近畿天皇家一覧

第2398話 2021/03/03

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(1)

 飛鳥宮と藤原宮(京)出土の評制下荷札木簡について、その献上国別と干支木簡の年次別データを「洛中洛外日記」で紹介しましたが、それら大量の木簡が同時代文字史料として戦後実証史学を支えています。すなわち、『日本書紀』の記述は少なくとも天武・持統紀からは信頼できるとする史料根拠として飛鳥・藤原出土木簡群があり、『日本書紀』の実証的な史料批判を可能にしました。
木簡は不要になった時点で土坑やゴミ捨て場に一括大量廃棄される例があり、干支などが記された紀年木簡(主に荷札木簡)と併出することにより、干支が記されていない他の木簡も一定の範囲内で年代が判断できるというメリットがあります。その結果、出土層位の年代判定においても、従来の土器編年とのクロスチェックが可能となり、より説得力のある絶対編年が可能となったため、木簡の記事と『日本書紀』の記事との比較による史料批判(『日本書紀』の記述がどの程度信頼できるかを判定する作業)が大きく進みました。

 具体例をあげれば、飛鳥宮の工房という性格を持つ飛鳥池遺跡からは、七世紀後半(主に670~680年代)の紀年木簡が出土しており、わずかではありますが八世紀初頭の「郡・里」(注①)木簡も出土しています。ところが一括大量出土しているおかげで、出土地点(土抗)毎の廃棄年代の編年が成立し、併出した木簡の年次幅が紀年木簡により判断可能となるケースが出てきました。

 たとえば奈良文化財研究所の木簡データベースによれば、飛鳥池遺跡北地区の遺跡番号SK1126と命名された土坑から、播磨国宍粟郡からの「郡・里」木簡6点(木簡番号1308 1309 1310 1311 1312 1313)が出土しています。同データベースにはSK1126出土の木簡123点が登録されていますが、その多くは削りくずで文字数が少ないものばかりで、年代の判断が可能なものは「郡・里」制木簡くらいでした。そのため、この土坑を含め飛鳥池遺跡北地区から一括出土した木簡群の年代について次の説明がなされています。

〝北地区の木簡の大半は、2条の溝と2基の土坑から各々一括して出土した。遺構ごとにその年代をみると、2条の溝から出土した木簡は、「庚午年(天智九年=660年)」「丙子年(天武五年=676年)」「丁丑年(天武六年=677年)」の干支木簡を含み、コホリとサトの表記が「評五十戸」に限られる。これは天武末年頃(680年代中頃)以前の表記法。これに対して、2基の土坑は、一つが「評里」という天武末年頃から大宝令施行(大宝元年=701年)以前の表記法で記された木簡を出土し、もう一つは「郡里」制段階(大宝令から霊亀3年以前)の木簡を含む。つまり、年代の違う三つの木簡群に分類できる。〟(注②)

 このように、大量に出土した木簡(同時代文字史料)と考古学者による精緻な編年により、それらの内容と時間帯が『日本書紀』の記述に整合しているとして、戦後実証史学では〝近畿天皇家一元史観が七世紀後半頃は実証できた〟と確信を抱いたものと思われます。しかし、出土木簡と『日本書紀』の記述を丁寧に比較すると、そこには大きな齟齬が横たわっています。(つづく)

(注)
①大宝令(701年)から霊亀三年(717年)以前に採用された「郡・里」制による行政区域表記。それ後、「郡・郷・里」制に改められた。
②花谷 浩「飛鳥池工房の発掘調査成果とその意義」『日本考古学』第8号、1999年。


第2192話 2020/08/01

九州王朝の国号(14)

