飛鳥藤原出土の評制木簡一覧

第2398話 2021/03/03

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(1)

 飛鳥宮と藤原宮(京)出土の評制下荷札木簡について、その献上国別と干支木簡の年次別データを「洛中洛外日記」で紹介しましたが、それら大量の木簡が同時代文字史料として戦後実証史学を支えています。すなわち、『日本書紀』の記述は少なくとも天武・持統紀からは信頼できるとする史料根拠として飛鳥・藤原出土木簡群があり、『日本書紀』の実証的な史料批判を可能にしました。
木簡は不要になった時点で土坑やゴミ捨て場に一括大量廃棄される例があり、干支などが記された紀年木簡(主に荷札木簡)と併出することにより、干支が記されていない他の木簡も一定の範囲内で年代が判断できるというメリットがあります。その結果、出土層位の年代判定においても、従来の土器編年とのクロスチェックが可能となり、より説得力のある絶対編年が可能となったため、木簡の記事と『日本書紀』の記事との比較による史料批判(『日本書紀』の記述がどの程度信頼できるかを判定する作業)が大きく進みました。

 具体例をあげれば、飛鳥宮の工房という性格を持つ飛鳥池遺跡からは、七世紀後半(主に670~680年代)の紀年木簡が出土しており、わずかではありますが八世紀初頭の「郡・里」(注①)木簡も出土しています。ところが一括大量出土しているおかげで、出土地点(土抗)毎の廃棄年代の編年が成立し、併出した木簡の年次幅が紀年木簡により判断可能となるケースが出てきました。

 たとえば奈良文化財研究所の木簡データベースによれば、飛鳥池遺跡北地区の遺跡番号SK1126と命名された土坑から、播磨国宍粟郡からの「郡・里」木簡6点(木簡番号1308 1309 1310 1311 1312 1313)が出土しています。同データベースにはSK1126出土の木簡123点が登録されていますが、その多くは削りくずで文字数が少ないものばかりで、年代の判断が可能なものは「郡・里」制木簡くらいでした。そのため、この土坑を含め飛鳥池遺跡北地区から一括出土した木簡群の年代について次の説明がなされています。

〝北地区の木簡の大半は、2条の溝と2基の土坑から各々一括して出土した。遺構ごとにその年代をみると、2条の溝から出土した木簡は、「庚午年(天智九年=660年)」「丙子年(天武五年=676年)」「丁丑年(天武六年=677年)」の干支木簡を含み、コホリとサトの表記が「評五十戸」に限られる。これは天武末年頃(680年代中頃)以前の表記法。これに対して、2基の土坑は、一つが「評里」という天武末年頃から大宝令施行(大宝元年=701年)以前の表記法で記された木簡を出土し、もう一つは「郡里」制段階(大宝令から霊亀3年以前)の木簡を含む。つまり、年代の違う三つの木簡群に分類できる。〟(注②)

 このように、大量に出土した木簡(同時代文字史料)と考古学者による精緻な編年により、それらの内容と時間帯が『日本書紀』の記述に整合しているとして、戦後実証史学では〝近畿天皇家一元史観が七世紀後半頃は実証できた〟と確信を抱いたものと思われます。しかし、出土木簡と『日本書紀』の記述を丁寧に比較すると、そこには大きな齟齬が横たわっています。(つづく)

(注)
①大宝令(701年)から霊亀三年(717年)以前に採用された「郡・里」制による行政区域表記。それ後、「郡・郷・里」制に改められた。
②花谷 浩「飛鳥池工房の発掘調査成果とその意義」『日本考古学』第8号、1999年。


