木簡一覧

第597話 2013/09/19

文字史料による「評」論(2)

 今、上海の浦東国際空港でフライト待ちです。今日は中秋の名月ということで、中国は祝日で会社もお休みです。そのかわり 22日の日曜日が「振り替え平日」だそうです。おもしろい制度ですね。近年制定された祝日とのことで、家族そろって名月を見る日だそうです。ホテルの朝食にも名物の月餅(げっぺい)が出ました(追記:JALの機内食でも出ました)。そういえば、昨晩見た上海の満月はみごとでした。以前と比べると上海の空も きれいになったようです。

 今日帰国しますが、16日の日は台風のおかげで関空に行けず、中国出張が一日遅れたので、楽しみにしていた武漢行きはキャンセルとなりました。

 さて、近年もっとも衝撃を受けた「評」史料の一つが、藤原宮出土の「倭国所布評」木簡でした。「洛中洛外日記」第447話「藤原宮出土『倭国所布評』木簡」で紹介しましたが、藤原宮跡北辺地区遺跡から出土した「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡です。奈良文化財研究所のデータベースによれば、「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のことと説明されています。

 近畿天皇家の中枢遺構から出土した「評」木簡ですが、700年以前すなわち九州王朝(評制)の時代に、近畿天皇家は自らの中枢領域(現奈良県に相当か) を「倭国」と表記していたのです。「倭国」とは当然のこととして九州王朝の国名であり、その国名を近畿天皇家が自らの中枢領域の地名表記に用いることができたということは、700年以前に既に列島内ナンバーワンの「国名」使用が近畿天皇家には可能であったということを示します。

 この史料事実からどのような仮説が導き出され、その仮説の中でもっとも有力な仮説を検討する必要性を感じています。まずは古田学派内で多くの作業仮説が出され、それらの中から相対的に最も合理的で優れた論証(わたしがいうところの相対論証)と仮説の絞り込みが必要です。読者や研究者の皆さんの仮説提起をお待ちしています。(つづく)


第596話 2013/09/15

文字史料による「評」論(1)

 わたしが古田史学に感銘を受けて、九州王朝や九州年号研究を始めて27年になりました。その間、遅々として進まない研究分野や、予想以上の展開を見せた分野など様々でしたが、近年、新たな史料の出土や発見、そして優れた研究者の登場により、九州王朝史研究は着実に進み始め たように思われます。もちろん、古田先生の先駆的で精力的な研究活動に触発され導かれたことは言うまでもありません。

 そこで今回は九州王朝の行政制度「評制」について、文字史料を中心とした史料根拠に基づいて論じてみたいと思います。歴史研究ですから、史料根拠に基づかない、あるいは明示しない「説」や「論」では他者を納得させることはできませんし、なによりも学問的態度とは言えませんので、史料根拠を明示しながら丁寧に論じたいと考えています。

 まず最初のテーマとして、前期難波宮遺跡出土木簡に見える「秦人凡国評」について考えてみました。『大阪城址2』(大阪府文化財調査研究センター、 2002年)によれば、大阪城三の丸跡地の遺構(16層)から出土した木簡に「戊申年」(648)の他、「秦人凡国評」と記されたものがあります。この地層は7世紀中頃のものと編年されていますが、前期難波宮の「ゴミ捨て場」のような遺構状況のようで、「戊申年」木簡は出土していますが、廃棄されたの前期難波宮完成(652)以後と見られています。

 ここで注目したのが「評」木簡が出土したことの意味です。「秦人凡国評」が具体的にどの地域なのかは特定できませんが、7世紀中頃の難波の地、すなわち前期難波宮の地域が評制の施行範囲ということを示していることは確かでしょう。それは、7世紀中頃の難波は九州王朝による評制支配地域であることを意味します。それまでの国造等と称されていた地域豪族による支配から、九州王朝が任命する評督を介しての中央集権体制、すなわち評制が難波の地に及んでいた証拠の木簡なのです。

 従って、前期難波宮は九州王朝による評制下の宮殿ということができます。前期難波宮九州王朝副都説への反論として、近畿天皇家の勢力範囲、あるいはそれに近い難波に九州王朝が副都を造るとは考えられない、という意見がありました。それに対して、わたしは九州王朝は列島の代表王朝であり、必要であればその支配地のどこに副都を造ろうと不思議とするには当たらないと反論してきました。この反論が正当なものであることは、この「秦人凡国評」木簡の「評」の字が示しているのではないでしょうか。(つづく)

