日本武尊(倭健)一覧

第3523話 2025/08/28

多賀神社(宮城県名取市)の日本武尊伝承

 「洛中洛外日記」3522話〝宮城県の日本武尊伝承を持つ神社〟で紹介した神社伝承のなかで最も注目したのが名取市高柳下西に鎮座する多賀神社です。同神社の創建は景行天皇二八年(98)に日本武尊(景行天皇の皇子)が東征の際に勧請したと伝えられています。

 伝承によれば、日本武尊は東国遠征での連戦により当地で重病となり、そこで柳の樹で祭壇を設けて病気平癒を祈願すると完治したとされています。その後、この故事から棚柳と呼ばれるようになり、霊地には祠が設けられて信仰の対象になったとのことです。

 また、仙台藩の『奥羽観蹟聞老志』(注①)には、雄略二年(458)に初めて祭禮で圭田(注②)五八束を寄進されたとあり、同神社が『延喜式』神名帳に記された式内社の多加神社とされてきました。わたしが注目したのは、この雄略二年(458)の圭田寄進という伝承です。景行天皇二八年(98)に創建されたとする伝承の年代は信頼できませんが、雄略二年(458)であれば、『宋書』倭国伝に記された九州王朝(倭国)の東方侵略〝東征毛人五十五國〟の時期とほぼ対応するからです(注③)。

 「風土記ニ曰ク。多賀ノ神社、圭田五十八束、二字田。所祭、伊弉諾尊也。雄畧二年、始奉圭田ヲ行フ神禮式祭。
神名、秘書ノ説載ス之宮城郡多賀ノ下ニ。」『奥羽観蹟聞老志』巻五 「国書データベース」による。句読点は古賀が付した。
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100350427/1?ln=ja

 このように「雄略二年」という具体的な年次で伝承されているケースは、何らかの根拠(史料)に基づいている可能性が高いだけに貴重です。(つづく)

(注)
①『奥羽観蹟聞老志』は、仙台藩の史官佐久間洞巌が仙台藩主伊達綱村の命により、奥州の歴史・地名・産物などを主に纏めた地誌。享保四年(1719)の序がある。原本は宮城県立図書館が所蔵し、宮城県指定文化財に登録されている。
②けいでん【圭田】:「圭」は潔(きよ)いの意。 昔、その収穫を祭祀用にあてるために設けた田地。神田(しんでん)。
③『宋書』倭国伝によれば、「雄略二年(458)」は倭王済か興の時代にあたる。


第3522話 2025/08/27

宮城県の日本武尊伝承を持つ神社

 「「洛中洛外日記」」3518話〝狩野英孝さんの実家「櫻田山神社」の祭神「武烈天皇」〟では宮城県北部の栗原市にある櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)のご祭神として祀られている「武烈天皇」、3520話〝大高山神社(宮城県柴田郡)の創建伝承〟では同県南部の柴田郡大河原町にある大高山神社(おおたかやまじんじゃ)のご祭神が日本武尊であることを紹介し、これらのご祭神は『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇や日本武尊に置き換えられて伝わったのかもしれないとしました。

 そうであれば、『宋書』倭国伝に見える〝東征毛人五十五國〟の範囲に宮城県(蝦夷国)が含まれている可能性もあり、宮城県内の日本武尊伝承を持つ神社をWEBで探したところ、県内各地にあることを知り、驚きました。ブログ「宮城県・日本武尊・縁の社寺・温泉」によると大高山神社をはじめとして次の神社がリストアップされています。
https://www.miyatabi.net/sonota/yamatotakeru.html

大高山神社 (宮城県大河原町) 名神大社
多賀神社 (宮城県仙台市) 延喜式内社
多賀神社 (宮城県名取市) 延喜式内社
佐倍乃神社 (宮城県名取市)
熱日高彦神社 (宮城県角田市) 延喜式内社
斗蔵神社 (宮城県角田市)
鹿嶋天足和気神社 (宮城県亘理町)
安福河伯神社 (宮城県亘理町)
鹿島神社 (宮城県丸森町)
刈田嶺神社 (宮城県蔵王町) 名神大社
遠流志別石神社 (宮城県登米市) 延喜式内社
飯野山神社 (宮城県石巻市) 延喜式内社
拝幣志神社 (宮城県石巻市) 名神大社
日高見神社 (宮城県石巻市) 延喜式内社
白鳥神社 (宮城県村田町)
白鳥神社 (宮城県柴田町)
拆石神社 (宮城県柴田町)
駒形根神社 (宮城県栗原市) 延喜式内社
敷玉早御玉神社 (宮城県大崎市) 延喜式内社

