邪馬壱(壹)国一覧

第3423話 2025/02/06

倭人伝「七万余戸」の考察 (4)

 ―戸数と面積の相関論(正木裕説)―

 弥生時代の人口推計学の方法(遺跡の「発見数」を計算に使用)や推定値(弥生時代の人口約60万人)が、同分野の研究者(注①)からも「計算方法に根本的な問題がある」との疑義が出されていることから、そのような推定値を根拠として、倭人伝の「七万余戸」を否定することはできないことがわかりました。

 そこで今回は文献史学の立場から、倭人伝に記された各国の戸数とその領域の平野部面積に相関があり、その戸数が信頼できることを実証的に論じた正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の研究「邪馬壹国の所在と魏使の行程」(注②)を紹介します。同研究の概要を説明したメールが正木さんから届きましたので、転載します。詳しくは『古代に真実を求めて』17集に収録した正木論文を読んで下さい。

【以下、メールを転載】
古賀様
極めて大雑把な計算ですが、壱岐の面積と戸数をもとに計算した「魏志倭人伝」の各国の面積と領域は次のとおり。

①壱岐(一大国)は138㎢・3千許家で、これから比例させた、「千戸(家)」の伊都国・不彌国両国の面積は1/3の各約50㎢。
(*壱岐の耕地面積割合は1/3程度。怡土平野はほぼ耕地だからこれを一定考慮すれば両国は約25㎢=方5㎞の範囲の国)

②「奴国」の「二万戸」を比例させれば約800㎢。これは山岳部(背振山脈)を除外すれば怡土平野+肥前国程度。

③「邪馬壹国」の「七万戸」を比例させれば約2800㎢。これは山岳部(古処馬見英彦山地)を除けば、南西は筑後川河口の有明海岸まで、南は耳納山地を含み、東は周防灘沿岸の豊前市付近まで、北東は直方平野から関門海峡までを包む領域で、邪馬壹国は筑前・筑後の大部分と豊前といった北部九州の主要地域をほとんど含んだ大国だったことになる。

 つまり壱岐の戸数と面積をもとにすれば「七万戸」は北部九州、それも福岡県とその周辺に収まる「合理的な戸数」になります。
全国で60万人などという人口推計がおかしいのです。
正木
【転載おわり】

 この正木さんの計算方法は簡単明瞭であり、誰でも検証可能なデータに基づいていますから、説得力があります。他方、現在の文献史学における「邪馬台国」畿内説論者たちは、倭人伝に記された里数値や行程方角、戸数などをなぜか信頼できないとします。そこで、畿内説論者の著書・論文(注③)を入手し、取り急ぎ読んでみました。(つづく)

(注)
①中村大「北海道南部・中央部における縄文時代から擦文時代までの地域別人口変動の推定」『令和元年度縄文文化特別研究報告書』函館市縄文文化交流センター、2019年。
http://www.hjcc.jp/wp/wp-content/themes/jomon/assets/images/research/pdf/r1hjcc_report.pdf
②正木裕「邪馬壹国の所在と魏使の行程」『古代に真実を求めて』17集、明石書店、2014年。
③渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』中公新書、2010年。
仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。


第3422話 2025/02/05

倭人伝「七万余戸」の考察 (3)

 ―人口推計方法の限界―

 弥生時代の人口推計学の方法は本当に正しいのかという疑問をどうしても払拭できませんので、とりあえずネット上の緒論を見てみました。それによれば、鬼頭宏氏の推定人口(注①)は小山修三氏の説(注②)に依拠しているとのことで、次のような説明と計算式が示されていました(注③)。

【以下、転載】
2-1 原典データの人口算出プロセス
原典データは大略次のようなプロセスで人口を算出しています。

ア 日本でもっともふるく、かつ比較的信頼性のたかい人口データである沢田吾一(1927)の奈良時代人口(国別租税高による推算)を基準とする。
イ 沢田データに時間的に近い土師期(古墳、奈良、平安)遺跡数をもとめる。
ウ データのそろう関東地方の遺跡当たり基準価Vを求める。
V=P/T 遺跡当たり基準価(V)=土師期の人口(P)/遺跡総数(T)
V=943000/5549≒170
エ 縄文各期の人口は例えば
縄文中期人口=縄文中期制限定数(C)×縄文中期遺跡数×V
でもとめる。
期別制限定数は結果蓋然性が高くなるような方法により早期1/20、前期1/7、中期1/7、後期1/7、晩期1/7、弥生1/3を設定する。(Shuzo Koyama 1979)
【転載おわり】

