大和朝廷(日本国)一覧

第899話 2015/03/15

『旧唐書』の「別種」表記

 「洛中洛外日記」898話で東野治之さんの『史料学探訪』所収「日本国号の研究動向と課題」で紹介されていた、「日本国は倭国の別種」は「日本国は倭国の別稱」を誤写・誤伝されたとする太田晶次郎さんの説について、引き続き論じたいと思います。
 結論から言いますと、『旧唐書』の夷蛮伝の記述様式にとって、「別種」という用語は頻繁に使用されており、ある国が別の大国や旧国の「別種」であることを指し示す、いわばその国の歴史的背景を記すさいの常套句なのです。従って、本来「別稱」とあった記事をうっかり「別種」と誤写誤伝するというレベルの用語ではなく、それぞれの国の歴史的背景や変遷を記述するにあたり、意識的に選ばれて使用された用語なのです。
 この「別種」表記は『旧唐書』夷蛮伝では、日本伝と同様に、その国の伝の冒頭に記されており、一目瞭然と言えるほど頻出する用語なのです。たとえば日本伝以外にも次のような例が見えます。

(百済伝)「百済国は本また扶余の別種」
(高麗伝)「高麗は出自は扶余の別種なり」
(鉄勒伝)「鉄勒、もと匈奴の別種」
(東女国)「東女国、西羌の別種」
(南詔蛮伝)「南詔蛮はもと烏蛮の別種なり」
(突騎施烏質勒伝)「突騎施烏質勒伝は西突厥の別種なり」
(蘇祿伝)「蘇祿は突騎施の別種なり」

 上記の他にも『旧唐書』夷蛮伝には「別種」表記が少なからずありますが、このようにその国の出自を記載するさいに「別種」という表記方法が頻繁に用いられており、『旧唐書』編纂者が原史料に「別稱」とあったのを、うっかり「別種」に誤写誤伝したなどとする方法は学問的ではありません。近畿天皇家一元史観に不都合な史料事実を、「古代の中国人が間違えたのだろう」などとして、自説にあうように「改訂」したり、「理解(意図的曲解)」するという手法は、日本古代史学の「学問の方法」における病理的現象と言わざるを得ないのです。


第898話 2015/03/14

日本国は倭国の別種

 東野治之さんの近著『史料学探訪』を拝読しています。東野さんは直木孝次郎さんのお弟子さんで、文献史学、なかでも古代文字史料研究者の第一人者といってもよい優れた研究者です。今年の2月に岩波書店から発刊された同書も、古代史料に対する博識と鋭い考察による小論が満載で、とても勉強になります。古田学派の研究者の皆さんにもご一読をお勧めします。
 同書の中で最も関心を持って読んだのが、冒頭の「日本国号の研究動向と課題」という論稿で、『旧唐書』の倭国伝・日本国伝に記された「日本国は倭国の別種」は「日本国は倭国の別稱」を誤写・誤伝されたものとする太田晶次郎さんの説を支持されています。
 この『旧唐書』の記事は九州王朝説の根拠の一つであり、近畿天皇家一元史観論者にとっては最も「不都合な真実」なのです。従って、何とかこの『旧唐書』の記事を否定したいという「動機」はわからないわけではありません。それにしても「別稱」から「別種」へ誤写・誤伝されたという理解(原文改訂)は、『三国志』倭人伝の邪馬壹国から「邪馬臺国(邪馬台国)」への原文改訂を彷彿とさせる所為です。近畿天皇家一元史観に都合の悪い史料は平気で「原文改訂」するという、日本古代史学界の宿痾を見る思いです。
 実は『旧唐書』での「不都合な真実」は「日本国は倭国の別種」記事だけではありません。たとえば倭国と日本国の地勢記事についても次のように明確に別国であると書き分けています。

(倭国伝)「山島に居す」「四面に小島が五十余国」
(日本国伝)「其の国界は東西南北各数千里。西界と南界は大海に至る。東界と北界は大山があり限りとなす。山の外は即ち毛人の国なり。」