 ところで、明日から中国出張です。明日は上海で仕事をした後、湖北省武漢に向かいます。湖北省は三国志の名場面の地ですが、たぶん仕事だけで観光する時間は全く無いと思います。とりあえず台風で飛行機が欠航しないことを今は祈っています。


第525話 2013/02/12

前期難波宮と藤原宮の整地層須恵器

 前期難波宮造営を天武期とする説の史料根拠は『日本書紀』天武12年条 (683)に見える「副都詔」とよばれる記事です。都や宮殿は2~3ヶ所造れ、まずは難波に造れ、という詔勅記事なのですが、このとき既に難波には孝徳紀 に造営記事が見える前期難波宮がありますから、この副都詔は問題視され、前期難波宮の「改築」を命じた記事ではないかなどの「解釈」が試みられてきました。

 他方、小森俊寛さんらからは天武紀の副都詔の方が正しいとし、出土須恵器の独自編年を提起され、前期難波宮を天武期の造営とされたのです。こうして『日 本書紀』の二つの難波宮造営記事(天武紀の副都詔は「造営命令」記事)のどちらが史実であるかの論争が文献史学と考古学の両分野の研究者により永く続けら れてきました。

  この論争に「決着」をつけたのが、前期難波宮遺構から出土した「戊申年(648)木簡」と水利施設出土木枠の年輪年代測定値(634)でした。須恵器の 相対編年をどれだけ精密に行っても絶対年代(暦年)を確定できないことは自明の理ですが、暦年とリンクできる干支木簡と伐採年年輪年代測定値により、前期 難波宮整地層出土土器をクロスチェックするという学問的手続きを経て、前期難波宮とされる『日本書紀』孝徳紀の造営記事の確かさが検証され、現在の定説と なったのです。

 したがって、この定説よりも小森説が正しいとしたい場合は、そう主張する側に干支木簡や年輪年代測定値以上の具体的な科学的根拠を提示する学問的義務があるのですが、わたしの見るところ、この提示ができた論者は一人もいません。

 さて、問題点をより明確にするために、もし天武紀の副都詔(前期難波宮天武期造営説)が仮に正しかったとしましょう。その場合、次の考古学的現象が見られるはずです。すなわち、前期難波宮造営は683年以降となり、その整地層からは680年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。同様に680年代頃か ら造営されたことが出土干支木簡から判明している藤原宮整地層からも680年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。すなわち、両宮殿は同時期に造営開始されたこととなるのですから、その整地層出土土器様式は似たような「様相」を見せるはずです。ところが、実際の出土須恵器を報告書などから見てみます と、前期難波宮整地層の主要須恵器は須恵器杯HとGで、藤原宮整地層出土須恵器はより新しい須恵器杯Bで、両者の出土土器様相は明らかに異なるのです。

    藤原宮造営は出土干支木簡から680年代には開始されており、須恵器編年と矛盾せず、干支木簡によるクロスチェックも経ており、これを疑えません。した がって、藤原宮整地層と出土土器様式や様相が異なっている前期難波宮整地層は「時期が異なる」と見なさざるを得ないのです。ですから、既に繰り返し指摘し ましたように、その土器様式編年と共に「戊申年木簡」や年輪年代測定値により、7世紀中頃とクロスチェックを経ている前期難波宮は藤原宮よりも「古い」と いうことは明白なのです。

   この前期難波宮と藤原宮の整地層出土土器様式・様相の不一致という考古学的事実は、前期難波宮天武期造営説を否定する決定的証拠の一つなのです。(つづく)


第490話 2012/11/07

「大長」木簡を実見

 坂出市の香川県埋蔵文化財センターで開催されている「続・発掘へんろ −四国の古代−」展を見てきました。目的は第448話で紹介した「大長」木簡(愛媛県松山市久米窪田II遺跡出土)の実見です。
同展示は12月16日まで開催され、来年1月10日からは徳島県埋蔵文化財センター(板野郡板野町)での開催となります。入館料は無料の上、「四国遺跡88ヶ所」マップなどもいただけ、かなりお得で良心的な展示会です。
さて問題の「大長」木簡ですが、わたしが見たところ、長さ約25cm、幅2cmほどで、全体的に黒っぽく、その上半分に墨跡が認められました。下半分は肉眼では墨跡を確認できませんでした。文字と思われる墨跡は5文字分ほどであり、上から二文字目が「大」と見える他、他の文字は何という字か判断がつきません。同センターの学芸員の方も同見解でした。