 九州王朝は多利思北孤の時代、六世紀末から七世紀初頭に中国北朝(隋)との国交では「大委国」を国号として国書に記し、国内では従来の「倭国」あるいは「大倭国」を継続使用していたとする理解に至りましたので、本シリーズ最後のステージ、七世紀後半から大和朝廷と王朝交替する701年(ONライン)までの期間の国号について考察します。
 この時期の九州王朝の国号を記した同時代史料が見つかりませんので、八世紀前半の史料中に残された七世紀の国号表記を史料根拠として紹介します。次の例が比較的有力なものです。

①「対馬国司忍海造大国言さく、『銀始めて当国に出でたり。即ち貢上る』。是れによりて大国に小錦下位を授けたまう。おおよそ倭国に銀有ることは、此の時に始めて出る。」『日本書紀』天武三年(六七四)三月条

②「唐の人我が使いに謂ひて曰く、『しばしば聞かく、海の東に大倭国有り。これを君子国と謂ふ。人民豊楽にして、礼儀敦(あつ)く行はるときく。今使人を看るに、儀容大だ浄し。豈(あに)信(まこと)ならずや』といふ。」『続日本紀』慶雲元年(七〇四)七月条

③「三宝の奴(やっこ)と仕(つか)へ奉(まつ)る天皇が盧舎那の像の大前に奏(もう)し賜へと奏さく、此の大倭国は天地開闢(ひら)けてより以来に、黄金は人国より献(たてまつ)ることはあれども、斯(こ)の地には無き物と念(おも)へるに、聞こし看(め)す食国(おすくに)の中の東の方陸奥国守従五位上百済王敬福い、部内の少田郡に黄金在りと奏して献れり。(後略)」『続日本紀』聖武天皇・天平勝宝元年(七四九)四月宣命

 ①の天武紀に見える「倭国」や②③の「大倭国」は共に「日本」全体のことを指していますから、『日本書紀』成立時点(720年)において、九州王朝の領域を「倭国」と表記していたことになります。②の「大倭国」は遣唐使が聞いた中国側の認識です。また、聖武天皇の宣命に見える「大倭国」も天平勝宝元年(七四九)時点のものと考えられますから、聖武天皇が九州王朝の国号を「大倭国」と認識していたことがわかります。
 こられ史料の「倭国」「大倭国」という記事から、王朝交替以前の九州王朝の国号が多利思北孤の時代の国号と同一と考えてよいと思われます。それ以外の国号としては、「大委国」と九州王朝系近江朝が採用した「日本国」くらいしか史料に見えませんので、九州王朝の国号は次のような変遷をたどったとして良いのではないでしょうか。

1世紀頃 委奴国(志賀島の金印による)
3世紀頃~ 倭国(『三国志』による)
6世紀末頃~7世紀末 大委国(主に国外向け表記。『法華義疏』『隋書』による)、倭国、大倭国
7世紀後半(670年~) 日本国(九州王朝系近江朝) ※この「日本国」は7世末頃(藤原京)から大和朝廷に引き継がれる。

 以上が九州王朝国号の考察結果ですが、新たな史料や論理の発見により、更に修正が必要になるかもしれませんので、現時点での到達点とご理解下さい。引き続いて、「大和朝廷の国号」をテーマに考察を行います。(おわり)


第2186話 2020/07/17

九州王朝の国号(12)

 本シリーズも最終章へと入ります。それは九州王朝から大和朝廷への王朝交替期、七世紀末から八世紀初頭での九州王朝の国号です。「壬申の乱」により「日本国」を名乗った「九州王朝系近江朝」は滅びます。その後の九州王朝(筑紫君薩野馬の王朝)、あるいは実力的に列島内ナンバーワンとなった天武や持統は自らの国号をどのようにしたのでしょうか。ここでも、同時代史料に基づいて考察を進めます。
 結論から言えば、天武や持統は国号として「日本国」を「九州王朝系近江朝」から継承したと、わたしは考えています。その史料根拠は次の藤原宮跡出土「評」木簡に見える「倭国」の表記です。