 このように、倭国は島国であり九州島を示し、日本国は近畿地方を示しています。更に両国の人名も異なっています。

(倭国伝)「其の王、姓は阿毎」
(日本国伝)「其の大臣朝臣真人」「朝臣仲満」「留学生橘逸勢」「学問僧空海」「高階真人」

 倭国王の姓を阿毎(あめ)と記しており、『隋書』に見える天子、阿毎多利思北孤と一致しますが、近畿天皇家に阿毎というような姓はありません。他方、日本国伝には仲満(阿部仲麻呂)や空海のように著名な人物名が見え、近畿天皇家側の人物であることが明白です。
 そもそも倭国伝冒頭に「倭国は古の倭奴国なり」とあり、この「倭奴国」は「志賀島の金印」をもらった博多湾岸の「委奴国」のこととしています。すなわち、倭国は近畿の王権ではなく、北部九州の王朝であることを『旧唐書』は冒頭から主張しているのです。
 こうした『旧唐書』の史料事実(一元史観に不都合な真実)を東野さんは今回の論稿では一切触れておられません。東野さんほどの優れた研究者でも一元史観の宿痾から逃れられないのです。残念と言うほかありません。


第846話 2015/01/01

京都御所の三種宝物

 元日朝のテレビ番組で京都御所が特集されていました。紫宸殿内にある三種神器 (『日本書紀』では「三種宝物」)の内の剣と勾玉を保管していた部屋が紹介されていました。これは初めてのテレビ放映とのことでした。鏡だけは伊勢神宮にあり、その「分身」(レプリカか)が京都御所にあったそうで、その「分身」を保管する建物もありました。現在では剣・勾玉とともに鏡の「分身」も東京の皇居にあるとのことでした。
 歴代の天皇の皇位継承の正統性の証明のため、この三種神器は歴史上に度々登場しますが、多元史観・九州王朝説からみたとき、この三種神器はどのように位置づけられるのかという問題があります。それは九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への権力交代が放伐だったのか、禅譲だったのかというテーマに密接に関わる問題です。
 中国の例を調べなければわかりませんが、王朝が禅譲さたれ場合、その「天子」としての権威だけではなく、その王朝の文物や権威を象徴する重宝も引き継ぐのではないでしようか。もしそうであれば、近畿天皇家は九州王朝の三種神器を引き継いでいてもよさそうですが、九州王朝の存在そのものを隠していることもあり、『日本書紀』などにはそうした気配はありません。たとえば事実として、王朝の権威の証明でもある重宝の類は引き継いでいません。具体的には「漢委奴 国王」の金印(いわゆる「志賀島の金印」)、卑弥呼がもらった「親魏倭王」の金印(未出土)は引き継いでいませんし、七支刀も石上神社が引き継いでおり、持ち主は近畿天皇家ではありません。
 こうした視点から見れば、近畿天皇家は九州王朝からの禅譲王朝ではないということになりそうです。『古事記』や『日本書紀』の記述から見れば、近畿天皇家は弥生時代のアマテラスやニニギにまで遡って、その権威を引き継いでいると主張していますから、いわゆる前王朝(九州王朝)からの禅譲を大和朝廷の正統性の根拠とはしていません。もっとも、史書に書かれた「史料事実」と実際に起こった「歴史事実」とが同じであるかどうかは学問的論証の対象ですから、多元 史観・九州王朝説の立場からの研究が不可欠です。「三種宝物」(三種神器)の多元史観による研究の深化が期待されます。


第777話 2014/08/31

大宰帥蘇我臣日向

 明日香村の都塚古墳が階段状の方墳であたっことで、にわかに蘇我氏との関係が注目されました。蘇我氏の出自については謎が多く、古田学派内でもさまざまな仮説が提起されてきましたが、いずれも確かな根拠が提示されているようには見えませんでした。そこで、改めて注目したいのが「洛中洛外日記」655話で紹介しました『二中歴』「都督歴」に見える次の記事です。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)