 この人口推定に用いられた計算式が論理的に妥当かどうか、わたしには判断できませんが、推定にあたり、各時代ごとの遺跡数が主要ファクターになっていることは明確です。また、「期別制限定数」なるものも、恣意性が排除できない曖昧な数値のように見えます。

 このような計算式で精確な人口が推定出来るものなのでしょうか。そもそも、各時代の遺跡数などわかるはずもありません。わかるのは発見された遺跡の数だけですし、遺跡の性格や規模はどのようにカウントし、定数に反映させているのでしょうか。はっきり言って、こんな計算式で縄文時代や弥生時代の人口が推定できるとは、わたしには到底思えません。そこで、人口推定の専門家の論文を探しました。

 近年では、小山氏の人口推計に問題があるとする研究者は少なからずいるようです。たとえば立命館大学に縄文時代の人口研究を専門とする中村大氏がいます。氏の論文「北海道南部・中央部における縄文時代から擦文時代までの地域別人口変動の推定」(注④)の「小山推定の意義と問題点」において、「計算方法に根本的な問題がある」として、計算に使用した遺跡数が「発見数」であり、「本当の存在数」ではないと指摘しています。これこそわたしが問題視していたことの一つです。

 このように問題が指摘されている現代の研究者による人口推定値を根拠として、同時代史料である倭人伝の記事を否定するのは、文献史学の方法から見ても問題ではないでしょうか。現代人の認識によって、古代史料を改訂・否定(たとえば倭人伝の中心国名「邪馬壹国」を「邪馬臺(台)国」に、その位置を示す方角「南」を「東」と書き換えるなど)するには、必要にして十分な論証が必要であると、古田先生が述べてきた通りです。ですから、疑うべきは同時代史料よりも、問題があるとされる現代人による推定値の方ではないでしょうか。

 なお、中村さんは2018年に、弥生時代の人口推定の新しい方法を発表されたらしく、立命館大学の知人を介して中村さんにお会いし、御教示いただこうかと考えています。専門家に直接お聞きするのが、より勉強になると思いますので。(つづく)

(注)
①鬼頭宏『図説 人口で見る日本史』PHP出版、2007年。
②『ブログ歴史人口学』によれば、小山修三氏の説に依拠した鬼頭宏氏の推定人口は次のように説明されている。
遺跡数と、遺跡当たりの推定収容人口比から、弥生時代に関しては遺跡数に56、中期以降の縄文時代に関しては遺跡数に24、縄文時代早期に関しては遺跡数に8を乗じた値をそれぞれの時代の推定人口とすることで算出された。
縄文時代早期 2万0100人
縄文時代前期 10万5500人
縄文時代中期 26万1300人
縄文時代後期 16万0300人
縄文時代晩期 7万5800人
弥生時代 59万4900人
http://houki.yonago-kodaisi.com/F-geo-Jinkou.html
③『ブログ花見川流域を歩く』「縄文時代人口データ原典の考察」2020年6月7日
https://hanamigawa2011.blogspot.com/2020/06/blog-post_7.html
④中村大「北海道南部・中央部における縄文時代から擦文時代までの地域別人口変動の推定」『令和元年度縄文文化特別研究報告書』函館市縄文文化交流センター、2019年。
http://www.hjcc.jp/wp/wp-content/themes/jomon/assets/images/research/pdf/r1hjcc_report.pdf


第3421話 2025/02/04

倭人伝「七万余戸」の考察 (2)

 ―弥生時代に戸籍はあったか―

 『三国志』魏志倭人伝に記された邪馬壹国の人口記事「七万余戸」という数字は誇張されたもので信頼できないとされているようです。その理由の一つに、「弥生時代に戸籍制度があったとは思われない」という意見があります。他方、当時の国家制度は中国の影響を受けて、その時代にふさわしい制度があったとする意見もあります。わたしもこの意見に賛成です。