 「※妻倭国所布評大野里」(※は判読不明の文字)藤原宮跡北辺地区遺跡出土

 奈良文化財研究所HPの木簡データベースによれば、「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のことと説明されています。これは「評」木簡ですから、作成時期はONライン(701年)よりも前で、藤原宮跡出土の七世紀末頃のものと推測できます。近畿天皇家の中枢領域から出土した九州王朝末期の木簡に「倭国」という表記があることは注目されます。
 『旧唐書』などの中国史書では、九州王朝の国名を「倭国」と記していますが、『日本書紀』などの国内史料では今の奈良県に相当する「大和(やまと)国」を「倭国」や「大倭国」などと漢字表記されています。そして、「倭国所布評」木簡によれば、九州王朝の国名「倭国」を、王朝交代(701年)の直前に、近畿天皇家は自らの中枢領域「やまと」の地名表記に採用しているわけです。
 それでは、このとき近畿天皇家は自らの国名(全支配領域)を何と称したのでしょうか。九州王朝の国名「倭国」は、既に自らの中心領域名に使用していますから、これではないでしょう。そうすると、あと残っている歴史的国名は「日本国」だけです。
 このように考えれば、近畿天皇家は遅くとも藤原宮に宮殿をおいた七世紀末(「評」の時代)に、「日本国」を名乗っていたことになります。『旧唐書』に倭国伝と日本国伝が併記されていることから、近畿天皇家が日本国という国名で中国から認識されていたことは確かです。その自称時期については、漠然と七〇一年以後とわたしは考えていたのですが、この木簡理解の論理展開によれば、七〇一年よりも前からということになります。
 以上の論理により、天武・持統らは七世紀末には天智の「九州王朝系近江朝」の国号「日本国」を継承していたと思われます。このことについては、『東京古田会ニュース』168号の拙稿「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」で詳述しましたので、ご参照下さい。(つづく)


第2143話 2020/04/28

『多元』No.157のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.157が本日届きました。同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「『国県制』を考える」と拙稿「前期難波宮出土『干支木簡』の考察」が掲載されていました。
拙稿では、前期難波宮出土の現存最古の干支木簡「戊申年」(648)木簡と二番目に古い芦屋市出土「元壬子年」(652)木簡の上部に空白部分があることを指摘し、本来は九州年号「常色」「白雉」が記されるべき空白部分であり、何らかの理由で木簡に九州年号を記すことが憚られたのではないかとしました。また、「戊」や「年」の字体が九州王朝系金石文などの古い字体と共通していることも指摘しました。
また、『多元』No.156に掲載された拙稿「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」を批判した、Nさんの論稿「読後感〝七世紀の「天皇」号 新・旧古田説の比較検証」〟について」が掲載されていました。その中で、わたしが紹介した古田旧説、近畿天皇家は七世紀前半頃から〝ナンバーツー〟としての「天皇」号を名乗っていた、という説明に対して、次のようなご批判をいただきました。

 〝古賀氏は、古田旧説では、例えば「天武はナンバーツーとして天皇の称号を使っていた」と述べるが、古田武彦はそのように果たして主張していたのだろうか、という疑問が生じる。〟
〝小生には古賀氏の誤認識による「古田旧説」に基づいた論難となっているのではないか、という疑念が浮かぶ。この「不正確性」については、以下の古賀氏の論述にも通じるものを感じる〟
〝今回同様の手前勝手に論点の整理をして、「古田旧説」「古田新説」などときめつけ、的外れの論述とならないように、と願うのみである。〟

 このように、わたしの古田旧説の説明に対して、「誤認識」「不正確」「手前勝手」と手厳しく論難されています。
「洛中洛外日記」読者の皆さんに古田旧説を知っていただくよい機会でもありますので、改めて七世紀における近畿天皇家の「天皇」号について、古田先生がどのように認識し、述べておられたのかを具体的にわかりやすく説明します。
「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」でも紹介したのですが、古田先生が七世紀前半において近畿天皇家が「天皇」号を称していたとされた初期の著作が『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏の光背銘」(朝日新聞社刊、一九八五年)です。同著で古田先生は、法隆寺薬師仏の光背銘に見える「天皇」を近畿天皇家のこととされ、同仏像を「天平仏」とした福山俊男説を批判され、次のように結論づけられました。