 鎌倉時代初期に成立した『二中歴』に収録されている「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前の「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としているのです。九州王朝が評制を施行した7世紀中頃、筑紫本宮で大宰帥に任じていたのが蘇我臣日向ということですから、蘇我氏は九州王朝の臣下ナンバーワンであったことになります。
 蘇我臣日向は『日本書紀』にも登場しますが、『二中歴』の「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えています。また、『日本書紀』皇極紀によれば、中大兄皇子との婚約が進められていた蘇我倉山 田麻呂の長女を身狭臣(蘇我日向のこととされる)が盗んだとありますが、これも『日本書紀』編纂時に大義名分を入れ替えた記事の可能性があります。
 近畿天皇家においても、蘇我氏が有力者として存在していたことを考えると、九州と大和において蘇我氏は重用されていたことになります。九州王朝説に基づいた蘇我氏研究が期待されます。


第775話 2014/08/27

所功編『日本年号史大事典』

          の「建元」と「改元」

 最近、面白い本を読みました。所功編『日本年号史大事典』(平成26年1月刊、雄山閣)です。所さんといえばテレビにもよく出られている温厚で誠実な学者ですが(その学説への賛否とは別に、人間としては立派な方だと思っています)、残念ながら大和朝廷一元史観にたっておられ、今回の著書も一元史観に貫かれています。しかし、約800頁にも及ぶ大作であり、年号研究の大家にふさわしい労作だと思います。
 同書には古田先生の九州王朝説・九州年号や著作(『失われた九州王朝』)も紹介されており、この点は古田説を無視する他の多くの歴史学者とは異なり、所さんの誠実さがうかがわれます。もっとも、古田先生の九州王朝説に対して「学問的にまったく成り立たない」(15頁)と具体的説明抜きで切り捨てておられ ます。
 同書中、わたしが最も注目したのが「建元」と「改元」の扱いについてでした。まず、所さんは我が国の年号について次のように概説されています。

「日本の年号(元号)は、周知のごとく「大化」建元(645)にはじまり、「大宝」改元(701)から昭和の今日まで千三百年以上にわたり連綿と続いている。」(第三章、54頁)

 すなわち大和朝廷最初の年号を意味する「建元」が「大化」とされ、『続日本紀』に「建元」と記されている「大宝」を「改元」と理解されています。 そして、具体的な年号の解説が「各論 日本公年号の総合解説」(執筆者は久禮旦雄氏ら)でなされるのですが、その「大宝」の項には次のような「改元の経緯及び特記事項」が記されています。

「『続日本紀』大宝元年三月甲午条に「対馬嶋、金を貢ぐ。元を建てて大宝元年としたまふ」としており、対馬より金が献上されたことを祥瑞として、建元(改元)が行われたことがわかる。」(127頁)

 この解説を見て、失礼ながら苦笑を禁じ得ませんでした。『続日本紀』の原文「建元(元を建てて)」を正しく紹介した直後に「建元(改元)」と記されたのですから。いったい「大宝」は建元なのでしょうか、改元なのでしょうか。原文改訂の手段としてカッコ書きにすればよいというものではないと思うので すが。
 所さんは「大宝」を「改元」と説明し、久禮さんは「建元(改元)」と表記解説される。すごい「曲芸」ですね。いつから歴史学は学問としてこのような「手法」が許されるようになったのでしょうか。これこそ研究不正としてなぜ毎日新聞やNHKは、小保方さん(イギリスの商業誌に掲載された論文の約80枚の写真中、3枚の写真に結論に影響しない過誤があっただけ)や笹井さん(同論文執筆指導しただけで、死ぬまで叩かれるようなことはしていない)以上にバッシングしないのでしょうか。このように「学問的にまったく成り立たない」のは、古田先生の九州王朝説ではなく、へんてこな「建元」「改元」解説をせざるを得ない、大和朝廷一元史観の方であることは明白です。本当に面白い本でした。


