邪馬壱(壹)国一覧

第721話 2014/06/07

NHK「歴史秘話ヒストリア」のウラ読み

「洛中洛外日記」720話でNHK「歴史秘話ヒストリア」の放送倫理について指摘し、その最後に「それでもわたしはNHKに良心的な社員がいることを、真実を放送・報道することを願っています。」と記しました。
 卑弥呼は伊都国から纒向に「遷都」したという学問的に荒唐無稽な珍説に基づいた番組でしたが、もしかするとNHKの番組関係者に真実を伝えたいと密かに願う良心的な人がいて、番組の中に真実の痕跡を残したのかもしれないと、そんなウラ読みをしています。そう思った理由は次のことからですが、深読みしすぎでしょうか。
 まず思ったのが、弥生遺跡の中で最大級の豪華な出土物を持つ糸島の平原王墓が紹介されたことです。あの圧倒的な出土物(内行花文鏡・翡翠・水晶・他)を見た人に、纒向遺跡の「桃の種」よりも強烈な印象を与えることは明白ですから、番組の「編集意図」を越えて、倭国の中心地は北部九州であるというメッセージとなっています。
 次に、ナレーションでは「ヤマタイ国」と説明される一方、『三国志』倭人伝の画像では「邪馬壹国(やまいち国)」と記された部分をマーキングして紹介されており、見る人には「ヤマタイ国」ではなく「やまいち国」が真実(史料事実)であることがわかるようになっていました。もし、 このウラ読みが当たっていれば、この番組関係者は古田説を知っていたことになります。
 こうした表向きの編集意図とは異なり、真実を密かに伝え、後世に残そうとする試みは様々な分野で、いろんな時代で行われてきました。一例をご紹介します。
 『三国史記』新羅本記第五(1145年成立)の「真徳王(即位647~654)」の記事です。唐に赴いた新羅の使者に対して唐の天子太宗から「新羅はわが朝廷に臣事する国であるのに、どうして別の年号を称えるのか」と叱責されます。そして、『三国史記』の編者は「論じていう」として次のような解説を加え ています。

「偏地の小国にして天子の国に臣属する国は、もともと私に年号をつくることはできないものである。もし、新羅が誠心誠意をもって中国に仕えて、入朝と朝貢の道を望みながらも、法興王がみずから年号を称したのは惑いだというべきである。(中略)これはたとえ、やむを得ずしたことであったとはいえ、そもそも、あやまちというべきで、よく改めたものである。」『三国史記』林英樹訳(三一書房、1974年刊)

 『三国史記』新羅本記には法興王による年号の制定(「建元」元年、536年)以来、真徳王まで改元を続けたのですが、12世紀の高麗の知識人である編者たちは朝鮮半島の国が年号を持ったことを隠さず記したものの、中国の目をはばかって、それは過ちであり、よく改めたとしています。すなわち、中国の属国としての高麗の公的立場を表面的には守りつつ、その実、新羅が年号を持ったという歴史事実だけは書き残したのです。小国の歴史官僚の意地とプライドがそうさせたのではないでしょうか。
 このように、権力者(上司)の意向に表向きは従いつつ、メディアにかかわる人間としての良心とプライドにより、ぎりぎりのところで平原王墓の考古学的出土事実と「邪馬壹国」という史料事実を番組の中に潜り込ませたのではないか、そのようにウラ読みしたのですが、はたして当たっているでしょうか。