 「西なる九州王朝産の釈迦三尊と東なる近畿分王朝産の薬師仏と、両々相対する金石文の存在する七世紀前半。これほど一元史観の非、多元史観の必然をあかあかと証しする世紀はない。」(278頁)

 このように、七世紀前半の金石文である法隆寺薬師仏に記された「天皇」とは近畿天皇家のことであると明確に主張されています。すなわち、古田先生が「旧説」時点では、近畿天皇家は七世紀前半から「天皇」を名乗っていた、と認識されていたのは明白です。
さらに具体的な古田先生の文章を紹介しましょう。『失われた九州王朝』(朝日文庫版、1993年)に収録されている「補章 九州王朝の検証」に、次のように古田旧説を説明されています。

 〝このことは逆に、従来「後代の追作」視されてきた、薬師如来座像こそ、本来の「推古仏」だったことを示す。その「推古仏」の中に、「天皇」の称号がくりかえし現れるのである。七世紀前半、近畿天皇家みずから、「天皇」を称したこと、明らかである。(中略)
もちろん、本書(第四章一)の「天皇の称号」でも挙列したように、中国における「天皇」称号使用のあり方は、決して単純ではない。「天子」と同意義の使用法も存在する。しかし、近畿天皇家の場合、決してそのような意義で使用したのではない、むしろ、先の「北涼」の事例のように、「ナンバー2」の座にあること、「天子ではない」ことを示す用法に立つものであった(それはかつて九州王朝がえらんだ「方法」であった)。
この点、あの「白村江の戦」は、いわば「天子(中国)と天子(筑紫)」の決戦であった。そして一方の天子が決定的な敗北を喫した結果、消滅へと向かい、代って「ナンバー2」であった、近畿の「天皇」が「国内ナンバー1」の位置へと昇格するに至った。『旧唐書』で分流(日本国)が本流(倭国)を併呑した、というのがそれである。〟(601-602頁)

 以上の通りです。わたしの古田旧説(七世紀でのナンバー2としての天皇)の説明が、「誤認識」でも「不正確」でも「手前勝手」でもないことを、読者の皆さんにもご理解いただけるものと思います。
わたしは、〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えています。ですから拙論への批判を歓迎します。


第2114話 2020/03/17

蘇我氏研究の予察(4)

 『日本書紀』の七世紀前半頃の「蘇我氏」関連記事には九州王朝・多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績転用部分と本来の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」の事績部分が混在しており、それらを分別する学問的方法論の確立が必要と、わたしは考えているのですが、実は事態はもっと複雑です。というのも、九州王朝にも重臣としての「蘇我臣」が存在した史料痕跡があるからです。
 「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟、777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟でも紹介しましたが、『二中歴』「都督歴」に次の記事が見えます。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)

 鎌倉時代初期に成立した『二中歴』の「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前にいた「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としているのです。九州王朝が評制を施行した7世紀中頃、筑紫本宮で大宰帥に任(つ)いていたのが蘇我臣日向ということですから、蘇我氏は九州王朝の臣下ナンバーワンであったことになります。また、この「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかとわたしは考えています。
 このように『二中歴』によれば、近畿天皇家の蘇我氏とは別に、九州王朝にも「蘇我臣」がおり、重用されていたこととなりますから、『日本書紀』には、近畿天皇家の「蘇我氏」関連記事、九州王朝の重臣「葛城臣」と「蘇我臣」の転用記事が混在している可能性があります。従って、この三者を分別する学問的方法論が必要と思われ、九州王朝説に基づく蘇我氏研究は一筋縄ではいかないと思われるのです。
 このような視点と理由により、古田学派内での従来の蘇我氏研究について、「わたしの見るところ、失礼ながらいずれの仮説も論証が成立しているとは言い難く、自説に都合のよい記事部分に基づいて立論されたものが多く、いわば『ああも言えれば、こうも言える』といった研究段階に留(とど)まってきました。」との辛口の批評をせざるを得なかったわけです。『日本書紀』に留まることなく、九州王朝系史料に基づいた多元的「蘇我氏」研究の本格的幕開けを期待しています。(おわり)