 このように宮城県内各地に、日本武尊に置き換えられた倭王武伝承の痕跡があり、九州王朝(倭国)は蝦夷国(陸奧国の太平洋側)の中枢領域と思われる仙台平野とその以北まで侵攻したことがうかがわれます。この伝承分布は前方後円墳分布にも対応しているようなので、宮城県内の日本武尊伝承は史実の反映と見たほうがよいように思われます。(つづく)


第3520話 2025/08/22

大高山神社(宮城県柴田郡)の創建伝承

 「洛中洛外日記」3519話〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟で、宮城県栗原市の櫻田山神社のご祭神「武烈天皇」について、〝『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇に置き換えられて伝わったのかもしれませんが、さすがに宮城県北部まで倭王武が来たとは考えにくい〟としました。

 他方、『常陸国風土記』には当地を巡航する「倭武天皇」伝承が記されており、古田説ではこれを倭国(九州王朝)の倭王武の伝承が日本武尊(やまとたけるのみこと)伝承に置き換えられたものとしてきました。したがって、『宋書』倭国伝に見える〝東征毛人五十五國〟の範囲に常陸国が含まれているとわたしは考えています。しかしさすがに宮城県北部の栗原市までは遠征していないだろうと思っていました。ところが櫻田山神社の武烈天皇伝承の調査を進めるなかで、宮城県にもヤマトタケル伝承が遺っていることを知りました。たとえば、宮城県南部の柴田郡大河原町にある大高山神社(おおたかやまじんじゃ)のご祭神が日本武尊で、『ウィキペディア(Wikipedia)』には次の説明があります。

〝社伝によれば、大高山神社は敏達天皇元年(572年)に日本武尊を主祭神として創建されたという。当神社の縁起書や『安永風土記』『奥羽観蹟聞老志』(おううかんせきもんろうし)などによれば、日本武尊が蝦夷征伐のための東征の折に仮宮を立てて住んだと伝わり、その仮宮の跡地に「白鳥大明神」と称する社殿を設け、日本武尊を奉斎したという。

 また伝承によれば、崇峻天皇二年(588年)には主祭神として橘豊日尊(用明天皇)が合祀された。これは、用明天皇が橘豊日尊と呼ばれた皇子の頃、勅命により当地へやってきたことがあり、用明天皇の皇子である聖徳太子がその縁を持って大高山神社へ合祀したと伝わる。〟

同神社ホームページにも次の解説があります。以下転載します。

《大高山神社の由緒》

 人皇30代敏達天皇の元年(571年)日本武尊を祭神として創建されました。 その後、推古天皇のお守り、橘豊日尊(31代用明天皇、聖徳太子の父君)を合祀しております。

 縁起書、安永風土記、観蹟聞老志などを併せて見ることによって日本武尊が蝦夷征伐の時にこの地に仮に宮を建てて住んだので、その跡地に白鳥大明神として日本武尊を奉祭したと言われています。

 場所も新開の台の山までありましたが(ママ、台の山で か?)、元禄初期の火災焼失により、新開126番地に移し、その後大正3年に金ヶ瀬神山に移築遷座されて現在に至っております。

《御祭神について》

 日本武尊が東国ご討征の時、お宮を建ててご住居になったことがあります。そして、尊が都へ帰られた後、白鳥大明神として祀ったということであり、その後、用明天皇が、橘豊日尊と呼ばれた、皇子の頃、この地に来られたことがあったので、その子の聖徳太子がこの地のゆかりをもって大高山神社に祀ったといいます。

 このようなことで、日本武尊と用明天皇を祀る二祭神であります。
日本武尊が東国平定に向かわれたのは、紀元110年の景行天皇40年のこととされているので、その462年後の紀元572年に創建されたことになります。
また、それより30余年後の推古天皇の代において、聖徳太子が父君・用明天皇を大高山神社に合祀したことになっています。

 明治42年(1909)8月8日、従来の『日本武尊』『用明天皇』二祭神のほか、堤に鎮座した愛宕神社の祭神迦具土尊(かぐつちのみこと)と、新寺に鎮座した山神社の祭神大山祇命(おおやまつみのみこと)とを合祀しています。更に、大正3年(1914)に、新開の尾鷹から現在地に遷座する際、祭神倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、火彦霊命(ほむすびのみこと)を合祀しています。
【本祭神】
日本武尊(やまとたけるのみこと)
用明天皇(ようめいてんのう)
【合祀祭神】
迦具土命(かぐつちのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
火産霊命(ほむすびのみこと)
白山菊理媛(しらやまくくりひめ)
https://ohtakayama.org/keidai/index.html
【転載終わり】