第720話 2014/06/05

NHK「歴史秘話ヒストリア」の放送倫理

 昨晩は出張先の福井市のホテルでNHKの「歴史秘話ヒストリア」を見ました。テーマが「邪馬台国」や「卑弥呼はどこから来たか」というものでしたので、どうせまた一元史観「邪馬台国」畿内説の非学問的・非論理的な内容だろうとは予想していましたが、まさにその通りでした。ただ、視聴率を上げたいためか、今回はやや手の込んだ、奇をてらった番組作りを目指したようです。その要点は、卑弥呼は糸島半島の伊都国生まれで、大和の巻向に「遷都」したというものでした。
 要約しますと、糸島半島の平原王墓(2世紀末と解説)の被葬者を卑弥呼の母親か姉妹とし、そこで生まれた卑弥呼が「遷都」して巻向遺跡(3世紀初めと解説)の大型住居に住んでいたというものです。学問的には荒唐無稽(「倭人伝」には倭国が遷都したなどという記事はなく、「そうとれるかもしれない」という記事さえもありません)と言わざるを得ないのですが、そこは「天下のNHK」です。「そういう説がある」という表現でしっかりと「逃げ」を打っていました。しかし、放送された「考古学的事実」は正直です。この番組の荒唐無稽ぶりを見事に証明していました。
 たとえば、巻向遺跡から大量に出土した「桃の種」をずらっと並べ、いかにも倭国の女王にふさわしい「ものすごい出土物」とでもいいたいような演出をしていました。他方、平原王墓や同遺跡から出土した大型で大量の内行花文鏡や大量の宝石類(めのう・翡翠・水晶等)の加工品や原石が紹介されていました(番組ではなぜか紹介されませんでしたが、同遺跡からは鉄製品も出土しています)。まともな理性を持つ人であれば、どちらが倭国の中心地にふさわしい出土物かは一目瞭然でしょう。それとも、糸島で生まれた卑弥呼はお母さんから銅鏡の一枚も持たされずに、巻向に「遷都」し、鏡や宝石の代わりにせっせと「桃の種」を集めたとでもいうのでしょうか。噴飯ものです。この番組を制作放送したNHKの担当者に聞いてみたいものです。
 ちなみに、NHKもさすがにこれではまずいと考えたようで、大和の黒塚古墳(3世紀後半から4世紀前半と編年されています)を紹介し、出土した三角縁神獣鏡などが映った画像をしらーっと放送していました。ようするに、彼らは「(邪馬台国畿内説は学問的に無理と)知っていて、(巻向が邪馬台国だと)嘘をつく」というかなり不誠実な番組作りを行っているとしか考えられないのです。また、「倭人伝に記されているヤマタイ国」という主旨の虚偽のナレーションも流していました(「倭人伝」には邪馬壹国〔やまいちこく〕と記されています)。NHKの放送倫理はどうなっているのでしょうか。
 そういえば福島原発爆発事故のときも、NHKは御用学者を次々と登場させ、「原発は安全に停止した」「メルトダウンはありえない」「ただちに健康に影響はない」との報道を続け、福島第一原発を撮影する定点カメラだけを残し、自社の社員は早々と避難させたと聞いています。そのNHKの報道を信じて逃げなかった多くの福島県の人々が被爆し、子供たちの甲状腺ガンが今も増え続けていることを考えると、NHKに放送倫理を期待するほうが無理なのかもしれません。多くの高校生を残し、沈没船から早々と逃げた船長や、「その場から動くな(逃げるな)」と船内放送した船員を非難する資格は、日本にはないのかもしれ ません。NHKがこの様ですので。
 しかし、それでもわたしはNHKに良心的な社員がいることを、真実を放送・報道することを願っています。その「社名」に愛する祖国「日本」を冠しているのですから。


第698話 2014/04/23

「梅花香る邪馬壹国の旅」

 松浦秀人さん(古田史学の会・四国)から素敵な写真付きの旅行記が送られてきました。「古田史学の会・四国」福岡旅行(2/28~3/03)の記録です。本ホームページに「史跡探訪と講演会参加 梅花香る邪馬壹国の旅」として掲載していますので、是非ご覧ください。

 古田先生の福岡講演や宮地嶽神社神官による筑紫舞を中心に、水城・大宰府政庁跡・太宰府天満宮・観世音寺・宮地嶽神社や九州国立博物館、九州歴史資料館、古賀市立歴史資料館訪問の写真などが掲載されています。中でも、古賀市立歴史資料館で、「邪馬台国」の「台」の字が「壹」の字に貼り替えられた展示を「発見」されたことは感動的でした。同資料館の判断で、『三国志』原文を改訂した従来説(邪馬台国)を否定し、『三国志』原文の「邪馬壹国」が正しいとする古田説を採用した痕跡だからです。さすがは「九州王朝」のお膝元だけあって、古田史学・多元史観は公的な資料館でも着々と受け入れられていることが わかります。