第2113話 2020/03/17

蘇我氏研究の予察(3)

 蘇我氏と「葛城」に深い関係があるように『日本書紀』が編纂されたのは、九州王朝の天子、多利思北孤の事績を「聖徳太子」記事として転用し、同時に多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も「蘇我氏」記事に転用するためではなかったかと、わたしは予察しているのですが、その根拠として次の論理性と史料状況があげられます。

①『日本書紀』編者は、九州王朝の天子、阿毎多利思北孤やその太子、利歌彌多弗利の事績を『日本書紀』に転用する際、同時代の近畿天皇家内の人物「聖徳太子」(厩戸皇子)に〝横滑り〟させている。
②従って、多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も、同事態の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」に〝横滑り〟させていると考えられる。
③そのことを支持するように、蘇我氏と「葛城」とを関連付ける記事(蘇我馬子が葛城県を祖先の地として永久所有権を推古天皇に要請し、拒否される)が「聖徳太子」の時代、推古紀(32年条、624年)に現れている。
④この理解が正しければ、推古紀32年条の「葛城県、永久所有権申請」記事も、本来は九州王朝の天子、多利思北孤にその重臣「葛城臣」が北部九州の「葛城県」の「永久所有権」を「申請」した記事の転用と考えることができる。
⑤この考えを支持するかのように、「聖徳太子」の伝記『聖徳太子伝暦』推古天皇二十九年条の「葛城寺」注文に「蘇我葛木臣」と、近畿天皇家の「蘇我氏」と「葛木臣」を習合させた表記が見える。

 以上の予察(論証)によるならば、『日本書紀』の七世紀前半頃の「蘇我氏」関連記事には九州王朝・多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績転用部分と本来の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」の事績部分が混在していることになるので、それらを分別する学問的方法論の確立が必要となります。(つづく)


第2112話 2020/03/16

蘇我氏研究の予察(2)

 服部さんが指摘されたように、『日本書紀』に見える蘇我氏と「葛城」との不自然な関係付け記事にこそ、わたしは九州王朝説からの蘇我氏研究アプローチの鍵があるのではないかと直感しました。そしてその鍵を解くもう一つの鍵が九州王朝系史料にありました。それは、九州年号「法興」史料として有名な「伊予温湯碑文」(「伊予湯岡碑文」)です。
 現在、同碑は所在不明となっていますが、碑文冒頭には次の記事があったとされています。

 「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」(『釈日本紀』所引『伊予国風土記』逸文)

 ここには三名の称号・名前が記されています。「法王大王」「恵忩法師」「葛城臣」です。なお、「法王大王」を「法王」と「大王」の二人(兄弟)を表すとする理解もありますが、本稿では従来説に従い、「法王大王」という人物一人としておきます(本稿の論点の是非に直接関わらないため)。厳密に言うのなら、「我法王大王」(わが法王大王)の「我」(わが)という、本碑文の作成人物の存在もありますが、その名前や称号は不明ですので、本稿では取り上げません。
 古田説では碑文の「法王大王」は『隋書』に見える九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤(法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える上宮法皇)のこととされ、「法興六年」はその年号で596年のこととされます。碑文に見える「法王大王」に従っている人物は、僧侶の「恵忩法師」と臣下の「葛城臣」の二人だけですので、いずれも天子に付き従って伊予まで来るほどの九州王朝内での重要人物と思われます。
 特に「葛城臣」にわたしは注目しました。もしかすると、『日本書紀』編者は九州王朝の重臣「葛城臣」を近畿天皇家の重臣「蘇我氏」に重ね合わせようとして、蘇我氏と「葛城」に深い関係があるように『日本書紀』を編纂した、あるいは、九州王朝史書の多利思北孤の事績を「聖徳太子」記事として転用し、その際、多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も「蘇我氏」記事に転用したのではないでしょうか。
 この点、「葛城」という地名が、大和にも北部九州(『和名抄』肥前三根郡に葛城郷が見える)にもあったことが、「葛城臣」記事を『日本書紀』に転用しやすくさせた一つの要因になったと思われます。(つづく)

