝倭人伝「七万余戸」の考察 (1)~(5)〟
同「洛中洛外日記」第3425~3433話(2025/02/09~25)〝『三国志』短里説の衝撃 (1)~(8)〟
同「洛中洛外日記」3439話(2025/02/27)〝『三国志』短里説の衝撃〔余話〕―陳寿を信じとおす、とは何か―〟
同「洛中洛外日記」3446~3454話(2025/03/11~20)〝『三国志』「天柱山高峻二十余里」の論点 (1)~(7)〟

③倭人伝の行程記事中の対海国「方四百里」と一大国「方三百里」は両島の大きさを示すだけではなく、島の2辺を半周する里程、すなわち八百里と六百里の計千四百里とする行程解釈。これにより、部分里程の和が帯方郡から女王国までの総里程一万二千余里と一致した。これは従来の「邪馬台国」論争に於いて誰も成し得なかったことで、「万二千余里」の説明に初めて成功した行程解釈。

④古賀達也「洛中洛外日記」1538話(2017/11/14)〝邪馬壹国説博多湾岸説の論理構造〟で、次のように説明した。
〝この博多湾岸説の基礎となり、その論証・仮説群の成立を支えた論理構造は「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合でした。すなわち、邪馬壹国への行程記事に見える「部分里程」の合計は「総里程=12000余里」にならなければならないという論理構造です。そして、苦心惨憺された結果、対海国と一大国の半周行程の和(1400里)を発見され、部分里程の総和が総里程(12000余里)となる読解に成功されたのです。博多湾岸説誕生の瞬間でした。
こうして「部分里程」の合計が「総里程=12000余里」になるという古田説が成立し、そうならない他の説を圧倒する説得力を持ったのです。この論理構造、「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合こそ古田説が際だつ決定的論点だったのです。〟


第3439話 2025/02/27

『三国志』短里説の衝撃〔余話〕

 ―陳寿を信じとおす、とは何か―

 8回続けた〝『三国志』短里説の衝撃〟ですが、思いのほか好評だったようで「古田史学の会」HPのアクセス件数も増えました。同シリーズの学問的核心は、〝倭人伝の行程や里程記事は信用できない〟と言い続け、しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とする「邪馬台国」畿内説論者が採用した方法(倭人伝不信論と原文改定)に対して、『三国志』の著者陳寿を信じとおし、原文の合理的解釈を求めるという古田武彦先生の学問の方法との違いにありました。陳寿を信じとおした古田先生は、魏・西晋朝短里説や邪馬壹国博多湾岸説、倭人の二倍年暦説など従来にない仮説群へと至り、倭人伝を原文のまま読んで、合理的に解釈することに成功しました。

 このことを象徴するように、古田古代史学の第一著『「邪馬台国」はなかった』(注①)の序文末尾には次の一文があります。

「しかし、だれも本当に信じなかった。『三国志』魏志倭人伝の著者陳寿のことを。

 シュリーマンがホメロスを信じたように、無邪気に、そして徹底的に、陳寿のすべての言葉をまじめにとろうとした人は、この国の学者、知識人の中にひとりもいなかったのである。

 かれらおびただしい学者群のあとで、とぼとぼとひとり研究にむかったわたしの、とりえとすべきところがもしあるとすれば、それはたった一つであろう。

陳寿を信じとおした。――ただそれだけだ。

 わたしが、すなおに理性的に原文を理解しようとつとめたとき、いつも原文の明晰さがわたしを導きとおしてくれたのである。
はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。

 その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう。」

 この「陳寿を信じとおす」という言葉は、かなり挑発的です。エビデンスや既成概念を疑うことから始まる学問研究の世界では、「信じる」という表現がネガティブなものと受け取られかねず、そのことをわかったうえで、古田先生はあえてこの言葉で序文を締めくくったのです。それは、倭人伝の原文を自説に都合良く書き変えても(邪馬壹国→邪馬台国、南に至る→東に至る)、みんなやっていることだから誰からも咎められないという、日本古代史学界の〝宿痾〟への果敢な挑戦だったのです。これは古田武彦という人物だけが成し得たことでした。

 この「陳寿を信じとおす」という言葉の真意が、古田古代史学第二著『失われた九州王朝』(注②)の、やはり序文で次のように述べられています。

「〝陳寿を信じとおす〟わたしは、前の本の序文でそう言った。陳寿は『三国志』の著者である。わたしの用法では、〝信じる〟とは〝盲信する〟の反対語だ。『三国志』に真正面から立ち向かい、その一字一句、綿密に調べ抜く。そして、科学的に実証することなしに安易な「原文改定」を行わない。――これが〝陳寿を信じる〟わたしの立場だった。