 とは言え、当時の倭国の「戸」制度の内容は未詳です。しかし倭人伝に次の記事が見え、注目されます。

 「尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。」

 「租賦を収む」とあるように、「租賦」(祖は穀物、賦は労役と考えられている。注①)を徴収する制度が記されていることから、徴税・徴発のためには戸籍が不可欠です。特に労役や徴兵のためには人口や年齢構成などの把握が必要ですから、吉野ヶ里遺跡や比恵那珂遺跡のような大規模集落、大都市遺構の存在を見ても、それらを造営・維持管理するための国家制度(戸籍・官僚制度・軍事制度・官道など)があったことを疑えません。

 戸制度については古田先生による考察が『倭人伝を徹底して読む』の「第七章 戸数問題」(注②)にあり、倭人伝に見える「戸」を「魏の制度としての戸」としています。そこでは『漢書』地理志の戸数が列記されており、その一戸あたりの人数を計算すると概ね四人から五人であることがわかります。この数値を援用すれば、邪馬壹国の「七万余戸」は約30~35万人となります。これでも邪馬壹国だけで現代の人口推計学による弥生時代の推定人口(北海道・沖縄を除く)約60万人の半数ほどになりますから、両者は整合していません。どちらがより正しいのでしょうか。わたしが学んだ文献史学の方法や立場からは、現代の人口推計学の方法は本当に正しいのかという疑問をどうしても払拭できません。(つづく)

(注)
①国営吉野ヶ里歴史公園HP「弥生ミュージアム 第五章 弥生時代の社会」の解説による。
②古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。


第3420話 2025/02/03

倭人伝「七万余戸」の考察 (1)

 八王子セミナー(注①)の実行委員として、橘高修さん(東京古田会副会長)と意見交換する機会に恵まれました。今、検討しているテーマは、『三国志』魏志倭人伝に記された邪馬壹国の人口記事「七万余戸」の信頼性についてです。当該記事は次のようです。

 「南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。」

 一戸の人数がどれくらいかはわかりませんが、仮に5~10人であれば「七万余戸」の邪馬壹国の人口は35~70万人になります。橘高さんから教えていただいたのですが、現代の人口推計学によると、弥生時代の列島の人口(北海道・沖縄を除く)は約60万人とのことなので(注②)、倭人伝の「七万余戸」という記事は誇張されたもので信頼できないとされています。また、弥生時代に戸籍制度があったとは思われないことも、この「七万余戸」という史料事実を歴史事実とはできない理由になっているようです。

 他方、文献史学の方法からすれば、確たる根拠もなく、現代人の認識とあわないという理由で史料事実を否定してはならず、まずは書かれてあるとおりに古代中国人の認識として理解しておくということになります。そのため、現代人による人口推計値約60万人が、どの程度確かな方法や理論により成立しているのかを調べることが必要です。

 更に、もう一つの課題である、邪馬壹国の時代に戸籍があったのか、当時の一戸は何人くらいなのかという調査も必要です。橘高さんの問題提起を受けて、わたしはこれらのテーマについて勉強を始めました。(つづく)

(注)
①八王子市にある大学セミナーハウス主催の「古田武彦記念古代史セミナー」の略称。毎年11月に開催。協力団体として「古田史学の会」も参加している。
②鬼頭宏『図説 人口で見る日本史』PHP出版、2007年。


第3415話 2025/01/24

日野智貴さんの歴史教科書改訂案

 1980年頃のこと。歴史教科書に古田説が掲載されたことがあったことを「洛中洛外日記」3404話(2024/12/31)〝教科書に「邪馬壹国」説が載った時代〟で紹介しました。その後、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の調査により、昭和49年(1974)に三省堂から出版された家永三郎先生の教科書『新日本史』には、本文の「卑弥呼」で次のように書かれていたことがわかりました。

 「卑弥呼は、「魏志」の本文によれば、「邪馬壹国」の女王であったとしるされている。従来はこれを『後漢書』により「邪馬臺国」(臺は台)の誤りと考え、国名をヤマトと読み、そのヤマトが九州のヤマトであるか、今の奈良県のヤマトであるかについて、長年月にわたり、学界で論争がつづけられてきた。最近「壹」は誤字ではないという説があらわれ、卑弥呼の支配する国の名と所在地をめぐり、新しい論議を生んでいる。」16ページ

 このように『三国志』倭人伝原文には邪馬壹国とあることが記され、〝「壹」は誤字ではない〟とした古田説が紹介されています。しかし、現在の教科書本文からは邪馬壹国は消えています。そこで、教科書に詳しい日野智貴さん(古田史学の会・編集部員)に教科書改訂案を作って欲しいとお願いしたところ、次の案が示されました。教科書を書き換えるための効果的な視点を持つ改訂案ではないでしょうか。要点のみ紹介します。