第765話 2014/08/14

都塚古墳と蘇我氏

 新聞やテレビニュースで、明日香村の都塚古墳が階段状の方墳であったことが最近の発掘調査で明らかになったことが報道されています。近くにある石舞台古墳が蘇我馬子の墓とされていることから、都塚古墳は馬子の父の蘇我稻目の墓ではないかとする見解も出されており興味深く感じています。
 都塚古墳の階段状の墳形は国内では珍しく、同様の形状を持つ古墳としては、岡山県真庭市の大谷1号墳(五段の方墳)が知られていましたが、都塚古墳は7~8段あったのではないかと見られているようです。もし、石舞台古墳や都塚古墳が蘇我氏の墓であったとすれば、現在は失われている石舞台古墳の墳形も階段状であったのかもしれません。基底部は吹石の痕跡から方形であったことが判明しています。封土が失われた理由は不明ですが、人為的なものを感じさせます。自然の風雨だけであれほど完全に封土が失われるとは考えにくいからです。
 前方後円墳が主流であった時代、飛鳥の地に異形ともいえる階段式方墳が天皇家をもしのぐような有力者だった蘇我氏の墓とすれば、蘇我氏は近畿天皇家とは 異質の豪族であったと考えられます。古田学派内でも蘇我氏に関して様々な見解・仮説が提起されてきました。たとえば「古田史学の会」草創期の会員(元副代表)であった山崎仁礼男さんはその著書『蘇我王国論』(1997年、三一書房)で、『日本書紀』は「蘇我王国」の歴史が換骨奪胎されたものとする作業仮説を発表されました。あるいは蘇我氏は九州王朝から飛鳥に派遣された近畿天皇家への「お目付役」とするアイデアも古田学派内から出されています。
 蘇我氏と九州王朝との関係から、「古田史学の会」でも様々な調査検討が試みられてきました。たとえば「電話帳」検索で全国の「蘇我」さんの分布を調べて みたところ、全国16件中、4件が大分県でした(西村秀己さんの調査による)。また、今回の都塚古墳の報道を聞いて、わたしは何故「都塚」という名称が付けられたのかも気になっています。古田学派内での多元史観による「蘇我氏」「階段状方墳」の研究が期待されます。


第751話 2014/07/24

森郁夫著

『一瓦一説』を読む

 今朝の京都は祇園祭の山鉾巡行(後祭)のため、観光客が見物席の場所取りであふれていました。今年は山鉾巡行が二回になりましたので、観光収入は増えると思いますが、混雑でバスが遅れたりしますので、住んでいる者にはちょっと大変です。
 今日は愛知県一宮市に仕事で来ていますが、ちょうど「一宮七夕祭り」の日で、駅前はイベントで賑やかです。女子高生によるキーボード演奏などもあり、わ たしも若い頃にバンド活動をやっていましたので、生演奏には今でも興味をひかれます。わたしはリードギターを担当していましたが、主にスクウェアやカシオ ペアの曲を好んで演奏していました。30年ほど昔の話しです。

 さて、今回は森郁夫著の新刊『一瓦一説 瓦からみる日本古代史』(淡交社)をご紹介します。あとがきによると、森郁夫さんは昨年五月に亡くなられ たとのことで、同書は最後の著書のようです。古代の瓦についての解説がなされた本で、近畿天皇家一元史観にたったものですが、考古学的遺物という「モノ (瓦)」がテーマですので、考古学的史料事実と一元史観というイデオロギーとの齟齬が見られ、興味深い一冊です。
 なかでもわたしが注目したのが、飛鳥の川原寺の瓦と太宰府観世音寺の創建瓦についての関連を示した次の解説です。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。 そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかる のである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために 天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 観世音寺の創建瓦(老司式)と川原寺や崇福寺の瓦に同笵品があるという指摘には驚きました。九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家 の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという指摘が正しけれ ば、この考古学的出土事実を九州王朝説の立場から、どのように説明できるでしょうか。
 しかもそれら寺院の建立年代は、川原寺(662~667)、崇福寺(661~667頃)、観世音寺(670、白鳳10年)と推定されていますから、観世 音寺のほうがやや遅れるのです。この創建瓦同笵品問題は、7世紀後半における九州王朝と近畿天皇家の関係を考える上で重要な問題を含んでいるようです。(つづく)