 柴田郡大河原町は福島県から宮城県へ向かう国道4号線上にあり(注)、それは倭王武らによる蝦夷国侵攻の経由地とできることから、同社伝承を歴史事実の反映とすることもできそうです。そうであれば、宮城県北部の櫻田山神社の武烈天皇伝承も倭王武のこととする可能性をはじめから排除しない方がよいかもしれません。

 なお、ご祭神として用明天皇も祀られていますが、全国的に著名な聖徳太子ではなく、なぜそのお父さんの用明天皇を祀ったのかという興味深い問題もあります。これも九州王朝(倭国)の伝承が用明天皇や聖徳太子に置き換えられたと考えれば、社伝の「用明天皇」とは、〝日出ずる処の天子〟と自称した国書で有名な、『隋書』俀国伝に見える俀国(倭国)の天子、阿毎多利思北孤(あまのたりしほこ)のことであり、その太子、利歌彌多弗利(りかみたふり)が同社に合祀したと考えることができます。(つづく)

(注)国道4号は、東京都中央区から栃木県宇都宮市、福島県福島市、宮城県仙台市、岩手県盛岡市を経て、青森県青森市に至る一般国道で、実延長が日本一長い国道。江戸時代の五街道のひとつである日光街道や奥州街道を踏襲する道筋で、高速道路では東北自動車道、鉄道では東北新幹線や東北本線とおおむね並行する経路をとる。


第3519話 2025/08/20

東北地方に濃密分布する「山神社」

 狩野英孝(かのえいこう)さんのご実家の櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)が千五百年の歴史を持つ古社であることを知り、驚きました。福岡県出身で京都に五十年住んでいるわたしには、「山神社」という聞き慣れない名称が気になり、ネットで調べてみました。各県神社庁のホームページによれば、山神社は東北地方に濃密分布しており、中でも宮城県と山形県が最濃密地域のようでした(注①)。秋田県や岩手県にも分布が見られますが、なぜか青森県には分布を見いだすことが、今のところできていません。

 「山神社」の訓みは、「さんじんじゃ」「やまじんじゃ」「やまのかみしゃ」「やまがみしゃ」などですが、ご祭神を武烈天皇とするのは少数でした。多いのは木花咲耶姫と大山祇神のようです。現時点で見つけた武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)をご祭神とする山神社は、冒頭紹介した櫻田山神社(宮城県栗原市栗駒桜田山神下)と山神社(宮城県栗原市一迫王沢字北沢十文字)、新山神社(しんざんじんじゃ、宮城県栗原市志波姫堀口御駒堂)で、いずれも宮城県北西部の栗原市内で、限定された祭神伝承のようです。栗原市にはこの他にも多数の山神社があるのですが、それらの祭神は武烈天皇ではありません。ですから、武烈天皇に仮託された人物の伝承が、栗原市の一部の山神社に遺っていると考えることができそうです。

 また、山神社の濃密分布範囲は東海地方を除けば蝦夷国領域ですから、もしかすると山神社とは本来は蝦夷国の神様のことかも知れません。ちなみに武烈天皇伝承は、仙台藩の地史『封内風土記』(注②)には次のように記されています。

 〝伝え云う。人皇第二五代武烈天皇、故ありて本州に配せられ、久我大連・鹿野掃部祐の両人扈従す、天皇崩後の後天平山に葬り社を建てて神霊を祀り山神と称した。久我氏は連綿今(明和九年、1772年頃)に至る。皇居の地を王沢・王沢宅といい、天皇の宸影は別当修験大性院家に蔵す。〟

 ここに見える「久我大連」という人物名が歴史事実であれば、「大連(おおむらじ)」の姓(かばね)を持つことから、蝦夷国ではなく恐らくは九州王朝系の人物であり、武烈天皇の時代(498~506年)、すなわち六世紀初頭頃に九州王朝系の有力者がこの地(蝦夷国)に来たことを示す伝承なのかもしれません。もしかすると、『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇に置き換えられて伝わったのかもしれませんが、さすがに宮城県北部まで倭王武が来たとは考えにくいように思います。