 だから、この研究方法はそのまま『三国志』以外の中国史書に対するわたしの立場である。『後漢書』『宋書』『隋書』『旧唐書』、それらの語る倭国像に対し、わたしは耳を傾けつくそうとしたのである。」

 古田学派の研究者であれば、〝陳寿を信じとおす〟という言葉の真の意味、すなわち文献史学の学問の方法(史料批判)を理解していただけるのではないでしょうか。この学問の方法の違いによって、古田史学(多元史観)が持つ説得力は際立っているのです。

(注)
①古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、1972年。ミネルヴァ書房より復刻。


第3437話 2025/02/25

『三国志』短里説の衝撃 (8)

 ―一元史観が生んだ虚構「畿内説」―

 「邪馬台国」畿内説は、長里説(435m)では説明できない倭人伝の行程・里程記事を合理的に説明できる短里説(76~77m)の存在には触れず、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない〟と、手を変え品を変えて言い続け、しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とします。この畿内説は、客観的で合理的な証明を経ていない近畿天皇家一元史観という「史観」が生んだ虚構です。そのことが仁藤敦史さんの論稿中(注①)にも現れています。たとえば次の記事です。

〝さらに、『三国志』以降の中国正史も、卑弥呼王権と「倭の五王」以降のヤマト王権を基本的に連続するものとして記述している点も傍証となる。すなわち、『梁書』倭伝は、「復た卑弥呼の宗女台与を立てて王と為す。其の後復た男王を立て、並びに中国の爵命を受く。晋安帝の時、倭王賛有り」と記して、台与と倭の五王を連続的に記す。また『隋書』倭国伝には「邪馬堆に都す。則ち魏志の所謂邪馬台なる者なり」として邪馬台国はヤマト王権がある大和に所在したとする。このように中国史書は邪馬台国が大和に所在したと解している。〟『卑弥呼と台与』19頁

 この文章から、仁藤さんは何の疑いも持たず、確たる証明もなく、古代中国史書(『三国志』『梁書』『隋書』など)に記された「倭」「倭国」をヤマト王権(後の大和朝廷)のこととし、それを「邪馬台国」畿内説の傍証とされていることがわかります。

 しかも仁藤さんにとって好都合なことに、この「史観」が日本古代史学界の〝不動の通念(岩盤規制)〟であるため、自説が一元史観(注②)という「史観」を前提としていることや、「史観」成立のための客観的で合理的・論理的な説明なしで著述・発言できるという、圧倒的有利な立ち位置にあることに支えられています。この学界の状況を中小路俊逸氏(1932-2006。追手門大学文学部教授)は次のように厳しく指弾してきました。

〝肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」を「是」なりと明言するかしないかという、大事の一点が棚上げされ、覆われ、隠され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となること、明白だからである。「一元通念」を「非」とするか。この件を伏せて言わないか。この規準が明晰かつ有効であることを私は確信していた。〟(注③)

〝古田武彦の名前を伏せて古田説とそっくりで、それでいてどこか違う説を言い出す学者が出てきた。目的はただ一つ、大和朝廷よりも格が上だった九州王朝の存在という肝要の一点を伏せること。そして有史以来初めてその事を指摘した古田武彦の名前を研究史から抹殺することです。この動きがいよいよ始まりました。この策動を許してはなりません。〟(注④)

 「邪馬台国」畿内説は、畿内説論者自身も認めているように、『三国志』倭人伝という唯一の同時代エビデンスからは全く導き出すことができません。そのため、近畿天皇家一元史観という古代史学界の〝宿痾〟ともいうべき「史観」から生み出された虚構であることは学理上明らかなのです。
彼らが頼りとする考古学も、出土遺構や遺物からは、そこが倭人伝に記された倭国の都(邪馬壹国)であることを証明できませんし、畿内(奈良県)に至っては弥生時代を代表するような王権の痕跡(弥生王墓、大都市遺構など)や、中国との交流を示す金属器(銅鏡、鉄製品など)の出土もほとんどありません。ですから、畿内説は文献史学からも考古学からも成立する余地のない仮説なのです。唯一の〝根拠〟らしきものは、論証を経ていない近畿天皇家一元史観(戦後型皇国史観。注⑤)という未証明の「史観」であり、それは日本の古代史学界内でしか通用しない虚構と言わざるを得ません。

