「大長」木簡一覧

最後の九州年号 –「大長」年号の史料批判
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou77/kai07708.html

九州年号「大長」の考察
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjit20
/daityoky.html

32大長(大屯・大長・大和?)<元甲辰 七〇四 慶雲元年>八年間
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengo33.html

第3030話 2023/06/03

九州年号「大化」「大長」の原型論 (10)

 九州王朝の記憶が失われた後代において、各史料編纂者が考えた末に、九州年号最後の大長を大和朝廷最初の大宝元年に接続した各種年号立てが発生したとする作業仮説の検証過程を本シリーズで解説しました。その検証の結果、大長は701年以後に実在した九州年号であり、本来の姿は「朱鳥(686~694年)→大化(695~703年)→大長(704~712年)」になるとしました。これであれば、『二中歴』の年号立て「朱鳥(686~694年)→大化(695~700年)→大宝元年(701年)」を維持しながら、大長(704~712年)の存在と整合することから、基本的に論証は完成したと考えました。
一旦こうした仮説が成立すると、それまで誤記誤伝として斥けられてきた次の九州年号記事の存在がむしろ実証的根拠となり、自説は九州年号研究での有力説とされるに至りました。

○「大長四年丁未(七〇七)」『運歩色葉集』「柿本人丸」
○「大長九年壬子(七一二)」『伊予三島縁起』

 この他にも愛媛県松山市の久米窪田Ⅱ遺跡から出土した「大長」木簡も実見調査しましたが、こちらは「大長」を年号と確認するまでには至りませんでした(注①)。
そして九州年号「大長(704~712年)」実在説は、九州王朝から大和朝廷への王朝交代研究に貢献することになります。直近では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による研究があり(注②)、注目されます。(おわり)

(注)
①古賀達也「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。初出は『古田史学会報』120号、2014年。
②正木裕「消された和銅五年(七一二)の『九州王朝討伐譚』」『古田史学会報』176号に掲載予定。


第1587話 2018/01/25

『続日本紀』にあった「大長」

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『律令時代と豊前国』(苅田町教育委員会文化係、2010年)を読んでいますが、そこに「大長」という表記があり、驚きました。

 「大長」は最後の九州年号(倭国年号。704〜712年)ですが、愛媛県松山市出土の木簡に「大長」という文字が見えることを以前に紹介したことがあります。それは「洛中洛外日記」490話(2012/11/07)「『大長』木簡を実見」の次の記事です。

【以下引用】
坂出市の香川県埋蔵文化財センターで開催されている「続・発掘へんろ -四国の古代-」展を見てきました。目的は第448話で紹介した「大長」木簡(愛媛県松山市久米窪田Ⅱ遺跡出土)の実見です。(中略)

 さて問題の「大長」木簡ですが、わたしが見たところ、長さ約25cm、幅2cmほどで、全体的に黒っぽく、その上半分に墨跡が認められました。下半分は肉眼では墨跡を確認できませんでした。文字と思われる墨跡は5文字分ほどであり、上から二文字目が「大」と見える他、他の文字は何という字か判断がつきません。同センターの学芸員の方も同見解でした。
あえて試案として述べるなら次のような文字に似ていました。字体はとても上手とは言えないものでした。
「丙大??※」?=不明 ※=口の中にヽ
これはあくまでも肉眼で見える墨跡からの一試案ですから、だいたいこんな「字形」という程度の参考意見に過ぎません。(後略)
【引用終わり】

 このとき見た「大長」木簡は年号としては不自然な表記で、何を意味するのか全くわかりませんでした。仮に「大長」という文字があったとしても、それだけでは「大長者」のような熟語の一部分の可能性もあるからです。

 ところが『律令時代と豊前国』には役職名らしき「大長」「小長」という表記が紹介されており、出典は『続日本紀』とのこと。そこで『続日本紀』天平12年9月条を見ると、豊前国企救郡の板櫃鎮(北九州市小倉北区。軍事基地か)の軍人と思われる人物について次のように記されていました。有名な「藤原広嗣の乱」の記事です。

「戊申(24日)、大将軍東人ら言(もう)さく『逆徒なる豊前国京都郡鎮長大宰史生従八位上小長谷常人と企救郡板櫃鎮小長凡河内田道とを殺獲す。但し、大長三田塩籠は、箭二隻を着けて野の裏に逃れ竄(かく)る。(後略)」