山川出版社『詳説日本史 日本史探究』
「邪馬台国連合」改訂案
日野智貴

p.18 11行目より
《現状》
そこで諸国は共同して邪馬台国〈やまたいこく〉の卑弥呼〈ひみこ〉を女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまり、ここに邪馬台国を中心とする29国ばかりの小国の連合が生まれた。

《修正案》
そこで諸国は共同して邪馬台国〈やまたいこく〉(邪馬壱国〈やまいち(ゐ)こく〉)の卑弥呼〈ひみこ(ひみか)〉を女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまり、ここに邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた。

《訂正の趣旨》
学習指導要領には「原始・古代の特色を示す適切な歴史資料を基に,資料から歴史に関わる情報を収集し,読み取る技能を身に付けること」とある。
現行教科書も資料引用部分には「読みといてみよう」の言葉とともに『魏志』「倭人伝」の引用が記され、そこには「今使訳通ずる所三十国」「邪馬壹国に至る」等の記述がある。また「邪馬壹国」の注釈には「壹(壱)は臺(台)の誤りか」とあり、誤りであると断定はしていない。
にも拘らず、本文では「邪馬台国」とのみ掲載し、さらに「三十国」も「29国」としているのは、単に古田学派の立場からオカシイだけでなく、歴史資料を読み取る能力を育成するうえでも問題である。資料の注釈が両論併記ならば、本文も両論併記にすることは当然である。それが資料を読み取る能力の育成につながる。

p.19 6行目より
《現状》
一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は北部九州を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したか、あるいは邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。

《修正案》
一方、九州説をとれば、邪馬台国(九州説では邪馬壱国が正しいとする見解もある)連合は北部九州を中心とするものであるが、北部九州のみの比較的小範囲のものか、本州西部まで含む規模のものかは議論がある。ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したか、あるいは邪馬台国(邪馬壱国)の勢力かその分派が東遷してヤマト政権を形成したということになる。

《訂正の趣旨》
邪馬台国大和説とは異なり、九州説は多種多様な意見が存在するのであり、大和説同様一枚岩の仮説のように扱うのは不適であるし、また「多面的」な考察を妨げるものである。

 もちろん、様々な仮説を同様に紹介するのは困難であるが、例えば邪馬台国そのものではなくその分流が東遷したというのは、古田先生を批判していた安本美典氏も主張している説であり、立場の異なる複数の論者が主張している見解は教科書に掲載するべきである。


第3357話 2024/09/30

関川尚功先生と東京講演会の打ち合わせ

 今日は奈良市に向かい、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)と二人で関川尚功(せきがわ・ひさよし)先生(元・橿原考古学研究所々員)と10月27日(日)の東京講演会の講演内容について、詳細にわたり打ち合わせを行いました。リハーサルを兼ねて、講演に使用する写真・図約60枚について解説していただきました。

 邪馬壹国時代の弥生後期を中心として、古墳時代前期の畿内と北部九州などから出土した鏡・鉄器製造遺物(ふいご、砥石、小鉄片)・銅鐸、古墳内の石室・木郭などを紹介され、ヤマトには「邪馬台国」の片鱗も見えず、それに比べて北部九州の金属器などの先進性が、これでもかこれでもかと説明が続きました。更に、弥生後期の金属器文化が古墳時代になるとヤマトへ流入したことも教えていただきました。こうしたことを10月27日、東京(文京区民センター)で報告されます。恐らく、関東の皆さんには初めて聞く内容ではないでしょうか。

 関川先生から提供された写真をレジュメとして編集する作業に入ります。『古代に真実を求めて』28集の投稿も多数届いていますので、その査読や自らの研究・執筆、講演の準備などが重なり、10月は超多忙な日々が続きます。健康に留意して頑張りますが、「古田史学の会」を支える次の世代や後継者の発掘・引き継ぎも鋭意進めたいと考えています。皆さんのお力添えもお願いいたします。


第3312話 2024/06/27

関川尚巧(元橿原考古学研究所)さん

           との考古談義

 一昨日、奈良市で関川尚巧(せきかわ ひさよし)さんと長時間考古学・古代史談義をしました。関川さんは元橿原考古学研究所の考古学者で、学生時代から40年近く大和・飛鳥を発掘されてきた方です。今でも、発掘の現地指導をしているそうです。そうした永年の経験に基づいた〝大和に邪馬台国はなかった〟とする『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』(注①)の著者でもあります。「古田史学の会」でも講演していただきました。