 ですから、自説に不都合な古田先生の多元史観・九州王朝説、そして短里説を排斥(無いことにする。注⑥)しなければならないという宿命を、「邪馬台国」畿内説は学問的〝宿痾〟として持っているわけです。このような排斥は、理系の学界ではおよそ認められるものではありません。(おわり)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②大和朝廷こそが神代の昔から列島の唯一の卓越した王権と主張する『日本書紀』の歴史観を基本的に是とし、それを根拠として中国史書の「倭国」は大和朝廷のこととする歴史認識。古田武彦氏はこれを一元史観と名付けた。中小路俊逸氏はこれを一元通念とよび、「根本の部分で論証を経ていない」と批判した。
③中小路峻逸「第一回総会にむけて 古田史学の会のために」『古田史学会報』8号、1995年。
④中小路峻逸「事務局だより」『古田史学会報』11号、1995年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」1314話(2016/12/30)〝「戦後型皇国史観」に抗する学問〟
「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」『季報 唯物論研究』138号、2017年。
⑥古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年)はマスコミからも注目をあび、朝日新聞社主催の「邪馬台国シンポジウム」のパネラーとして古田氏に参加要請がなされたが、「古田が参加するなら自分たちは参加しない」という他の一元史観のパネラーから圧力がかかり、二度にわたり古田氏抜きでシンポジウムが開催されたこともあった。

 また、滋賀大学で開催された古代の武器に関する学会に古田氏と共に参加したことがあったが、会場からの質問を受け付けるとき、何度も挙手を続ける古田氏を司会者は無視し続けた。他の質問者もなく古田氏のみが「お願いします」と挙手を続けるのだが、司会者の無視の態度を不審に思った会場の参加者からどよめきが起こり、とうとう司会者は古田氏を指名するに至った。古田氏の質問を認めたときの司会者のこわばった表情が忘れ難い。同学会の重鎮たちの顔色を気にしながらのことだったようである。


第3433話 2025/02/21

『三国志』短里説の衝撃 (7)

 ―畿内説と考古学の不一致―

 「邪馬台国」畿内説は短里(76~77m)でも長里(435m)でも成立しません。ですから、畿内説論者は短里説の存在には触れずに、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない。信用しなくてもよい。〟と言い続けるしかないようです。しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とします。その理由として、仁藤敦史さんは次の根拠をあげています(注①)。

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、(中略)考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ) 略

(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)

 この中で具体的なエビデンスとして示されたのは次の事柄です。

❶纏向遺跡・箸墓古墳
❷前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)
❸三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)
❹有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)

 これらをわかりやすく解説します。❶の纏向遺跡・箸墓古墳は国立歴史民俗博物館(歴博と略す)研究グループ(注②)の発表によれば三世紀前半に編年されており、卑弥呼の時代に近い。❷の箸墓古墳をはじめとする初期前方後円墳の成立も三世紀に遡るとした歴博の見解に基づき、箸墓古墳を卑弥呼の墓とできる。同時に畿内の古墳から多数出土する三角縁神獣鏡も卑弥呼が魏からもらった鏡と見なしてよい。集落遺跡も纏向遺跡は卑弥呼の時代とできるが、北部九州には卑弥呼の時代の有力な集落はない。吉野ヶ里遺跡は卑弥呼よりも古い時代であり、対象とならない。ということを自説の根拠としています。

 このような考古学的知見を根拠として、畿内説が有力とするのですが、この考古学編年そのものが誤っていたことが、現在では明らかとなっています。すなわち、歴博の見解は炭素同位体C14年代測定値を根拠としますが、最新の国際修正値(較正曲線)intCAL20(イントカル20)により、弥生時代の編年が歴博の発表よりも約百年新しくなることが明らかとなりました。従って、箸墓古墳は歴博発表以前の考古学編年通り四世紀前半頃となり、卑弥呼の時代よりも百年新しくなります。同様に初期前方後円墳も百年新しく編年されたので、❶と❷の根拠が既に崩れているのです。

 仁藤さんの著書や論文の発行年は2009年と2013年ですから、おそらく古い補正値(intCAL09)を採用した時期のものであり、そのため不正確なエビデンスに基づいており、現在の倭人伝研究のレベルからすれば、問題が多すぎると言わざるを得ません。従って、仁藤さんの解釈や仮説を否定するところからしか、教科書を書き変えるような新たな研究は生まれないと思われます。

 更に❸の三角縁神獣鏡は中国からは出土していないことや、弥生時代ではなく古墳時代になって出土することも早くから知られており、これを弥生時代の卑弥呼が魏からもらった鏡とする考古学者は、現在ではほとんどいないのではないでしょうか。