【以下はウィキペディアより転載】
 ※近畿天皇家一元史観に基づく解説が採用されており、古田史学とは異なる部分がありますので、ご留意下さい。。

伊予湯岡碑(いよのゆのおかのひ)

法興六年[注 1]十月、歳在丙辰、我法王大王[注 2]与恵慈法師[注 3]及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。
惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以[注 4]妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異干寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽[注 5]。窺望山岳之巖※(山偏に「咢」)、反冀平子[注 6]之能往。椿樹相※(「广」の中に「陰」)而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢[注 7]、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊[注 8]、豈悟洪灌霄庭意歟[注 9]。
才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。

『釈日本紀』所引または『万葉集註釈』所引『伊予国風土記』逸文より。

注釈
1.「法興」は私年号で、法興寺(飛鳥寺)建立開始年(西暦591年)を元年とし、法興6年は西暦596年になる(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
2.「法王大王」は聖徳太子を指す(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
3.底本では「恵忩」であるが、「恵慈」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
4.底本では「万所以機」であるが、「万機所以」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
5.底本では「化弱」であるが、「化羽」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
6.底本では「子平」であるが、「平子」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
7.底本では「吐下」であるが、「哢」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
8.底本に「以」は無いが、意補(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
9.底本では「与」であるが、「歟」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。


第2111話 2020/03/15

蘇我氏研究の予察(1)

 「洛中洛外日記」2108話(2020/03/12)「『多元』No.156のご紹介」で、『多元』No.156に掲載された服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「七世紀初頭の近畿天皇家」をわたしは好論と評しました。その主たる理由は、蘇我氏と近畿天皇家の関係を論ずるにあたり、ピックアップされた『日本書紀』の蘇我氏関連記事が網羅的で、蘇我氏研究に役立つと思われたことでした。なかでも、『日本書紀』に見える蘇我氏と葛城氏とを結びつける記事や解釈に注目された点に、わたしは触発されました。そこで、九州王朝説による蘇我氏研究のアプローチ方法を示し、その予察を述べてみたいと思います。
 服部稿では蘇我氏と葛城臣とを同一とする『日本書紀』の記述を疑い、次のように論じておられます。

〝推古紀三二年(六二四)の、蘇我馬子が推古天皇に葛城県の永久所有権を請う記事を、岩波書店の『日本書紀』は「皇極元年に蘇我大臣蝦夷が葛城高宮に祖廟を立てるとあり、馬子は葛城臣ともいったのであろう。他に伝暦に蘇我葛木臣に賜う。」と注釈して辻褄を合わそうとする。しかし、蘇我氏が葛木に因んだ姓名を使ったという記述は見られない。〟(『多元』No.156、p.7)

 この服部さんの指摘は理解できますが、それではなぜ『日本書紀』には蘇我氏と「葛城」を結びつけるような記事が散見されるのかという、『日本書紀』編者の認識に迫る作業(フィロロギー)が必要です。この点についてのわたしの考え(予察)を述べることにします。(つづく)