 今回の面談では、「多元的古代研究会」「古田史学の会」創立30周年記念東京講演会(日程・会場は未定)での講演依頼とその打ち合わせを行いました。「古田史学の会」からは正木事務局長・竹村事務局次長・上田事務局員とわたしが出席し、打ち合わせ後は三時間にわたり考古学や古代史について歓談が続きました。

 関川さんの遺跡発掘体験談の数々をお聞きしましたが、なかでも太安萬侶墓発掘時(注②)のエピソードはとても興味深いものでした。同墓は茶畑開墾中に発見されたとのことで、そのとき墓誌が移動したため、墓誌本来の位置が不明だったのですが、墓誌の破片の一部が本来の場所に残っていることを関川さんが発見され、その破片の場所が本来の墓誌の位置であることを確定できたとのことでした。この他にも、飛鳥や奈良県から出土した多くの有名な遺跡発掘調査に関川さんが携わられていることをうかがうことができました。

 ちなみに、「邪馬台国」畿内説は全く成立せず、北部九州であるという点は、わたしたちと完全に意見が一致したことは言うまでもありません。氏の考古学に対する情熱や真摯な学問精神は共感するところ大でした。関東の皆さんにも関川さんの講演を聴いて頂きたいと願っています。

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②1979年(昭和54年)、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土した。


第3067話 2023/07/13

『隋書』俀国伝に記された

         都の位置情報 (7)

 『隋書』俀国伝冒頭では、俀国の位置を百済・新羅の東南と記しているにもかかわらず、大業四年(608年)の隋使の行程記事には、「東」へ至るという方角記事はあっても、「南」に至るという記事がありません。これでは「東南」方向には行けませんので、方角が記されていない竹斯国や十餘国は「南」方向とするのが妥当な読解と考えました。その理解を後押しするのが、俀国の都「邪靡堆」のことを説明した次の記事です。

 「都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。」

 俀国の都とされた「邪靡堆」とは、『三国志』魏志倭人伝にある「邪馬臺」のことであるとの説明文です。実際には「邪馬壹国」と倭人伝にはあるのですが、ここでは『後漢書』の「邪馬臺国」表記(注①)が採用されています。倭人伝に記された女王卑弥呼が都した邪馬壹国の位置情報は次のように記されています。

 「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所、水行十日陸行一月。」

 古田説(注②)によれば、博多湾岸にあった不彌国の南に女王の都、邪馬壹国があるとする記事です。不彌国は邪馬壹国の〝玄関〟に相当し、その南に七万餘戸の大国「邪馬壹国」が隣接しています。従って、『隋書』の読者が先の「邪靡堆」解説記事を読めば、この倭人伝の一節に至り、都の「邪靡堆」は南方向にあるとの読解が妥当であることを確認できるようになっているわけです。もちろん『隋書』編纂者もそのように読者が認識することを期待して、「則魏志所謂邪馬臺者也」との説明文を記したのです。
従って、隋使の行路は糸島博多湾岸付近(竹斯国)に上陸した後、東へ向かい秦王国に至り、その後は南方向に十餘国を経て、海岸に達したと理解するのが最も妥当な解釈です(注③)。その結果、阿蘇山の噴火が見える肥後に至ることが可能となります。もし南以外の方向に進めば隋使は阿蘇山の噴火を見ることなどできません。この阿蘇山の記事も、隋使の進行方向が南であることを強く支持しているのです。なお、十餘国を経て着いた海岸を、当初わたしは有明海と考えていましたが、もっと南の不知火海方面かも知れません。十餘国という国の数を考えると、筑後の海岸(有明海北部)よりも肥後の海岸(有明海南部~不知火海)がより妥当かもしれません。この点、今後の検討課題にしたいと思います。(おわり)

(注)
①『後漢書』倭伝に次の記事が見える。
「倭は韓の東南大海の中にあり、山島に依りて居をなす。(中略)その大倭王は、邪馬臺国に居る。」
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
③この行路理解を実際の地図に当てはめると、旧西海道と一致するようである。糸島博多湾岸に上陸し、福岡市から筑紫野市へ、そして朝倉街道を東に向かい、うきは市方面に至り、その後、久留米市から南の八女市方面へ抜け、肥後に至るというルートを想定できる。恐らく、隋使は鞠智城を経由し、阿蘇山の噴煙を眺めながら肥後国府(熊本市)に至ったのではあるまいか。そして、有明海南部から不知火海付近の海岸に達したと思われる。