 ❹の弥生時代の集落についても、現在の考古学では福岡市博多区の比恵・那珂遺跡群が「最古の都市」とされ、「弥生時代中期~古墳時代前期にかけて都市的な様相を示していた」(注③)とされていることに触れてもいません。そして、都市の条件である「街区」の形成は、「確かに比恵・那珂遺跡群をおいて他にはなく、「初期ヤマト政権の宮都」とされる纏向遺跡においては、そのような状況はほとんど不明である。」と報告されているのです(注④)。

 こうした現在の考古学水準からすれば、❹の見解も失当と言わざるを得ません。こうのように、仁藤論稿には数々の誤りがあることは明白であるにもかかわらず、なぜ古代史学界ではこのような解釈が通説的権威を持つのでしょうか。理系分野ではちょっとありえない〝奇妙な学界〟と言わてもしかたがないように思います。

 更に、(ⅴ)の「文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく」とするに至っては、理解困難な言い分です。そもそも、〝(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。〟〝(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。〟としたのは、仁藤さんご自身だからです。著書(2009年)と論文(2013年)とでは、基本的な見解が変わったようには見えませんが。(つづく)

(注)
①仁藤敦史 「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
同『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②国立歴史民俗博物館の春成秀爾氏を中心とする研究グループがマスコミに発表した後、2009年5月に早稲田大学(日本考古学協会)で「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」と発表した。
③菅波正人「那津宮家から筑紫館 ―都市化の第二波―」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年。
④久住猛雄「最古の「都市」 ~比恵・那珂遺跡群~」同③。


第3432話 2025/02/17

『三国志』短里説の衝撃 (6)

―短里でも長里でも成立しない畿内説―

 三国時代の魏とその後継王朝の西晋で公認使用された里単位(一里76~77m)で『三国志』が書かれたとする古田先生と谷本茂さんの研究(注①)を紹介しました。この検証は、『三国志』の里程記事と現在の実測値による簡単な計算(割り算)で実証的に確認できます。この短里説によれば、帯方郡(ソウル付近)から邪馬壹国までの総里程「一万二千余里」は900㎞強となり、博多湾岸付近までの距離とピッタリであることがわかります。

 他方、短里では奈良県には全く届きませんし、かといって長里(435m)では奈良県を飛び越えて太平洋のはるかかなたに行ってしまいますので、「邪馬台国」畿内説は短里でも長里でも成立しません。ですから、そのことを知っている畿内説論者は短里説の存在には触れずに、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない。信用しなくてもよい。〟と言い続けるしかないのでしょう。仁藤敦史さんの次の主張がその一例です(注②)。

(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。(「倭国の成立と東アジア」142頁)

(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく……。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値……。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)

 短里説を無視、乃至検討せず、倭人伝の行程(南、邪馬壹国に至る)や里程(長里で一万二千余里)は信頼できないとしながらも、仁藤さんの結論は畿内説が妥当とします。〝倭人伝の記事は信頼できないから、「邪馬台国」の位置は不明〟とするのであれば、その主張にはまだ一貫性があるのですが、結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とするのです。次回はその理由の是非について検討することにします。(つづく)

(注)
①古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。
②仁藤敦史「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。


第3430話 2025/02/14

『三国志』短里説の衝撃 (5)

 ―『漢書』の中の短里―

 古田先生の短里説は「魏西晋朝短里」説と呼ばれ、三国時代の魏とその後継王朝の西晋で使用された里単位(一里76~77m。周代に使用された里単位に淵源する)で、西晋時代に陳寿が書いた『三国志』はこの公認里単位「短里」で書かれたことが古田先生により発表されています。その先駆的研究を古田先生とともになされたのが谷本茂さん(古田史学の会・編集部、注①)でした。古田先生亡き今、短里研究の第一人者です。

 谷本さんの短里研究は『三国志』以外の漢籍にも及んでいます。たとえば『漢書』は長里の時代(後漢代)に成立しており、里程は長里で書かれています。しかし、現存する『漢書』版本には後代の識者による「注」が挿入されており、その「注」の作者が短里を使用していた魏西晋代の人物の場合、そこに記された里程は短里で書かれるケースがあります。そのことに谷本さんが論究したのが次の諸例です。『古代史の「ゆがみ」を正す』(注②)の「『漢書』は短里なくして解読できない」より転載します。