 古田史学・多元史観の夜明けは、わたしたち古田学派が思っているよりも早いのかもしれません。全国の古田ファンのみなさん、「古田史学の会」会員のみなさん、古田学派研究者のみなさん、志と力をあわせて前進しましょう。わたしたち「古田史学の会」はその先頭に立つ決意です。


第286話 2010/10/17

卑弥呼は桜井にいたか?

  昨日の関西例会では久しぶりにビデオ鑑賞を行いました。弥生時代の宮殿跡が出土した纏向遺跡の発掘調査担当者である橋本輝彦氏の講演ビデオで、演題は「卑弥呼は桜井にいたか?」(本年9月25日「先人に学ぶ人間学塾」主催)。木村賢司さんが撮影されたものです。
 纏向遺跡が「邪馬台国」ではないことは、第237、238,239話などで指摘しましたし、古田学派内では「邪馬台国」論争はとっくに終わっています。しかし、畿内説論者の言い分も知っておいたほうが良いという木村さんの配慮により、ビデオ鑑賞することになったものです。
 そして、木村さんの意見は正解でした。邪馬台国畿内説の非論理性というものが良く理解できたからです。中でも、纏向遺跡から出土した小規模鍛冶遺構の痕跡とされる鉄くず(カナクソ)の説明には驚きました。橋本氏は畿内と北部九州の勢力は当時友好的であった証拠として説明されたのです。すなわち、武器や農具の材料となる製鉄技術が先進地である北部九州から纏向にもたらされたのは、両者が友好的であった証拠とされたのです。
 北部九州の勢力と纏向遺跡にいた勢力が友好的だったとするのは大賛成ですが、それならば当時の倭国の代表者であった「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)は 製鉄の先進地である北部九州にあったとするのが、学問的論理性というものではないでしょうか。同講演会では最後に参加者からの質問がありました。もしわたしが参加していたら、必ずこの質問をしたと思いますが、「邪馬台国」畿内説の橋本輝彦氏がどう返答されるのか、興味津々です。なお、ビデオで見た橋本氏のお人柄は誠実そうな方でした。だからこそ、正直に製鉄の先進地は北部九州と言われたのでしょう。   
 10月度関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「尊卑・長幼」「近時中国寸評」(豊中市・木村賢司)

(2) ビデオ鑑賞「卑弥呼は桜井にいたか?」橋本輝彦氏講演(撮影・木村賢司)

(3) 磐井の乱の再検討(川西市・正木裕)
 『書紀』継体紀で、古田氏が九州王朝の天子「磐井」だとされる「委意斯移麻岐弥」(『書紀』では「穂積臣押山」)は、任那の四国や伴跛の己文*、加羅の多沙津を百済に割譲する等「親百済」で、これは当時の倭国の立場と一致する。逆に「近江毛臣」は南加羅等の新羅への割譲始め一貫して「親新羅」だ。
 従って毛臣が新羅討伐軍の大将とあるのは不自然だし、新羅から「磐井に」倭国への謀反要請があったとするのも、「磐井に」ではなく「毛臣に」であり、毛臣は新羅を討伐する側ではなく、新羅の要請で謀反を起し討伐される側と考えるのが自然だ。
 また毛臣が帰還の勅命に叛いたため、阿利斯等が謀反を企図し戦となった記事も、本来は毛臣の謀反・叛乱であり、これが「遂に戦ひて受けず」という磐井の叛乱記事として『書紀』に盗用されたと見るべき事を指摘した。
文* は、三水偏に文。JIS第3水準ユニコード6C76

(4) 大和川の水利(木津川市・竹村順弘)
(5) 後漢書・三国志の日付干支(木津川市・竹村順弘)