第2855話 2022/10/07

邪馬臺国と邪馬壹国〝裴松之の証言〟

 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』(注①)を読んで古田史学のファンになった人は少なくないと思います。かく言う、わたしもその一人です。『三国志』原文に邪馬臺(台)国という国名はなく、邪馬壹国であることに一驚し、「壹」は「臺」の誤りとしてきた通説への反証として、『三国志』中の全ての「壹」と「臺」の字を抜き出し、両者が誤って使用されていないことを実証する悉皆調査という学問の方法に二驚するという経験を読者は共通して抱かれたはずです。このとき、わたしは古代史研究において、いかに「学問の方法」が大切かということを始めて認識し、「学問の方法」というものを強く意識しながら、今日まで古代史研究を進めてきました。
 そこで、今回紹介するのは、「邪馬台国」論争における〝裴松之(はいしょうし)の証言〟という古田先生の論証方法です。この論証は古田ファンでもご存じない方が少なくないようですので、その背景も含めて論じたいと思います。
 古田先生の「邪馬壹国」説に対して、通説側からよく出される反論に、〝五世紀に成立した『後漢書』には「邪馬臺国」とあり、『三国志』版本のみに見える「邪馬壹国」は〝天下の孤称〟であり、『三国志』原本には「邪馬臺国」とあった〟とするものがありました(注②)。これに対する反証として提起された論証の一つが〝裴松之の証言〟です(注③)。
 『三国志』は三世紀に成立した同時代史料ですが、現存版本には五世紀の南朝劉宋の官僚、裴松之(372~451年)による大量の注が付されています。ちなみに『後漢書』は同じく南朝劉宋の范曄(はんよう、398~445年)により編纂されたものです。この裴松之の注について、古田先生は次のように解説されています。

〝朝命を受けて『三国志』に対する校異を行った裴松之が『三国志』と同時代の史書・資料二七二種を対比して、二〇二〇回にわたって、異同を精細に検証していながら、問題の「邪馬壹国」については何等の校異も注記していない事実。この史料事実に刮目すべきだ。裴松之は冒頭の「上三国志注表」に次のように書いている。
 「其れ、寿(『三国志』の著者、陳寿)の載せざる所、事の宜しく録を存すべき者は、則ち採取して以て其の闕(けつ)を捕はざるは罔(な)し」「或は事の本意を出し、疑いて判ずる能(あた)はざれば、並びに皆、内に抄す」「事の当否、寿の小失に及ばば、頗る愚意を以て論弁する所有り」〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、194頁。

 『後漢書』が編纂された南朝劉宋において、その官僚裴松之が『三国志』を校異したことは重要で、次のように古田先生は指摘されました。

〝つまり“『三国志』本文に問題があれば、のがさず批判を加え、異本があれば正文・異文ともに収録する”といっているのだ。しかも、これは南朝劉宋の朝廷の勅命によって行った仕事だ。当時現存の『三国志』諸本は、当然裴松之の視野内にあったはずである。しかるに、裴松之は「邪馬臺国」という異本のあったことを一切記していない。(中略)
 このような史料事実を直視する限り、従来「邪馬台国=大和」説を唱道してこられた直木孝次郎氏が「公平にみて古田説に歩(ぶ)のあることは認めなければなるまい」(「邪馬台国の習俗と宗儀」、『伝統と現代』第二十六号〈邪馬台国〉特集号)と言われるに至ったのは、不可避の成り行きである。
 後代著作をもってする「多数決の論理」で代置するのではなく、「壹」を非とし、「臺」を是とする、具体的な実証だけが必要だ。それなしにこの史料事実を恣意的に“書き変える”ことは許されない。〟同194~195頁

 この五世紀における〝裴松之の証言〟は、同一王朝内で成立した『後漢書』の「邪馬臺国」表記を根拠に「邪馬壹国」説を批判することが、学問の論理上成立しないことを明らかにしたのです。