 〝最近は、『漢書』は「短里」仮説なくしては解読できない、というテーマを強く感じているんです。
それは『漢書』自体というよりも、『漢書』にはいろいろな人の注が付いていますね。その人たちは、だいたい三国の魏の官僚なわけです。如淳にしろ孟康にしろ文穎にしろ。そうしますと、かれらが書いた「里数値」というのは、『漢書』の本文のなかの長里なのかという問題があるわけです。
そのなかでひじょうにおもしろい例がいくつか出てきたわけです。
たとえば、劉邦と項羽が会う「鴻門の会」という有名な故事がありますが、その場所がもちろん『漢書』の本文にも出てきまして、そのところの孟康の注に、新豊の東十七里のところに地名があると出ているんですね。ところが、後魏の酈(れき)道元が書いた『水経注』にも同じところが出てきまして、新豊の故城の東三里だと書いてあります。そして、『漢書』の孟康注では東十七里のところに鴻門というのがあると書いているけれども、いまわたしが実際に調べたらない、と書いてあるんですね(本書第Ⅲ章参照)。

 長里で三里と言いますと一二〇〇から一三〇〇メートルです。それぐらい短い距離で確定できるように、城壁と鴻門はだれが見ても明晰な指定ができたわけですね。そこが、孟康の注では十七里と書いてあるんですね。
もしかりに同じ場所だとすれば里単位がちがうわけで、十七対三になっているわけです。それで十七対三の比というのは五・七ですね。するともう短里と長里の比にぴったり合うわけです。あまりにも偶然すぎるので不思議な感じがするのですが。

 つまり、ひとつには「短里」と「長里」の比が五・七ぐらいであることと、もうひとつは孟康が魏の官僚であることが重要ですね。たしか中書省の長官だったと思いますが、そうした部署の長官が言っている。(中略)
そうした例が『漢書』注にはいくつかでてきます。

 古田さんも以前指摘しておられました、「山」の高さの問題でも、『三国志』のなかで天柱山の高峻二十余里がありましたが、『漢書』の武帝紀の注で文穎が、介山という山を周七十里、高三十里と書いています。これも短里なわけです。文穎も魏の官僚です。

 有名な『漢書』地理志の倭人の「歳事を以って来たり献見すという」のところで、如淳の注では帯方東南萬里にありと書いてあり、これも短里ですね。
このように魏の官僚たちがみんな「短里」らしいことをしゃべっているわけですね。これは単純に「短里」はなかったんじゃないかという話にはならない。恣意的に見つけてくるというのにはできすぎています。そうした里単位があったとしなければ説明がつかない。〟51~53頁

 以上の「短里」の痕跡の指摘は谷本さんの研究のごく一部です。倭人伝をはじめ中国史料中の里程記事や里単位研究に当たっては、谷本さんの先行研究を咀嚼した上で進めていただきたいと 後継者には願っています。(つづく)

(注)
①谷本茂氏は京都大学時代からの古田説支持者で、現在は古田史学の会『古代に真実を求めて』編集部。古田武彦氏との共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(1994年)の著者紹介欄には次のように記されている。〝谷本 茂(たにもと しげる)
1953年 生まれ。
1976年 京都大学工学部電気工学科卒業。現在、横河・ヒューレット・パッカッード株式会社電子部品計測事業部勤務。
主な論文 「『周髀算経』之事」(『数理科学』№177)、「古代年号の一使用例について」(『神武歌謡は生きかえった』新泉社)、「中国古代文献と『短里』」(『古代史徹底論争』駸々堂)ほか。〟
②古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。


第3429話 2025/02/13

『三国志』短里説の衝撃 (4)

    ―『三国志』の中の短里―

 仁藤敦史氏は〝「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない〟(注①)とするのですが、その大前提となるのが『三国志』が漢代の里単位「長里」(一里約400m強)により里程記事が書かれているとする解釈です。これで倭人伝などの里程記事が問題なく読めるのであればまだしも、実際の距離とは5~6倍近く異なるため、諸説が出されてきたのですから、研究者として魏代の里単位が何メートルなのかを確認する作業が不可欠なはずです。しかし、仁藤氏の論文や著書にはその作業がなされた形跡が見えません。

 他方、古田武彦氏は〝単位問題では、いつでも、「その時代の単位の実体をまず確認する。この手続きが不可欠なのです。」〟(注②)として、『三国志』に書かれている里程記事を調査して、実際の距離との比較により、一里を「七五~九〇メートルで七五メートルに近い値」とする短里説を提唱しました。なお、谷本茂さんによる『周髀算経』の研究(注③)により、短里は一里76~77mであることが有力となりました。長里は一里435mとされています。具体的には次のような史料根拠と計算に基づいています。古田先生があげた多数の例から一部を紹介します。