第2108話 2020/03/12

『多元』No.156のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.156が先日届きました。同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「七世紀初頭の近畿天皇家」が掲載されていました。同稿は『日本書紀』に記された蘇我氏関連の記事をピックアップし、七世紀前半までは、九州王朝の重臣である蘇我氏が近畿天皇家よりも上位で、その関係が「乙巳の変(645年)」で逆転したとするものです。
 蘇我氏研究は一元史観でも多元史観でも多くの研究が発表されており、古田学派内でも蘇我氏を九州王朝の天子・多利思北孤とする説、九州王朝が大和に派遣した近畿天皇家のお目付役説など諸仮説が出されてきました。わたしの見るところ、失礼ながらいずれの仮説も論証が成立しているとは言い難く、自説に都合のよい記事部分に基づいて立論されたものが多く、いわば「ああも言えれば、こうも言える」といった研究段階に留(とど)まってきました。
 その点、服部稿は「乙巳の変までは、近畿天皇家よりも蘇我氏が上位」という史料的に根拠明示可能な「限定的仮説」の提起であり、学問的に慎重な姿勢を保っておられます。また、ピックアップされた『日本書紀』の記事には改めて着目すべきこともあり、わたしも蘇我氏研究に取り組んでみたくなるような好論でした。
 ちなみに、古田先生は「蘇我氏」についてはあまり論述されていません。それほど難しいテーマということだと思います。


第1980話 2019/09/02

大化改新詔はなぜ大化二年なのか(2)

 文武の即位年(697)は九州年号の大化三年に相当します。ご存じの通り、『日本書紀』にはこの大化年号が50年遡って転用されており、そのため大化元年は645年(孝徳天皇元年)となっています。そして翌年の大化二年(646)には有名な大化改新詔が次々と発せられます。この重要な大化改新詔が大化元年ではなく、なぜ大化二年なのかがよく分からなかったのですが、もし、この大化二年の改新詔が646年ではなく、九州年号の大化二年(696)の詔勅とすれば、翌年の文武即位を前にして、持統天皇が九州王朝の天子に国家システムの大きな変更を命じる詔勅を出させたのではないでしょうか。その場合、その詔勅には九州王朝の天子の御名(薩野馬か)と「大化二年」の年次が記されていたここととなります。そして『日本書紀』編纂時には、その詔勅をそのまま50年遡らせて、孝徳天皇が「大化二年(646)」に発した改新の詔勅とする記事が造作されたものと思われます。
 もちろん『日本書紀』に記された大化改新詔の中には、646年(九州年号の命長七年)に九州王朝が出した詔勅も含まれていると思われますが、それは個別の詔ごとに検証する必要があります。
 一例を挙げれば、大化二年正月の改新詔中に見える、「凡そ京には坊毎に長一人を置け。四つの坊に令一人を置け。」は、完成した藤原京の条坊の管理組織についての命令と考えざるを得ません。646年であれば近畿にはまだ条坊都市がありませんから、これは696年の大化二年のことと思われます。
 同じく、同改新詔に見える、「凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里より以下、四里より以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。」も従来の行政区画「評」から「郡」への変更を命じた「廃評建郡」の詔勅ではないでしょうか。もしそうであれば、696年(大化二年)に「廃評建郡」の詔勅を九州王朝の年号の下に告示し、その5年後の701年(大宝元年)に全国一斉に評から郡に置き換えたことになります。すなわち、696年の「廃評建郡」の命令から五年をかけて全国一斉に郡制へと変更し、同時に大宝年号を建元し、朝堂院様式(朝庭を持つ巨大宮殿)の藤原宮において文字通り「大和朝廷」が成立したわけです。すなわち、九州年号の大化二年(696)改新詔とは、九州王朝からの王朝交替を行うための一連の行政命令だったのではないかと、わたしは考えています。
 そしてその記事を『日本書紀』では「大化年号」とともに50年遡らせているのですが、七世紀中頃に九州王朝が全国に評制を施行した事績(県制から評制への変更「廃県建評」)を大和朝廷が実施した郡制樹立のこととする政治的意図をもった転用だったのではないかと推測しています。
 『続日本紀』の文武天皇の即位の宣命には、「禅譲」を受けた旨が記されていますが、この「禅譲」とは祖母の持統天皇からの天皇位の「禅譲」を意味するにとどまらず、より本質的にはその前年の「大化二年の改新詔」を背景とした九州王朝からの国家権力の「禅譲」をも意味していたのではないでしょうか。少なくとも、まだ九州王朝の天子が健在である当時の藤原宮の官僚や各地の豪族たちはそのように受け止めたことを、九州王朝説に立つわたしは疑えないのです。