(6) 『日本書紀』と《『須田鏡』における男弟王の年紀》から割り出される真実(たつの市・永井正範)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・藤原不比等(顕彰)碑・神武東征とは南九州の話・他(奈良市・水野孝夫)


第238話 2009/12/13

巻向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない(2)

 237話では里程問題から、纏向遺跡が卑弥呼の宮殿では有り得ないことを指摘しましたが、別の視点からも同様のことが導き出されます。それは「漢字文明」の痕跡の有無という視点です。
 魏志倭人伝には当時の倭国の状況が簡潔ではありますが比較的多く記されています。この古代中国での史書編纂という、自国のみならず周辺諸国の文物をも記録するという一大漢字文明の業績により、わたしたちは弥生時代の日本の様子を知りうることができる言っても過言ではありません。
 その倭人伝には次のような重要な情報が記されており、「邪馬台国」を中心とする倭国は、中国の漢字文明圏に属しており、倭国の文字官僚たちは漢字を使用していたことがわかるのです。

 「古より以来、其の史中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。」
 「詔書して倭の女王に報じて曰く、『親魏倭王卑弥呼に制詔す。(以下略)』」

 このように、倭国の使者が古より「大夫」という中国風「官職名」を自称しており、度々詔書を貰っていることなどが随所に記されています。当然のこととし て、詔書は漢字漢文で書かれており、倭国側もそれが読めたはずです。この他にも「伝送の文書」「金印」など漢字が記されている文物の記載もあります。
 こうした史料事実から、倭国は漢字漢文を使用しており、漢字文明圏に属していたことを疑うことができないのです。それでは弥生時代の大和盆地の遺跡遺物 に漢字文明の痕跡はあるでしょうか。纏向遺跡から出土しているのでしょうか。弥生時代の日本列島を代表するほどの出土事実はあるのでしょうか。答えは簡単です。「ノー」です。
 考古学が科学であり、学問であるのならば、考古学者はこの倭人伝と纏向遺跡の「完璧な不一致」から目を背けてはなりません。学問的良心があるのなら、この「完璧な不一致」から逃げてはなりません。
 他方、目を転ずれば、北部九州の弥生遺跡にこそこの漢字文明の痕跡が集中出土していることは天下の公知事実です。たとえば、「漢委奴国王」という漢字が彫られた志賀島の金印を始め、いわゆる漢鏡と呼ばれる弥生の鏡に記された多数の「銘文」などです。これら漢字文明の痕跡が大量かつ集中出土している筑紫こそが倭国の中心であり、「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)がその地に存在していたことを、倭人伝と考古学事実の「完璧な一致」が証言しているのです。(つ づく)


第237話 2009/12/06

巻向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない(1)

 巻向遺跡で発掘された弥生時代の住居跡が「邪馬台国」の女王卑弥呼の宮殿であるかのような報道がテレビや新聞でなされましたが、これは学問的に見れば全 くナンセンスなことです。古田史学をご存じの方には言うもおろかですが、「邪馬台国」(『三国志』魏志倭人伝には邪馬壹国と表記されており「邪馬台国」と するのは誤り)のことが記されている中国の史書『三国志』には、「邪馬台国」の位置を次のように表記しています。

「郡より女王国に至る、万二千余里」

 すなわち、帯方郡(今のソウル付近)から約12000里離れたところに女王卑弥呼の国はあると述べているのです。したがって、『三国志』で使用されている1里が何メートルかを調べれば、女王国の大まかな位置がわかるように記されているのです。
 従来説では漢代の1里435メートルと同じとされてきましたが、古田先生は1里約77メートルとする短里説を唱えられたのは、ご存じの通りです。
 1里約77メートルの短里説にたてば、12000里は北部九州にピッタリですが、435メートルの長里説にたちますと、九州も巻向遺跡のある大和盆地も はるかに通り越し、太平洋の彼方に「邪馬台国」はあったことになるのです。従って、学問的には短里でも長里でも絶対に大和では有り得ないのです。
 「邪馬台国」畿内説論者はこの魏志倭人伝の位置表記を百も知っていながら、この単純明快な史料事実を国民には伏せたまま、巻向遺跡の住居跡を卑弥呼の宮殿であるかのように、大騒ぎしているのです。その手口は学問的態度とはかけ離れており、「醜悪」と言うほか有りません。(つづく)

参考『吉野ヶ里の秘密』光文社
 1章「邪馬台国」にトドメを刺(さ)す 古田武彦


第28話 2005/09/16

卑弥呼(ひみか)の子孫は?