 あえて試案として述べるなら次のような文字に似ていました。字体はとても上手とは言えないものでした。

 「丙大??※」?=不明 ※=口の中にヽ

 これはあくまでも肉眼で見える墨跡からの一試案ですから、だいたいこんな「字形」という程度の参考意見に過ぎません。来年三月には愛媛県埋蔵文化財センターに「大長」木簡は帰りますので、それから赤外線写真撮影などの再調査が待たれます。

 この他に松山市久米高畑遺跡出土の「久米評」刻書土器なども展示されており、同展は一見の価値ありです。


第488話 2012/10/28

多元的木簡研究のすすめ

 第485話で紹介しました原幸子さん(古田史学の会々員)からの質問、「大化改新の宮はどこか」という問題について、昨日、正木裕さんとディスカッションしました。

 『日本書紀』大化二年条(646)に記された改新詔は九州年号の大化二年(696)に藤原宮で出されたとする説をわたしは発表していたのですが、藤原宮朝堂東側回廊の完成が大宝三年(703)以降であることが出土木簡から判明したため、696年に大極殿など主要宮殿が完成していたことが疑問視されているのです。さらに突き詰めれば、天武期(680年代)には造営が開始されていた藤原宮ですが、その回廊が703年に至っても完成していなかったということに、わたしは深い疑問を抱いたのです。

 こうした疑問もあり、正木さんと意見交換を行いました。まだ結論は出ていませんが、何か重要な視点(仮説)が抜け落ちているような気がしています。たとえば『日本書紀』で持統が694年に遷都したとされる「藤原宮」は発掘された藤原宮(鴨公村大宮土壇)と同じなのか、697年に文武が即位した宮殿はどこなのか、大宝元年(701)に文武が朝賀の儀式を行った宮はどこかといった問題を通説にとらわれず丁寧に再調査する必要を感じています。

 ちなみに、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)は文武が即位したのは(飛鳥)清原大宮とする説を発表されていますが、古田先生も同様の見解を京都で発表されました(10月21日、「森嶋学と日本古代史」京都市下京区旧・成徳中学校舎にて)。

 7~8世紀における九州王朝から近畿天皇家への権力交代を研究するうえで、同時代史料である木簡の多元史観による研究は不可欠です。このことを正木さんに提案し、「多元的木簡研究会」を立ち上げることで合意しました。具体的なことはこれから検討していきますが、将来的には研究成果を書籍として出版したいと考えています。


第464話 2012/09/06

「倭国所布評」木簡の冨川試案

 昨晩は初めて群馬県高崎市で宿泊しました。かなり暑い街かと思っていましたが、さすがに9月ですので、それほどではありませんでした。あるいは京
都の暑さで鍛えられていますから、そう感じたのかもしれません。今朝は桐生市に寄り、今は東武特急で浅草に向かっています。この電車からは東京スカイツリーが至近距離で見えますので、いつも楽しみにしています。 ---

 この北関東地方は「両毛」とも呼ばれ、古代史上でも重要な地域で、ヤマトタケル伝承がある「アヅマ(東・吾妻)」の国です。この「吾妻」に関して
気にかかっているテーマがあります。それは神奈川県在住の冨川ケイ子さん(古田史学の会・会員)が示唆されたことなのですが、「洛中洛外日記」447話で紹介した藤原宮出土「倭国所布評」木簡について、「□妻倭国所布評大野里」の判読不明の文字は「あ」と訓む字ではないかという指摘です。たとえば、「吾妻」=あづま(東)ではないかというアイデアなのです。

 このアイデアが学問上の仮説となるためには、同木簡の精査と「東」を意味する「吾妻」という表記が他の木簡にもあるのかという手続きが必要です。わたしは、面白いけれども今一つ納得のいくアイデアではないと思い、そのような返答をしました。しかし、今回北関東(吾妻の国)の地に来てみると、この冨川試論は一考の余地があるように思えてきました。

 というのも、「倭国所布評大野里」という国名地名の直前にある二文字であり、「□妻」とあるのですから、一応「吾妻」あるいは「阿妻」のような表記も可能性の一つとしてあり得ないことはなく、少なくとも検討はしなければならないと思うに至ったのです。もし「吾妻」であれば、「アヅマ(東)倭国」となり、西の九州王朝倭国に対して、東の大和朝廷倭国との「意図的書き分け」という作業仮説も成立するからです。