 しかしながら、栗原市の入の沢遺跡の古墳時代前期(4世紀)の集落跡からは、銅鏡4面や勾玉や管玉、ガラス玉、斧などの鉄製品が出土しています。また、仙台市には遠見塚古墳(墳丘長110m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)、隣接する名取市には東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長168m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)があります。両古墳の存在から、仙台平野や名取平野が古墳時代の東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。ちなみに、雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半の前方後円墳)よりも墳丘長が大きいのです。

 更に仙台市には東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡(5世紀中頃)もあり、古墳時代から九州王朝(倭国)との交流があったことは疑えません。(つづく)

(注)
①Wikipediaには次の山神社が紹介されている。
【主な山神社(さんじんじゃ)】
釜石製鐵所山神社 – 岩手県釜石市桜木町
山神社 – 宮城県栗原市鶯沢
山神社 – 宮城県栗原市若柳川南
山神社 – 宮城県栗原市若柳上畑岡
山神社 – 宮城県栗原市一迫北沢
山神社 – 宮城県栗原市一迫清水目
櫻田山神社 – 宮城県栗原市栗駒:山神社
山神社 – 宮城県石巻市北上町十三浜大室
山神社 – 宮城県石巻市北上町十三浜小滝
山神社 – 宮城県柴田郡柴田町四日市場
山神社 – 山形県新庄市本合海
山神社 – 山形県最上郡金山町有屋
山神社 – 山形県最上郡最上町富沢
山神社 – 山形県最上郡舟形町舟形
山神社 – 山形県最上郡真室川町及位
山神社 – 山形県最上郡鮭川村曲川
山神社 – 山形県最上郡戸沢村松坂
山神社 – 徳島県吉野川市山川町皆瀬:紙漉神社
山神社 – 愛媛県松山市東野
【主な山神社(やまじんじゃ)】
山神社 – 宮城県亘理郡亘理町吉田
山神社 – 秋田県北秋田市阿仁笑内:旧郷社
山神社 – 山形県最上郡最上町本城
山神社 – 山形県山形市神尾
山神社 – 山形県寒河江市田代
山神社 – 山形県村山市河島]
山神社 – 山形県天童市山口
山神社 – 山形県東根市関山
山神社 – 山形県尾花沢市五十沢
山神社 – 山形県東田川郡三川町押切新田
山神社 – 山形県西村山郡朝日町杉山
山神社 – 山形県西村山郡大江町柳川
山神社 – 山形県西置賜郡白鷹町萩野
山神社 – 千葉県君津市笹
山神社 – 千葉県君津市日渡根
山神社 – 栃木県宇都宮市下岡本町
山神社 – 東京都多摩市桜ヶ丘
新屋山神社 – 山梨県富士吉田市新屋:山神社
山神社 – 愛知県名古屋市千種区田代町:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市中区松原:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市北区安井
山神社 – 愛知県刈谷市一里山町
山神社 – 兵庫県豊岡市日高町:式内名神大社
山神社 – 和歌山県西牟婁郡白浜町3035
山神社 – 愛媛県松山市萩原
山神社 – 長崎県南松浦郡新上五島町船崎郷
山神社 – 大分県大分市広内
【主な山神社(やまのかみしゃ)】
山神社 – 宮城県遠田郡美里町牛飼:旧郷社
山神社 – 山梨県中央市大鳥居
山神社 – 愛知県名古屋市港区知多:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市緑区大高町:旧村社
山神社 – 愛知県尾張旭市瀬戸川町
山之神社 – 愛知県半田市山ノ神町
山神社 – 愛知県半田市天王町
山神社 – 愛知県半田市岩滑東町
山ノ神社 – 愛知県知多郡武豊町山ノ神
※東海地区では小規模な神社が多い。ただし、数は多く、境内社も含めると相当数になる。
【主な山神社(やまがみしゃ)】
山神社 – 愛知県碧南市山神町
②『封内風土記』(ほうないふどき)は、日本の江戸時代に仙台藩が編纂した地誌である。1772年に完成した。仙台と領内のすべての村について、地形・人文地理に関わる事項を列挙・解説し、各郡ごとに集計し、さらに郡単位の統計事実や解説を加える。著者は仙台藩の儒学者田辺希文。全22巻で、漢文で書かれた。(Wikipediaによる)


第2386話 2021/02/20

「蝦夷国」を考究する(6)