○(一大国)方三百里なる可し。〔魏志倭人伝〕
壱岐島は約20kmの正方形内に収まり、短里では概略妥当であり、長里ではまったく妥当しない。ちなみに、魏の張政が軍事司令官(塞曹掾史)として二十年間倭国に滞在していたことが知られている。その軍事報告に基づいて倭人伝は記されていると考えられ、小島の壱岐島を五~六倍(面積比で二五~三六倍)の大きな島と張政が見間違うはずがない。
○(韓)方四千里。〔魏志韓伝〕
韓半島の南辺約300km÷4000里=約75m。東夷伝中の韓伝で短里が使用されている例。
○天柱山高峻二十余里。〔魏志張遼伝〕
天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。
○北軍を去ること二里余、同時発火す。〔呉志周瑜伝〕
周瑜伝裴注に江表伝が引文されている。その赤壁の戦の描写中にこの記事がある。呉の軍船が揚子江の中江に至って「降服」を叫んだのち、「二里余」に至って発火した。この赤壁の川幅は約400~500mであり、短里なら適切だが、長里ではとうてい妥当しない。公表伝は西晋の虞薄の著作であるから、『三国志』と同じく、短里で書かれていたことが判明する。

 以上のように『三国志』は魏・西晋朝の公認里単位「短里」で書かれており、当然のこととして倭人伝の里程記事も短里で読むべきです(注④)。したがって、郡(帯方郡)から倭国の都までの総里程「万二千余里」も短里であり、その到着点は博多湾岸(筑前中域)となります。他方、当地は「弥生銀座」と称されているように、弥生時代の鉄器、漢式鏡の列島内最多出土地で、最大の都市遺跡比恵那珂遺跡群(福岡市博多区・他)もあります。短里による行程理解と考古学出土物の双方が、倭国の都として同じ地点を指し示しているのです。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。
③谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』177号、1978年。
④「古田史学の会」研究者により、『三国志』内に長里が使用されている例が発見されている。『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年)を参照されたい。


第3428話 2025/02/12

『三国志』短里説の衝撃 (3)

     ―「短里説」無視の構造―

 「邪馬台国」畿内説の仁藤敦史氏の著書・論文(注①)には、短里説は全く触れられていません。その理由は、仁藤氏が採用した次のような論理構造の(ⅰ)と(ⅱ)にあります。

(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)

(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく、厳密な史料批判、東アジア的分析視角、考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値となっており、魏王朝の間接的な支配が及ぶ、限界の地という意味を持たされていたことになる。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)

(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)

 仁藤氏は(ⅰ)を大前提に論を進めるのですが、実はその大前提が間違っています。前半の〝「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない〟というのは仁藤氏の意見であり、それが正しいかどうかは検証の対象です。学問では当たり前のことですが、自らの意見を自説成立の前提とはできません。そのようなことは学者である仁藤氏には分かりきったことのはずです。ですから、後半の〝この点は衆目の一致するところである〟という一文が続いているわけですが、これもまた仁藤氏の意見です。すなわち、それも検証の対象であり、自説成立の前提にはなりません。しかも、「衆目の一致」という意見は二重の意味で誤りです。まず、学問の当否は多数決では決まらないという点で誤っています。更に、古田先生をはじめ(注②)、倭人伝の里程記事は短里によれば比較的正確な行程であり、日本列島内に位置づける説が複数の研究者(注③)から発表されています。したがって、衆目は決して一致しているわけではありません。

 (ⅱ)に至っては、長里説(一里約400メートル強)を論証抜きの大前提として初めて言えることであって、短里であればその大前提が崩れ、〝当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低い〟とする仁藤氏の解釈そのものが成立しません。こうした論理構造からもうかがえるように、畿内説は〝倭人伝の里程記事を信用しない理由〟を、それぞれの論者が〝手を変え品を変え〟て、今日まで発表し続けているといっても過言ではありません。この状況こそ、古田先生が

 「倭人伝中の里数値を漢代の里単位と同じ「単位」に解して、〝とんでもない錯覚〟の中に躍らされてきた、研究史上の苦い経験があります。たとえば、
○(韓)方四千里。 (魏志韓伝)
○郡(帯方郡治。ソウル付近)より女王国に至る、万二千余里 (魏志倭人伝)
を、〝大風呂敷だ〟と信じて疑わない「邪馬台国」論者がいまだに跡を絶たないのには、驚かされます。」