第715話 2014/05/28

神武の故郷

 「洛中洛外日記」714話にて、神武の出身地(故郷)を北部九州(糸島半島)と記したのですが、それが古田説であることを出典も明記して説明するようにとのご意見を水野代表よりいただきました。よい機会でもありますし、古田史学の学問の方法にも関わることですので、改めて説明することにします。
 神武の出発地について、当初、古田先生は「日向(ひゅうが)」(宮崎県)とされていました(『盗まれた神話』)。その後、長野県白樺湖畔の昭和薬科大学 諏訪校舎で1週間にわたり開催された古代史討論シンポジウム「邪馬台国」徹底論争(1991年)において、糸島半島説へと変更されました。そのときの古田 先生の説明として、『記紀』に見える神武軍団の主力の「久米」と、糸島半島にある「久米」地名の一致を根拠(傍証)として説明されたため、古田学派内から も批判の声があがったほど「討論」は熱を帯びたものとなりました。
 「地名当て」による比定という方法は、古田先生が批判された旧来の「邪馬台国」論争における「地名当て」と同類の方法であり、納得できないという批判で した。これは古田学派らしい学問の方法に関するもので、もっもとな批判ともいえるものでした。こうした厳しい批判に古田先生も当惑されていたように見えました。しかし、この批判は古田先生の新説成立の根拠や論理展開に対する誤解により生じたようでした。
 実は神武糸島半島出発説の根幹は「地名当て」ではなく、『古事記』の史料批判・新読解によるものでした。ところがシンポジウムにおける古田先生の説明が「地名当て」から始められたため、聴講者に誤解が生じたのかもしれません。
 『古事記』「神武記」によれば、神武等は「日向を発(た)たして筑紫に行幸し」とあることから、従来から「日向」(宮崎県)を出発して「筑紫」(福岡 県)へ向かったと解され、神武の故郷を宮崎県とする理解が通説となっていました(ただし、「神武」架空説が学界の多数説)。当初、古田先生も同様に理解されていました(古田先生は「神武」実在説)。ところが、『古事記』の天孫降臨説話にはニニギが「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶽」に降臨したと記されています。従来はこの「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶽」も宮崎県とされてきたのですが、古田先生は『盗まれた神話』において、糸島博多湾岸の高祖(たかす) 山連峰に現存する「くしふる岳」「日向(ひなた)峠」であることを論証されていました。
 こうした背景があって、先のシンポジウムにおいて、古田先生は天孫降臨の「日向(ひなた)」が糸島博多湾岸であれば、その直後の『古事記』「神武記」に見える「日向」も同様に糸島博多湾岸の「日向(ひなた)」と理解するのが、史料批判上の正しい読解であるとされたのでした。そして、「日向を発(た)たして筑紫に行幸し」の「筑紫」は小領域の地名であり、「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶽」の「竺紫」は大領域地名とされ、その「筑紫」と「竺紫」の書き分けを指摘されたのです。すなわち、「日向を発(た)たして筑紫に行幸し」とは、「竺紫の日向」から「竺紫の筑紫」へ向かったことを意味するとされたのです。
 わたしはこの新説を聞いて、その学問の方法を徹底させ、自説さえも覆す古田先生の史料批判(フィロロギー)に感動したものです。この新古田説は考古学的事実ともよく一致し、その正しさは明らかです。「三種の神器」が出土する糸島博多湾岸と、それらが弥生時代の遺跡から出土しない南九州とでは、明らかに 「三種の神器」を自らのシンボルとした近畿天皇家の祖先に地として、糸島半島が神武の故郷にふさわしいのです。
 こうした学問的経緯により、「神武、糸島半島出身」説が古田史学の中で不動の真説として今日に至っているのです。詳しくは『「邪馬台国」徹底論争』第2巻(1992年刊、新泉社)をご覧ください。