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971年)。ミネルヴァ書房より復刻。
②藪田嘉一郎「『邪馬臺国』と『邪馬壹国』」『歴史と人物』1975年9月。
③古田武彦「九州王朝の史料批判 ―藪田嘉一郎氏に答える―」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。初出は『歴史と人物』1975年12月。


第2651話 2021/12/29

奈良新聞に〝「邪馬壹国九州説」有力〟の記事

 令和三年の最後を飾る素晴らしいプレゼントが竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から届きました。12月28日付の奈良新聞です。
 その第4面(カラー)の一頁全てを使って〝「邪馬壹国九州説」有力 考古学・科学分析で確実に〟という見出しで(邪馬台国ではなく邪馬壹国と表記)、正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)の講演「改めて確認された博多湾岸の宮都」(12月14日、和泉史談会主催)が記事として掲載されているのです。同記事の冒頭には次のように紹介されています。

 「2021年もまもなく終わろうとしている。今年もコロナ禍で古代史関係の数多くのイベントや講演会が中止となった。そんな中、大人数ではなく、小規模な講演会が京阪奈では開催され続けてきた。その中の一つの講演会を追ってみた。(後略)」

 記事では正木さんの講演内容が鉛同位体分析グラフや博多湾岸の地図も使って丁寧に紹介されているほか、「2021年の古代史講演会」一覧も付されており、そこには古代大和史研究会(原幸子代表)、古田史学の会(古賀達也代表)、市民古代史の会・京都(山口哲也代表)、誰も知らなかった古代史の会(正木裕代表)、和泉史談会(辻野安彦代表)、市民古代史の会・東大阪(服部静尚代表)、市民古代史の会・八尾(服部静尚代表)の各会が主催した講演会の講師と演題が紹介されており、古田史学の会々員を初めとする研究者による関西各地での講演活動の記録となっています。
 古田先生の邪馬壹国説や九州王朝説が人々に受け入れられつつあることが紙面からうかがえるのですが、地元紙として邪馬台国畿内説を支持していても不思議ではない奈良新聞に、こうした古田説に基づく講演記事が大きく掲載されていることに驚くと共に、時代の変化を感じました(注)。
 あらためて各講演会の主催者の皆さんに感謝し、正木さんを初めとする講師の方々に敬意を表したいと思います。令和四年(2022年)はもっと良い年になりそうです。

(注)元橿原考古学研究所の関川尚巧氏は、奈良からは「邪馬台国」の痕跡は出土せず、考古学的にも北部九州にあったとする。
 関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。

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第2488話 2021/06/12

文献史学はなぜ「邪馬台国」を見失ったのか

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 考古学的出土事実と倭人伝の史料事実に基づき、「邪馬台国」大和説を鋭く批判している関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)ですが、肝心の「邪馬台国」の位置については、その論理的だった姿勢に揺らぎがみえます。たとえば、『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)には「邪馬台国」の所在について次の記述があります。

〝文献史学の大勢である邪馬台国九州説〟86頁

〝邪馬台国の位置問題についても、このような北部九州を起点とする、大きな文化の流れの中にあることは明らかで、その中で近畿中部の優位性を説くことは不可能である。〟160頁

〝邪馬台国は、このような対中国外交を専権として、他地域とは隔絶した内容をもつ、北部九州地域の中においてのみ出現することが可能であったと理解するのが、やはり順当な見方といえよう。
 このような趨勢においては、邪馬台国大和説は成り立つ術はないのである。〟161頁

〝当時の中国の政治情勢をみると、日本列島の中においては、九州以外に邪馬台国の存在を考えることはできないことになる。〟171頁

〝また、『魏志』は中国正史であるため、位置問題についても、それまで特に東洋史家を中心とした解釈と大局的な観点により、文献上からは、ほぼ九州説が大勢であるといえるのが主な邪馬台国論考を通覧してみた感想である。〟188頁

 このように、関川さんはご自身の専門分野である考古学だけではなく、文献史学・東洋史・地政学など多方面にわたる関連諸学の知見も取り入れて、「邪馬台国」の所在地を北部九州とされています。ところが、北部九州のどこかという問題には答えておられません。
 その理由は、文献史学の学者が、列島内最大規模の博多湾岸遺跡群を奴国(二万余戸)に比定してしまったため、奴国以上の規模(七万余戸)の「邪馬台国」(倭人伝原文は邪馬壹国)の候補地とできる弥生時代の大型遺跡など日本列島にはなく、そのために比定地を見失ってしまったことによります。その結果、関川さんは次のような結論へと向かわれました。