 と、50年前から言われてきたことなのです(注④)。近年の畿内説論者が、短里説の存在そのものに触れようともしない真の理由がここにあると、わたしは睨んでいます(ⅰとⅱの大前提が崩れるため)。ちなみに、古田先生の学問の方法は彼らとは真逆です。その精神が、名著『「邪馬台国」はなかった』の序文に次のように記されています。

 「わたしが、すなおに理性的に原文を理解しようとつとめたとき、いつも原文の明晰さがわたしを導きとおしてくれたのである。
はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。
その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう。」(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③安本美典氏や荊木美行氏(皇學館大学教授)は短里説を採用し、「邪馬台国」の位置を筑前朝倉や筑後山門とする。小澤毅(三重大学教授)も北部九州説である。
小澤毅「『魏志倭人伝』が語る邪馬台国の位置」『古代宮都と関連遺跡の研究』吉川弘文館、2018年。
④古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。


第3427話 2025/02/11

『三国志』短里説の衝撃 (2)

 ―「短里・里程」論争の研究史―

 「邪馬台国」畿内説の仁藤敦史氏の著書・論文(注①)には、短里説は全く触れられていません。谷本さんが指摘された「里数値はまったく信頼できないものとして無視し、里数値以外の情報にもとづいて女王国の位置を求めようとする立場」に立っています。もちろん、自説成立のために短里説を否定するのはかまいませんが、それならば短里説を紹介し、根拠をあげて学問的に批判するのが学者や研究者のあるべき姿だとわたしは思います。

 短里説が取るに足らない仮説であるのならば、古田先生が『三国志』短里説を1971年に発表した後(注②)、あれほど長期にわたる論争が続くはずもありません。良い機会ですので、当時の短里・里程論争の関連著書を紹介します。
古田先生と谷本茂さんの共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(注③)で、谷本さんが次の書籍・論文を紹介しています。

【「魏・西晋朝短里説」への反論】
○山尾幸久『魏志倭人伝』講談社、1972年
○白崎昭一郎『東アジアの中の邪馬臺国』芙蓉書房、1978年。
○佐藤鉄章『隠された邪馬台国』サンケイ出版、1979年。
○安本美典『「邪馬壹国」はなかった』新人物往来社、1980年。
○『季刊邪馬台国』12号、梓書院、1982年。13号、1982年。35号、1988年。などに里程の特集。
○原島令二『邪馬台国から古墳の発生へ』六興出版、1987年。
○石田健彦「『三国志』の里単位について ―「赤壁の戦」を疑う―」『市民の古代』14集、新泉社、1992年。

【里程論争について】
○三品彰英『邪馬台国研究総覧』創元社、1970年。
○篠原俊次「魏志倭人伝の里程単位」『季刊邪馬台国』35号、1988年
○古田武彦『古代は沈黙せず』駸々堂出版、1988年。
○古田武彦編『古代史討論シンポジウム 「邪馬台国」徹底論争』第一巻 言語、行路・里程編、新泉社、1992年。
○秦政明「『三国志』における短里・長里混在の論理性」『市民の古代』15集、新泉社、1993年。
○帯刀永一「短里説・長里説の再検討」『市民の古代』15集、新泉社、1993年。

【『周髀算経』に基づく短里説批判とそれへの反論】
○篠原俊次「一寸千(短)里説批判」『五条古代文化』30号、五条古代文化研究会、1985年。
○篠原俊次「魏志倭人伝の里程単位 ―その4―」『計量史研究』8号、日本計量史学会、1985年。
○谷本茂「『周髀算経』の里単位について」『季刊邪馬台国』35号、梓書院、1988年。

 このように50年以上前から、20年間にわたって続けられた「短里・里程」論争に一切触れない仁藤氏の論文・著書を、「時代を50年逆行している」と谷本さんが批評したのはもっともなことです。最後に、倭人伝中の里単位について言及した古田先生の著書『邪馬一国への道標』(注④)の次の一文を紹介します。

 「倭人伝中の里数値を漢代の里単位と同じ「単位」に解して、〝とんでもない錯覚〟の中に躍らされてきた、研究史上の苦い経験があります。たとえば、
○(韓)方四千里。 (魏志韓伝)
○郡(帯方郡治。ソウル付近)より女王国に至る、万二千余里 (魏志倭人伝)
を、〝大風呂敷だ〟と信じて疑わない「邪馬台国」論者がいまだに跡を絶たないのには、驚かされます。つまり、単位問題では、いつでも、〝その時代の単位の実体をまず確認する。この手続きが不可欠なのです。〟」同書一〇七頁 (つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。
④古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。