第707話 2014/05/10

続・「九州年号」の王朝

 「九州年号」が九州の権力者により制定された年号であることを示す史料として、古写本「九州年号」という出典史料名や『二中歴』の「九州年号」記事細注の他に、隣国史書の『旧唐書』(945年成立)があります。
 「洛中洛外日記」第590~594話で連載した「『旧唐書』の倭国と日本国」でも詳述しましたが、『旧唐書』には「倭国伝」と「日本国伝」が別国として記録されています。その地勢表記から、倭国は九州島を中心とする国であり、日本国は本州島にあった国であることがわかります。そして、唐と倭国との交流記事の最後は倭国伝では貞観22年(648)、唐と日本国との最初の国交記事は日本国伝には長安3年(703)とあり、両者の日本列島代表王朝の地位の交代は648~703年の間にあると考えられます。そして、『二中歴』記載の九州年号の最後「大化6年(700)」と近畿天皇家の最初の年号(建元)である大宝元年(701)が、その期間に入っていることからも、「九州年号」の王朝が『旧唐書』に記録された倭国であることは明白です。
 このように「九州年号」と近畿天皇家の年号(大宝~平成)の関係と、『旧唐書』の「倭国伝」と「日本国伝」の関係が見事に対応しているのです。すなわち隣国史書『旧唐書』の記事が示していることも、「九州年号」は九州王朝(倭国)の年号であるということなのです。(つづく)


第705話 2014/05/07

「改元」と「建元」の論理性

 熊本県和水(なごみ)町での講演会で「九州年号」を紹介するにあたり、まず最初に説明したのは「改元」と「建元」についてでした。
 講演を聴きに来られた皆さんやわたしの世代は、日本最初の年号を「大化」(645年)と学校で習ったはずです。「大化の改新」の「大化」です。ところがその「大化」年号や「大化の改新」を記した『日本書紀』には、天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の四年を改めて大化元年とする(孝徳天皇即位前紀)とあり、 王朝が初めて年号を制定する際の「建元」ではなく、なんと「改元」記事なのです。
 それでは大和朝廷(近畿天皇家)にとって最初の年号制定を意味する「建元」記事はどこにあるかといえば、『続日本紀』の文武天皇大宝元年三月条(701年)にあります。
 「建元して大宝元年としたまう。」(『続日本紀』)
 『日本書紀』も『続日本紀』も近畿天皇家が自らの歴史を、自らの利益のために、自らが編纂記録したものであり、自らに有利になるように記事を「修正・改竄・捏造」することはあっても、不利になるような変更はしないはずです。年号においても同様で、645年に「大化」年号を建元したのであればそう記すはずで、「改元」記事に変更する必要はまったくありません。同様に、701年に「大宝」年号を建元したと自ら主張しているのですから、これもまた嘘をつく必要はありません。すなわち、近畿天皇家は正直に「大化」は「改元」で、「大宝」は「建元」と主張していると考えざるを得ないのです。
 そうすると当然のこととして、一つの王朝にとって「建元」は最初の一回だけで、後は「改元」しかありません。近畿天皇家にとっての「建元」が701年の 「大宝」建元であれば、『日本書紀』に記された「大化(645~649年)」「白雉(650~654年)」「朱鳥(686年)」の3年号はいずれも「改元」と記されていることから、近畿天皇家以外の王朝が、近畿天皇家の「建元」よりも以前に、それらの年号を公布・改元していたと考えざるを得ません。これ が「改元」と「建元」の論理性なのです。
 『日本書紀』に改元記事として記されている「大化」「白雉」「朱鳥」は、『二中歴』などに見える「九州年号」中にありますので、「九州年号」は近畿天皇家以外の王朝が、近畿天皇家よりも以前に「建元」「改元」した年号であることは、上記の論理的帰結なのです。わたしのこの説明に、和水町の皆さんは深く同意され、「九州年号」というものをご理解していただけたようでした。(つづく)