 このように板櫃鎮の「小長」凡河内田道と「大長」三田塩籠が広嗣側についた軍人として記されています。おそらく大長が「鎮」の長官で小長が副官といったところでしょう。なお、「京都郡鎮長」との表記も見えますが、おそらくは京都郡に複数ある「鎮」全てを統括する役職名ではないでしょうか。『続日本紀』のこの記事によれば、大宰府側の軍事基地として「鎮」があり、その役職として「大長」「小長」があったことがわかります。この役職名が他の史料にもあるのかこれから調査したいと思いますが、松山市出土「大長」木簡の「大長」もこうした役職名の可能性があるのかもしれません。


第490話 2012/11/07

「大長」木簡を実見

 坂出市の香川県埋蔵文化財センターで開催されている「続・発掘へんろ −四国の古代−」展を見てきました。目的は第448話で紹介した「大長」木簡(愛媛県松山市久米窪田II遺跡出土)の実見です。
同展示は12月16日まで開催され、来年1月10日からは徳島県埋蔵文化財センター(板野郡板野町)での開催となります。入館料は無料の上、「四国遺跡88ヶ所」マップなどもいただけ、かなりお得で良心的な展示会です。
さて問題の「大長」木簡ですが、わたしが見たところ、長さ約25cm、幅2cmほどで、全体的に黒っぽく、その上半分に墨跡が認められました。下半分は肉眼では墨跡を確認できませんでした。文字と思われる墨跡は5文字分ほどであり、上から二文字目が「大」と見える他、他の文字は何という字か判断がつきません。同センターの学芸員の方も同見解でした。

 あえて試案として述べるなら次のような文字に似ていました。字体はとても上手とは言えないものでした。

 「丙大??※」?=不明 ※=口の中にヽ

 これはあくまでも肉眼で見える墨跡からの一試案ですから、だいたいこんな「字形」という程度の参考意見に過ぎません。来年三月には愛媛県埋蔵文化財センターに「大長」木簡は帰りますので、それから赤外線写真撮影などの再調査が待たれます。

 この他に松山市久米高畑遺跡出土の「久米評」刻書土器なども展示されており、同展は一見の価値ありです。


第448話 2012/07/28

松山市出土「大長」木簡

 芦屋市出土の「元壬子年」木簡が九州年号の白雉「元壬子年」(652年)木簡であることは、これまでも報告してきたところですが、当初、この木簡は「三壬子年」と判読され、『日本書紀』の「白雉三年」のこ とと『木簡研究』などで報告されており、九州年号群史料として有力史料と判断していた『二中歴』とは異なっていました。

 わたしは奈良文化財研究所HPの木簡データベースでこの木簡の存在を知ったとき、この「白雉三年」との説明に驚きました。『二中歴』を最も有力な九州年 号史料としていた自説と異なっていたからです。そこで、わたしはこの木簡を徹底的に調査実見し、その「三壬子年」と判読されてきたことが誤りであり、「元 壬子年」と書かれていたことを発見したのでした。

 このとき、わたしは自説に不利な史料から逃げずに、徹底的に立ち向かって良かったと思いました。このときの体験は、わたしの歴史研究生活にとって、大きな財産となりました。

 それ以後も九州年号木簡を探索してきましたが、奈良文化財研究所の木簡データベースを閲覧していて、もしかすると九州年号木簡かもしれない木簡を見いだしましたので、ご紹介します。

 それは愛媛県松山市の久米窪田II遺跡から出土した木簡で、「大長」という文字が書かれているようなのです(前後の文字は判読不明。「長」の字も推定の ようです)。最後の九州年号「大長」(704~712年)の可能性もありそうですが、断定は禁物です。人名の「大長」かもしれませんし、法華経など仏教経 典の一部、たとえば「大長者」の「大長」という可能性も小さくないからです。

 『木簡研究』第2号によれば、「大長」木簡は1977年に出土しており、その出土層は八世紀初期を前後するものとされており、まさに九州年号の大長年間(704~712年)にぴったりなのです。

 こうなると、実物を見る必要がありますので、松山市の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)に連絡し、愛媛県埋蔵文化財センターに問い合わせていた だいたところ、同木簡は「発掘へんろ」巡回展に出されており、現在は高知県で展示されていることがわかりました。そのため、同木簡が愛媛県に戻るのは来年三月とのこと。

 残念ながら、それまでは本格的な調査はできませんが、九月には香川県で展示されるようですので、せめてガラス越しにでも見に行こうと思っています。