第1979話 2019/09/01

大化改新詔はなぜ大化二年なのか(1)

 近畿天皇家の「天皇」号使用は王朝交替した701年(大宝元年)からで、文武が最初とする古田新説を検証するため、諸史料を精査してきました。中でも『続日本紀』冒頭に記された文武天皇の即位の詔勅(宣命)は同時代史料を収録したものとされており、初めての「宣命体」の詔勅としても貴重です。
 この「宣命」の研究には、岩波文庫の『続日本紀宣命』(倉野憲司編)がコンパクトで便利です。論文執筆にあたっては岩波書店の新日本古典文学大系『続日本紀』が一元史観による編集・解説ですが優れており、お勧めです。個人的には古田学派の研究者による『続日本紀』勉強会を開催したいと願っています。
 さて、その文武元年(697)八月に詔せられた即位の宣命には、「現御神と大八嶋国知らしめす天皇」「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世」「天皇が御子」「倭根子天皇」「天皇が大命」「天皇が朝庭」と、「天皇」という称号を使用しています。この宣命体の即位の詔勅は当時の記録を『続日本紀』に収録されたものと考えられていますから、それによれば近畿天皇家の文武は701年の王朝交替以前の697年には「天皇」号を使用していたことになります。そうであれば、古田新説を是としても、若干の修正が必要となるようです。(つづく)


第1964話 2019/08/15

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(1)

 「洛中洛外日記」1963話(2019/08/14)〝「最大古墳は天皇陵」説を小澤毅氏が批判〟で紹介した小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』(吉川弘文館)は、飛鳥宮についての大和朝廷一元史観(通説)による最新の論稿が収録されており、その「飛鳥宮」論がどのような根拠(エビデンス)と論理構造(ロジック)により成り立っているのかを勉強する上でも好適な一冊でした。市大樹さんの名著『飛鳥の木簡 -古代史の新たな解明』(中公新書)と併せ読むことにより、更に理解が深まりました。

 晩年の古田先生は七世紀の金石文に見える「飛鳥宮」などを、小郡市の小字地名「飛島(とびしま)」が明治期の地名史料に「飛鳥(ヒチョウ)」とされていることなどを根拠に、小郡にあった「飛鳥宮」のこととする説を発表されました。その後、古田学派内では筑前・筑後の広域「飛鳥」説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より、大宰府政庁(Ⅱ期)とする太宰府「飛鳥浄御原宮」説が服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から発表され、今日に至っています。

 今のところ、わたしはいずれも有力としながらも賛成できないでいます。その理由は、当地に「飛鳥」地名が現存しないことなどです。他方、通説の大和「飛鳥宮」は考古学的痕跡や『日本書紀』の記事との対応など、強力なエビデンスを背景に成立しています。そこで、九州王朝説との齟齬をきたさない、大和「飛鳥宮」の位置づけが可能なのかという問題意識もあり、一度、通説をしっかりと勉強する必要を感じていました。そんなときに出会ったのが小澤さんの『古代宮都と関連遺跡の研究』でした。

 同書や市さんの『飛鳥の木簡』などを参考にしながら、大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証を試みることにします。まだ、結論には至っていません。本テーマを「洛中洛外日記」で取り上げながら、認識を深め、新たな仮説提起へと至れば幸いです。しばらく、このテーマにお付き合いください。(つづく)