 古代の有名人と言えば、邪馬壹国(「邪馬台国」とするのは誤り。三国志原文は「邪馬壹国」やまいちこく)の女王卑弥呼(ひみか)でしょう。その卑弥呼の御子孫は続いているのでしょうか。結論から言うと、魏志倭人伝には卑弥呼は独身だったと記されていることから、直系の子孫はいないと思われます。しかし、後を継いだ同族の娘、壹與(「台與」とするのも誤り。原文は「壹與」)の子孫はいる可能性があります。
というのも、筑後国風土記逸文に次のような記事があるからです。

 「昔、此の堺の上に麁猛神あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極(いた)く多なりき。因りて人の命尽(つくし)の神と曰ひき。時に、筑紫君・肥君等占へて、今の筑紫君等が祖甕依姫(みかよりひめ)を祝と為して祭る。爾より以降、路行く人、神に害はれず。是を以ちて、筑紫の神と曰ふ。」

 この甕依姫(みかよりひめ)が卑弥呼のことである可能性が極めて高いことを古田先生は論証されましたが、そうすると甕依姫が「今の筑紫君等が祖」と呼ばれているように、風土記成立時点の「今」、おそらく6〜7世紀、あるいは8世紀時点の筑紫の君の祖先が卑弥呼であったことになります。すなわち、筑紫の君磐井や薩夜麻らが卑弥呼や壹與の一族の出であることになります(直接には壹與の子孫)。九州王朝の王であった筑紫の君の御子孫が現存されていることは、以前に述べましたが、この御子孫達が壹與直系の可能性を有しているのではないでしょうか。もちろん、九州王朝王家の血統も複雑のようですから、断定は控えますが、興味有る「可能性」だと思います。


第5話 2005/06/23

銅鐸と『邪馬台国』

 来る7月10日(日)、わたしは長野県松本市で講演します。「古田史学の会・まつもと」からの招請によるもので、演題は「神々の亡命地・信州─古代文明の衝突と興亡─」です。当地には松本深志高校時代の古田先生の教え子さん達が大勢おられ、いつも以上に緊張してしまう所です。「教え子」といっても、皆さん私よりも大先輩で、そんな大先輩を前に講演するのですから、恐縮至極。
 今回の講演でも、「信州についても触れて欲しい」との要請があったので、現在、信州の古代史について猛勉強中です。主には古代神話や説話と銅鐸出土分布との関連についてお話しさせていただく予定です。そこで今回改めて銅鐸について勉強したのですが、大和(奈良県)は全銅鐸文明期間において一度も銅鐸の中心分布に位置したことがないのですね。この事実は良く知られていますが、考えてみるとこれは「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)論争にとって決定的な考古学的事実ではないでしょうか。近畿・東海などにおける弥生時代を代表する遺物「銅鐸」の出土が多くない大和に倭国の中心国家が存在したとは、人間の平明な理性では、ちょっと言えないと思います。「邪馬台国」畿内説の人達はこれをどう説明できるのでしょうか。他人ごとながら思わず同情してしまいました。
 もちろん、「共同体の祭器銅鐸が統一国家の出現により捨てられた」等々、様々な「屁理屈」(失礼)がこねられているわけですが、だったら統一国家のシンボルとして、弥生時代の大和から、他地域を圧倒するような遺物が出土しているのか、という質問にはどう答えられるのでしょうか。わたしは、この疑問を松本での講演会で話してみようと考えています。大先輩達の胸を借りて、銅鐸分布が示す古代の真実に挑戦です。