 まずは学問の方法(手続き)として、同木簡を見ることから始めたいと思いますが、はたして見せてもらえるものなのでしょうか。

 --- もうすぐ浅草です。明日は大阪で仕事ですので、これから新幹線で京都に帰ります。


第463話 2012/09/04

太宰府「戸籍」木簡の「川ア里(川辺里)」

 今、新潟へ向かう特急北越7号の車中です。左には夕日に映える富山湾、右にはごつごつとした立山連峰(剣岳か)の稜線がちょっと不気味で神秘的です。 ---

 さて、久しぶりに太宰府出土「戸籍」木簡について触れます。8月の関西例会で、わたしは大宝二年の筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡(正倉院文書)につい
て解説したのですが、そのときにわたしが勘違いしていたことについても説明しました。それは、太宰府出土「戸籍」木簡に「川ア里」(アは部の略字)とあったので、同「戸籍」木簡は全て川ア里を対象とした「籍」記事と理解していたのですが、それがどうも勘違いだったようなのです。
同「戸籍」木簡には「建ア(たけるべ)」姓や「占ア(うらべ)」姓が記されており、大宝二年の「川辺里」戸籍断簡にも多数の「建部」姓や「卜部(うらべ)」姓が見えることもあって、両者は共に川辺里の「戸籍」のことと、わたしは当初判断していたのです。しかし、同「戸籍」木簡をよく読むと、木簡上部冒頭に「嶋評」とはありますが、何という「里」を対象としたものかは記されていません。あるいは判読できていません(木簡上部に「嶋一□□」という判読不明文字があります)。

 木簡中の「川ア里」という文字は人名などの記事の途中に記されており、これは、その前あるいは後の人物が「川ア里」に関係する人物であることを「注記」しているのであり、木簡に記された人名すべてが「川ア里」の人々であることは意味していないということに気づいたのです。
もし全員が「川ア里」の人であるならば、文の途中で「川ア里」とわざわざ記す必要はありません。むしろこの木簡は「川ア里」以外の別の「里」の人々の出入り増減を記したものと理解すべきではないでしょうか(同木簡には「又附去」「又依去」という記事もあり、人物の移動を示しているようです)。その中のある人物が「川ア里」に移動したことを注記するために、「川ア里」という地名が文章の途中に記されているようなのです。

 少なくとも、そうした可能性の検証なしに、すべて「川ア里」の人物を対象とした「戸籍」木簡と見るべきではなかったのです。
同「戸籍」木簡中の「嶋評」「川ア里」という地名に目を奪われた、わたしの錯覚だったようです。史料批判は慎重な上にも慎重に行わなければならないと痛感した勘違いでした。

 --- 車窓は漆黒となりました。もうすぐ目的地の長岡に到着します。


第460話 2012/08/29

九州年号改元の手順

 先日、正木裕さん(古田史学の会・会員)が見えられ、最近の研究テーマや話題について意見交換しました。主な話題は札幌市の阿部周一さんが「発
見」された九州年号群史料『日本帝皇年代記』でした。二人ともこのような史料がまだ残されていたことに驚き、おそらくわたしたちがまだ知らない史料が各地に遺されているであろうことなどを話し合いました。古田学派の研究者の数がもっと増え、切磋琢磨して研究レベルを上げることができれば、こうした史料発掘や研究がさらに進むことでしょう。今回の阿部さんの史料発掘には感謝の気持ちでいっぱいです。

 「洛中洛外日記」第459話でご紹介した九州年号改元記事(各地からの白雉などの献上に基づいて改元されたという記事)について、わたしの見解を述べたところ、正木さんからするどい指摘がなされました。それは、改元の動機と手順についての基本的な論理性についてでした。

 正木さんが指摘されたのは、白雉や赤雀・赤雉が献上されたから、白雉・白鳳や朱雀・朱鳥に改元されたのではなく、まず改元の動機となる事件(国家的災難・吉兆や辛酉改元の慣習など)が発生し、ついで改元予定の発表があり、それに基づいて各地から献上品が届けられ、その上で新元号が定められ、最後に改元の詔勅が公布されるのではないか、という考え方です。

 細かい点はいろいろとあるにせよ、基本的に改元とはこうした行政手続きを経て行われるというのは、ある意味で当然のことと思いました。この正木さんの指摘は大変するどいものといわざるを得ません。おそらく、九州王朝内で改元の検討が始まったとき、各地でそれにふさわしい献上品が選択され、九州王朝に競って献上されたのではないでしょうか。新元号の根拠とされた品を献上した国に対しては、昇進や褒美、あるいは課役の免除が行われるからです。『日本書紀』の白雉改元記事を見ても、このことは明らかです。