〝邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに超えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。〟180~181頁

〝卑弥呼の宮殿の行方
 このような遺跡の現状をみると、女王が都する所とされた邪馬台国中枢に相当する遺跡は、必ずしも湾岸地域にある奴国級の大型遺跡であると想定することはできないであろう。〟181頁

〝結論は、九州説の内容を肯定するというよりも、大和説は成り立たないという、いわば消去法による邪馬台国位置論という結果になった。〟187頁

 すなわち、関川さんのような文献にも詳しい考古学者でも、文献史学の〝誤解〟に躓かれたと言わざるを得ません。
 それではなぜ文献史学ではこのような結論、「邪馬台国」の位置不明となる博多湾岸「奴国」説に至ってしまったのでしょうか。それは、古田先生が『「邪馬台国」はなかった』(注②)で提唱された、魏西晋朝における「短里」(1里約76m)の概念が、古代史学界にはなかったことによります。倭人伝の里程記事は短里で書かれており、それによれば、邪馬壹国の位置は博多湾岸となり、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡群を倭国の都に比定でき、文献史学と考古学の結論が整合できるのです。
 関川さんの古代史講演会(注③)もいよいよ一週間後となりました。この奴国の位置比定の根拠と当否について、ぜひともお聞きしたいと思います。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
③「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13:30~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人


第2487話 2021/06/11

「邪馬台国」大和説と畿内説の落差

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「邪馬台国」大和説が成立しないとする根拠として、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)か指摘された〝鉄器の証言〟〝伊都国の証言〟の他にも、いかにも実証的な考古学者らしい指摘が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)にはあります。たとえば同書のタイトルにも用いられている「大和説」という表現です。学界では、ほぼ同じ意味で「畿内説」とも呼ばれていますが、関川さんは両者をあえて区別されています。次のとおりです。

〝畿内説と大和説
 邪馬台国の位置問題においては、九州説に対して近畿地方にその所在地を求める説を、畿内説と呼ぶことが多い。これは、主に近畿圏外からの呼び方という印象がある。
 しかし、近畿中部にあたる畿内と一言でいっても、その範囲は大和・河内・山城など、広域にわたっている。しかも、これら古代近畿の域内においても、かなりの地域差がみられるので、それらの遺跡や古墳を一律に扱うことはできない。畿内という名称自体も、以後の時代の用語である。
 また、近畿の中でも大和周辺地域では、ここ以外に邪馬台国の有力な候補地は挙げられてはいない。小林行雄も、邪馬台国の所在地を明確に大和としているので、ここでは大和説としておきたい。〟17~18頁

 このように述べ、具体的な地域差として、次の例をあげられています。

〝金属製品の少なさ
 大和地域の弥生遺跡から出土した鉄製品は、今のところ唐古・鍵遺跡では4点、そのほか六条山や三井岡原遺跡のような丘陵性遺跡出土の鉄鏃等、大型集落の平等坊・岩室遺跡の鉄斧をはじめ、総数10点余りにすぎない。隣接する大阪府下では、総数はすでに120点を超えており、それと比較しても格段に少ないというのが実態である。
 さらに、鉄器の製作にかかわる遺構や遺物は、まだ知られていない。大和では、弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示すものとなる。
 また、青銅製品については、調査例の多い唐古・鍵遺跡で32点が報告されている。(中略)この中で最も多いのは、24点の銅鏃であり、また銅鏡がほとんどみられないことも大和の弥生遺跡総体にみる傾向である。(中略)近畿の中で、その遺跡数をみると、河内を中心とする大阪府が10カ所を越えて最多となる。
 大和地域は、近畿圏の中で金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い。〟35~36頁

 このような関川さんの、いわば「内部告発」のような指摘を読んで、わたしは驚愕しました。〝弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示〟し(注②)、〝金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い〟大和地域に、倭国女王(俾弥呼)の都、「邪馬台国」(原文は邪馬壹国)が存在したとする「邪馬台国」大和説なるものが、なぜ学問的仮説といえるのか、なぜ考古学界では多数意見となるのか、わたしには到底理解しがたいのです。
 「王様は裸だ」。これが、関川さんの著書を読み終えての、わたしの第一の感想です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田先生も『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社、昭和五四年〔1979〕)で、このことを指摘されている。