第701話 2014/04/27

ONライン(701年)の画期

 読者の皆様やHP運営担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人、東大阪市)のおかげで、「洛中洛外日記」も701話を迎えることができました。感謝申し上げます。そこで、701話にふさわしいテーマについて触れることにします。
 ご存じのように、古田先生は九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への王朝交代の画期点として、701年を重視され、「ON(オーエヌ)ライン」と 命名されました。「ON」とは「オールド・ニュー」のイニシャルです。旧王朝から新王朝への交代年をこのように表現されたのですが、その主たる根拠は次の ような点でした。

1,『二中歴』などに見える九州年号は700年(大化6年)で終わり、701年からは近畿天皇家の最初の年号「大宝」が「建元」されます。『続日本紀』には大宝を「改元」ではなく、初めての年号制定を意味する「建元」と記されており、大宝が近畿天皇家最初の年号であることは明白です。
2,藤原宮出土木簡などから、700年までは行政単位は「評」であり、701年からは一斉に「郡」に変更されています。
3,『旧唐書』に見える「倭国伝」と「日本国伝」の記事は、倭国から日本国への政権交代が701年とする古田説と整合します。

 以上のような、文献(九州年号)と考古学的史料事実(木簡)、そして外国史料(『旧唐書』)などの一致を根拠に、王朝交代の画期点を701年とされました。わたしもこの古田説に賛成です。
 ところが、この10年間ほどで九州王朝研究は進展し、王朝交代の実体が複雑なものであることも判明してきました。例えば、九州年号は701年以後も継続しており、「大化」は703年まで続き、その後「大長」が712年までの9年間続いていたことがわかりました。そのため、701~712年の間は近畿天皇家と九州王朝がそれぞれ年号を持って併存していた可能性が出てきました。その間の九州王朝の実体はまだよくわかりませんが、701年に単純な王朝交代が行われたのではないようです。今後の九州王朝史研究の課題です。


第692話 2014/04/11

近畿天皇家の律令

 第691話で、 藤原宮で700年以前の律令官制の官名と思われる木簡「舎人官」「陶官」が出土していることを紹介しましたが、実はこのことは重大な問題へと進展する可能性を示しています。すなわち、藤原宮の権力者は「律令」を有していたという問題です。一元史観の通説では、これを「飛鳥浄御原令」ではないかとするのですが、九州王朝説の立場からは「九州王朝律令」と考えざるを得ないのです。
 たとえば、威奈大村骨蔵器銘文には「以大宝元年、律令初定」とあり、近畿天皇家にとっての最初の律令は『大宝律令』と記されています。この金石文の記事を信用するならば、700年以前の藤原宮で採用された律令は近畿天皇家の律令ではなく、「九州王朝律令」となります。そうすると、当時の日本列島では最大規模の朝堂院様式の宮殿である藤原宮で「九州王朝」律令が採用され、全国統治する官僚組織(「舎人官」「陶官」など)が存在していたことになります。ということは、藤原宮は「九州王朝の宮殿」あるいは「九州王朝になり代わって全国統治する宮殿」ということになります。「藤原宮には九州王朝の天子がいた」と する西村秀己説の検討も必要となりそうです。
 九州王朝の実像を解明るためにも、藤原宮出土木簡の研究が重要です。わたしは「多元的木簡研究会」の創設を提起していますが、全国の古田学派研究者の参画をお待ちしています。