 この正木さんが指摘された「改元手順の論理性」のおかけで、わたしはある疑問の解決案を思いつきました。それは芦屋市出土の「元壬子年」木簡について抱いていた疑問です。同木簡が九州年号の白雉元壬子年(652)を意味することは疑えないのですが、その記載内容や「書式」に疑問をわたしはずっと抱いていたのです。その疑問の一つは、「元壬子年(以下欠)」と書かれた面と、その裏面の「子卯丑□何(以下欠)」という文字列の書き出しがずれていることです。具体的には「元壬子年」の文字が、裏面の文字列より一字分下にずれて書かれているのです。そのため、「元壬子年」という文字列の上にはかなりの空白があり、「白雉」という年号を記すスペースは十分あるにもかかわらず、何故か空白となっていることに、わたしは疑問を感じていました。

 この疑問に対して、今回の正木指摘に基づいて考えると、この「元壬子年」木簡が記された時点では、新年号は未定だったのではないかという可能性と新理解が浮かんだのです。改元の予告と、新元号が決定されるまでの期間にこの木簡が作られた場合、未定の新年号部分を意図的に空白にしたと考えたのです。そのように考えた場合、この木簡の史料状況がうまく説明できるのですが、いかがでしょうか。

 さらにももう一つの疑問ですが、この木簡の上部は半円形に加工されており、いわゆる荷札木簡とは形状が異なっています(下部は欠損)。おそらくこの木簡は手に持っての使用を想定されたもので、改元に関わる儀礼・儀式に用いられたのではないでしょうか。意味不明の「子卯丑□何」という記載もこうした視点からの検討が必要と思われます。

 阿部さんの史料発掘や正木さんの改元手順の指摘のおかげで、新たな理解に至ることができ、さらなる展開が期待できそうです。


第450話 2012/08/04

大谷大学博物館「日本古代の金石文」展

 今朝は大谷大学博物館(京都市北区)で開催されている「日本古代の金石文」展を見てきました。入場無料の展示会ですが、 国宝の「小野毛人墓誌」をはじめ、古代金石文の拓本が多数展示され、圧巻でした。古田先生も大下さん(古田史学の会・総務)と共に先日見学されたそうで す。

 今回、多くの古代金石文の拓本を見て、同時代文字史料としての木簡との対応や、『日本書紀』との関係について、改めて調査研究の必要性を感じました。

 例えば、太宰府出土「戸籍」木簡に記されていた位階「進大弐」や、那須国造碑に記された「追大壱」(永昌元年己丑、689年)、釆女氏榮域碑の「直大 弐」(己丑年、689年)などは『日本書紀』天武14年条(685年)に制定記事がある位階です。

 それよりも前の位階で『日本書紀』によれば649~685年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記さ れています。今回見た小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、664~685年の期間の位階「大錦上」が記されていました。同墓誌に記された紀年「丁丑 年」(677年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。

 『日本書紀』の記事がどの程度信用できるかを、こうした同時代金石文や木簡により検証できる場合がありますので、これからも丁寧に比較検討していきたいと思います。


第448話 2012/07/28

松山市出土「大長」木簡

 芦屋市出土の「元壬子年」木簡が九州年号の白雉「元壬子年」(652年)木簡であることは、これまでも報告してきたところですが、当初、この木簡は「三壬子年」と判読され、『日本書紀』の「白雉三年」のこ とと『木簡研究』などで報告されており、九州年号群史料として有力史料と判断していた『二中歴』とは異なっていました。

 わたしは奈良文化財研究所HPの木簡データベースでこの木簡の存在を知ったとき、この「白雉三年」との説明に驚きました。『二中歴』を最も有力な九州年 号史料としていた自説と異なっていたからです。そこで、わたしはこの木簡を徹底的に調査実見し、その「三壬子年」と判読されてきたことが誤りであり、「元 壬子年」と書かれていたことを発見したのでした。

 このとき、わたしは自説に不利な史料から逃げずに、徹底的に立ち向かって良かったと思いました。このときの体験は、わたしの歴史研究生活にとって、大きな財産となりました。

 それ以後も九州年号木簡を探索してきましたが、奈良文化財研究所の木簡データベースを閲覧していて、もしかすると九州年号木簡かもしれない木簡を見いだしましたので、ご紹介します。

 それは愛媛県松山市の久米窪田II遺跡から出土した木簡で、「大長」という文字が書かれているようなのです(前後の文字は判読不明。「長」の字も推定の ようです)。最後の九州年号「大長」(704~712年)の可能性もありそうですが、断定は禁物です。人名の「大長」かもしれませんし、法華経など仏教経 典の一部、たとえば「大長者」の「大長」という可能性も小さくないからです。