【写真】『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』出版30周年記念講演会での谷本さんと古賀の祝賀講演。東京朝日新聞社ホールにて、2001年10月8日。


第3425話 2025/02/09

『三国志』短里説の衝撃 (1)

 ―短里説を避ける「邪馬台国」畿内説―

 〝倭人伝「七万余戸」の考察 (1)~(5)〟として続けてきた前話までの論点を〝『三国志』短里説の衝撃〟に変えて、「邪馬台国」畿内説論者、仁藤敦史氏の著書・論文(注①)が「時代を50年逆行している」ことについて詳述します。
短里説をテーマとした古田先生と谷本茂さんの共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(注②)には、谷本さんによる次の的確な分析が示されています。

 「『三国志』倭人伝には、魏の直轄地帯方郡(郡治は現在のソウル付近)から倭の女王の都する邪馬壹国までの行路里程が記されている。全体の行程は、郡(帯方郡)より女王国(邪馬壹国)に至る万二千余里とある。進行方向は大略南であるから、一里=四〇〇メートル強の通常の魏代の里単位で理解しようとすると、ソウル近辺から南へ五〇〇〇キロメートルの遠隔地が女王国の候補地となる。はるか熱帯のどこかの島に卑弥呼がいたのであろうか。(中略)一般の古代史研究者は、あくまでも女王国を日本列島内に求めようと努力している。
したがって、倭人伝の行路里程記事に対する態度は、論理的に二つに分かれざるをえない。里数値はまったく信頼できないものとして無視し、里数値以外の情報にもとづいて女王国の位置を求めようとする立場と、里数値を合理的に解釈しようと努力する立場とがある。」98ページ

 仁藤氏の場合は他者の研究や様々な解釈を並べますが、本質的には前者の立場をとります。氏の論文「倭国の成立と東アジア」と著書『卑弥呼と台与』では、自らの立場(里数値はまったく信頼できない)を表明し、「邪馬台国」畿内説へと結論づけます。その主たる論理構造は次のようです。ちなみに短里説には全く触れていません。

(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)

(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく、厳密な史料批判、東アジア的分析視角、考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値となっており、魏王朝の間接的な支配が及ぶ、限界の地という意味を持たされていたことになる。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)

(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)

 以上のような論理構造を持つ仁藤説ですが、ひとつずつ検証することにします。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。


第3424話 2025/02/07

倭人伝「七万余戸」の考察 (5)

 ―50年逆行する「邪馬台国」畿内説―

 今回のテーマ「七万余戸」に限らず、文献史学の「邪馬台国」畿内説論者たちは、倭人伝に記された里数値や行程方角、戸数などをなぜか信頼できないとします。そこで、代表的な畿内説論者の仁藤敦史さんの著書・論文(注①)を取り寄せ、読んでみました。その読後感は「倭人伝研究が古田武彦以前の状況、言わば50年逆行している」というものでした。ちなみに同様の感想を、古田学派の中でも中国史書・倭人伝研究に最も精通する谷本茂さん(古田史学の会・編集部、日本科学史学会・会員)も漏らされていました。

 谷本さんは京都大学時代(工学部)からの古田説支持者で、中国古典の天文算術書『周髀算経』の研究により、周代に短里(1里=76~77m)が使用されていたことを明らかにした研究業績が著名です(注②)。その谷本さんから、仁藤さんら「邪馬台国」畿内説論者の倭人伝研究は「50年、時代に逆行している」と聞いていたのですが、実際に読んでみると、まさにその通りでした。併せて読んだ安本美典氏の著作『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(注③)の方が考古学エビデンスも解釈も〝はるかにまとも〟と思えたほどです。

 詳しくは後述しますが、古田先生や谷本さんが明らかにした魏・西晋朝短里説は、「邪馬台国」畿内説にとって最も不都合な仮説なのです。その証拠に、仁藤さんや渡邉義浩さんの著書(注④)には、古田先生が50年前に提起し、当時論争が続いた短里説が全く扱われていません(注⑤)。短里説の存在を読者には絶対に知られたくないかのようでした。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』1978年3月。
「解説にかえて 魏志倭人伝と短里 ―『周髀算経』の里単位―」、古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。
同「『邪馬一国の証明』復刻版解説」、古田武彦『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房、2019年。
③安本美典『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』宝島社新書、2009年。
④渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』中公新書、2010年。
⑤古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年(昭和46)。ミネルヴァ書房より復刻。
古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。

 

【写真】谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」の短里計算式と関西例会で発表する谷本さん