第2395話 2021/02/28

飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年代

前話では、飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺跡・他)と藤原宮(京)地域から出土した350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡を国別に分けて、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を概観しました。今回はその中から年次(干支)が記された荷札木簡(49点)を抽出し、時間的な分布傾向を見てみます。
前回紹介した「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」350点のうち、数は少ないのですが産品を献上した年次(干支)が記された木簡があります。年次順に並べてみました。次の通りです。元史料は前回と同じ市大樹さんの『飛鳥藤原木簡の研究』(注)です。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
676 丙子 天武5 丙子年六□□□□ 不明  苑池遺構
677 丁丑 天武6 丁丑年十□□□□ 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月次米 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月三野 美濃国 飛鳥池遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年十二月尾張 尾張国 苑池遺構
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年高井五□□ 不明  藤原宮跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
682 壬午 天武11 壬午年十月□□□ 下野国 藤原宮跡
683 癸未 天武12 癸未年十一月三野 美濃国 藤原宮跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
687 丁亥 持統1 丁亥年若佐国小丹 若狭国 飛鳥池遺跡
688 戊子 持統2 戊子年四月三野国 美濃国 苑池遺構
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡
693 癸巳 持統7 癸巳年□     不明  飛鳥京跡
694 甲午 持統8 甲午年九月十二日 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年尾□□□□ 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年御調寸松  参河国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年木□(津カ)里 若狭国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 丙申年九月廿五日 尾張国 藤原京跡
696 丙申 持統10 丙申□(年カ)□□ 下総国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 □□□(丙申年カ)  美濃国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年□月□□□ 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若狭国小丹 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年三野国厚見 美濃国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年□□□□□ 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年六月波伯吉 伯耆国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 □□(戊戌カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
699 己亥 文武3 己亥年十月上捄国 安房国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年九月三野国 美濃国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□(月カ)  若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□□国小 若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年十二月二方 但馬国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年三月十五日 河内国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年四月佐国小 若狭国 藤原宮跡

(注)市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。


第2394話 2021/02/27

飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々

 飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺跡・他)と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、それにより七世紀後半から八世紀初頭の古代史研究は飛躍的に進みました。そのなかには350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡があり、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。これら大量の木簡という同時代史料と『日本書紀』の記事とを比較検証することにより、戦後実証史学を支える史料批判が大きく進みました。もし、筑紫・太宰府からも大量の木簡が出土していたなら、九州王朝研究は格段に進歩していたことを疑えません。

 この九州王朝時代の七世紀後半、大和の〝近畿天皇家の宮殿〟に産物を献上した諸国・諸評がわかるという荷札木簡群の存在は、わたしたち古田学派にとってもありがたいことです。そこで、市大樹さんの名著『飛鳥藤原木簡の研究』(注)に収録されている「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別の木簡データを飛鳥宮地域と藤原宮(京)地域とに分けて点数を紹介します。皆さんの研究に役立てていただければ幸いです。

 わたしの恣意的な判断を一切入れず、市さんの分類をそのまま採用しました。なお、飛鳥宮地域とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑地遺構・他のことで、藤原宮(京)地域とは藤原宮跡と藤原京跡の遺跡のことです。その詳細は市さんの本をご参照下さい。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   7   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   7  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 224 126 350

(注)市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。


第123話2007/02/25

藤原宮の「評」木簡

この一年間、研究してきたテーマに木簡の史料批判があります。その成果として、「元壬子年木簡」など、九州年号研究にとって画期的な発見もありましたが(第69話、72話、他)、現在わたしが最も注目しているのは藤原宮出土の「評」木簡群です。

 『日本書紀』や『続日本紀』によれば、藤原宮は持統八年(694)から平城京遷都する和銅三年(710)年まで、近畿天皇家の宮殿として機能したのですが、そこから出土する「評」木簡は、九州王朝から近畿天皇家へ権力交代する701年の直前の時期に当たる木簡であることから、権力交代時の研究をするうえでの第一級史料といえます。
たとえば、多くの木簡は「荷札」の役割を果たしたと思われますが、各地の地名を記した「評」木簡を見てみると、どのような地域から藤原宮へ貢物が届けられたかを知ることができ、当時の近畿天皇家の勢力範囲を推定することができます。
ちょっと古いデータですが、角川書店の『古代の日本9』(昭和46年)掲載資料によれば、東は安房国の「阿波評」や上野国の「車評」、西は周防国の「熊毛評」などがあり、近畿だけでなく関東や東海、中国地方の諸国の「評」地名を記した木簡が出土しています。したがって、7世紀末時点では大和朝廷は東北を除いた本州全体を支配下に置いていたと考えられます。
逆に言えば、この時点、九州王朝は九州島や四国ぐらいしか実効支配していなかったのかもしれません。そして、こうした背景(権力実態)があったからこそ、701年になってすぐ近畿天皇家は年号や律令の制定、評から郡への一斉変更をできたのではないでしょうか。藤原宮の「評」木簡を見る限り、このように思わ れるのです。