 『木簡研究』第2号によれば、「大長」木簡は1977年に出土しており、その出土層は八世紀初期を前後するものとされており、まさに九州年号の大長年間(704~712年)にぴったりなのです。

 こうなると、実物を見る必要がありますので、松山市の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)に連絡し、愛媛県埋蔵文化財センターに問い合わせていた だいたところ、同木簡は「発掘へんろ」巡回展に出されており、現在は高知県で展示されていることがわかりました。そのため、同木簡が愛媛県に戻るのは来年三月とのこと。

 残念ながら、それまでは本格的な調査はできませんが、九月には香川県で展示されるようですので、せめてガラス越しにでも見に行こうと思っています。


第447話 2012/07/22

藤原宮出土「倭国所布評」木簡

 このところ毎日のように奈良文化財研究所HPの木簡データベースを閲覧しています。いくつかは「洛中洛外日記」でも紹介してきましたが、特に注目した木簡が藤原宮跡北辺地区遺跡から出土した「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡です。データベース によれば、「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のことと説明されています。

 これは「評」木簡ですから、作成時期はONライン(701年)よりも前で、藤原宮から出土していますから、7世紀末頃のものと推測できます。まさに、近畿天皇家の中枢領域から出土した九州王朝末期の木簡といえます。中でも驚いたのが「倭国」という表記です。

 『旧唐書』などの中国史書では、九州王朝の国名として「倭国」と記されているのですが、『日本書紀』などの国内史料では今の奈良県に相当する「大和(やまと)」国を「倭」国と表記されています。すなわち、九州王朝の国名「倭国」を、701年の王朝交代に伴って、近畿天皇家は自らの中枢領域の「やまと」に「倭」という表記を採用し、上代の時代から、あるいは中国史書に記された「倭」は自分たちのことであると、歴史改竄と国名盗用を行ったと、わたしたち多元史観・九州王朝説論者は考えてきました。

 ところが、この木簡の示すところでは、評制時代の7世紀末頃には、既に大和国(奈良県)を近畿天皇家は「倭国」と表記していたことになるのです。この史料事実は、九州王朝から近畿天皇家への王朝交代が7世紀末頃から複雑な過程を経て行われたことをうかがわせます。古田学派の研究者も、こうした出土木簡が示す史料事実をより重視して、更なる研究を深めなければならないと思います。


第445話 2012/07/21

太宰府「戸籍」木簡の「政丁」

 太宰府市出土「戸籍」木簡の文字で、ずっと気にかかっていたものがありました。「政丁」という記載です。通常、木簡や大 宝二年西海道戸籍などでは、「正丁」という表記なのですが、大宰府出土の「戸籍」木簡には「政丁」とあり、意味は共に徴税の対象となる成人男子 (20~60歳)のことと思われるのですが、なぜ表記面積が紙よりも狭い木簡に、より画数の多い「政丁」が使用されるのかがわかりませんでした。

 ところが木簡の勉強を進めているうちに、同じ福岡県の福岡市西区元岡遺跡から出土していた木簡にも、「政丁」と記載されているものがあることを知ったの です。同遺跡からは、「壬辰年韓鉄」と書かれた木簡も出土しており、この「壬辰年」は692年のこととされていますので、これら元岡遺跡出土の木簡は7世紀末頃のもののようです。

 この元岡遺跡出土の木簡によれば、7世紀末の筑紫では「政丁」という文字使いがなされていたと考えられ、大宰府「戸籍」木簡の「政丁」と一致しますから、九州王朝では「政丁」という表記が正字として採用されていたと考えていいようです。

 ONライン(701年)を越えた8世紀以降は、大宝二年西海道戸籍にある「正丁」に変更されていますから、ここでも九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の影響が見られるのです。

 なお、大宝二年御野国戸籍(美濃国。岐阜県)では、徴税対象となる「戸」を「政戸」と表記していますから、太宰府市や元岡遺跡から出土した木簡の「政丁」という表記との関係がうかがえます。通説では、大宝二年の御野国戸籍の様式は古い浄御原令によっており、西海道戸籍は新しい大宝律令によっていると見 られていますので、「政丁」「政戸」という表記は701年以前の古い様式であったとしてよいようです。

 このように木簡研究により、7世紀末の九州王朝や近畿天皇家の様子がリアルに復元できそうで、木簡研究の重要性を再認識しています。