 ―蝦夷国の旧名「日高見国」―

 『日本書紀』景行紀に「蝦夷」記事が多いことを紹介しましたが、その内容について少し説明します。『日本書紀』の「蝦夷」初見は次の景行二七年二月条の記事です。

○『日本書紀』景行二七年二月条
 二十七年の春二月の辛丑の朔壬子に、武内宿禰、東國より還りて奏(もう)して言う、「東夷の中に、日高見國有り。其の國の人、男女並に椎結(かみをわ)け文身し、爲人(ひととなり)勇み悍(こわ)し。是(これ)を總べて蝦夷と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」とまうす。

 蝦夷の国(日高見国)が広く豊饒の地であるから、「撃ちて取りつべし」というのも露骨で非道な話ですが、『日本書紀』は武内宿禰の報告として記しています。この会話の存在が事実であれば、それは九州王朝内でのことと思われますが、これだけでは隣国侵略の大義名分にはなりません。そこで、同四十年六月条に次の記事が唐突に現れます。

○『日本書紀』景行四十年六月条
 四十年の夏六月に、東夷多いに叛(そむ)きて、邊境騒動す。

 この翌月、景行は次のように群卿に問います。

○『日本書紀』景行四十年七月条
 天皇、群卿に詔して曰く、「今東國安からずして、暴(あら)ぶる神多く起こる。亦蝦夷悉く叛きて屡(しばしば)人民を略(かす)む。誰人を遣わしてか其の亂を平らけむ。」とのたまふ。

 その結果、日本武尊が蝦夷征討に向かうことになります。ここで学問的に問題となるのが、この蝦夷征討記事の実年代はいつ頃なのかということと、本来の伝承として九州王朝の誰が蝦夷征討に向かったのかということです。景行四十年は『日本書紀』紀年では西暦110年になります。九州王朝の倭王武の伝承であるとすれば五世紀後半頃になります。このことについては後で触れます。
 この一連の『日本書紀』の記事でわたしが最も注目するのが、蝦夷の国が「日高見国」と呼ばれていることです。この国名は先の景行二七年の武内宿禰の報告と景行四十年是歳条に見えます。

○『日本書紀』景行四十年是歳条
 蝦夷国既に平らけて、日高見國より還りて、西南、常陸を歴(へ)、甲斐國に至りて、酒折宮に居(ま)します。

 この蝦夷征討からの帰還記事によれば、日高見国は常陸の東北にあることがわかります。ただし、その領域がどの範囲に及ぶかは不明です。なお、景行紀には日本武尊の関東・東北征討譚が延々と記されるのですが、この景行四十年「是歳」条には突然のように日本武尊のことを「王」と表記する例が増えます。この傾向は日本武尊が尾張に帰還するとなくなります。恐らく、ここで日本武尊の事績として記された景行四十年是歳条の記事は、東北・関東から信濃にかけてを征討した「王」と呼ばれる人物の記事が『日本書紀』に転用されたものと思われます(注②)。
 その「王」の有力候補として、景行五五年条に東山道十五國の都督に任命された彦狭嶋王がいます。この人物であれば文字通り「王」と呼ばれるにふさわしいと思います。

○『日本書紀』景行五五年条
 彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。

 もう一つの可能性として、『常陸国風土記』に登場する「倭武天皇」がいます。古田先生もこの「倭武天皇」とは九州王朝(倭国)の倭王武のことではないかともされています。もしかすると、彦狭嶋王と倭王武の両者の征討譚が転用されたという可能性もあるかもしれません。
 以上のように、『日本書紀』景行紀の史料批判により、蝦夷国の旧名「日高見国」が歴史上に現れ、その国を征討した九州王朝(倭国)側の人物として、彦狭嶋王と倭王武が有力候補として浮上しました。
 なお、蝦夷国と関係するかはわかりませんが、祝詞「六月の晦(つごもり)の大祓(おほはらへ)」に見える「日高見之国」について、古田先生は対馬北部の国名とされ、天孫降臨後は筑紫内の国名「大倭日高見之国」になったとする説を発表されています(注③)。また、「日高見国」研究史については、菊池栄吾さん(古田史学の会・仙台)の著書『日高見の源流 ―その姿を探求する』(注④)を参考にさせていただきました。(つづく)

(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②古田先生は『古代は輝いていた Ⅱ』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刊)において、日本武尊の関東征討譚は「常陸の王者」「関東統一の王者」「その他(九州王朝の王者など)」による事績の転用とされている。
③古田武彦『まぼろしの祝詞誕生』新泉社、1988年。
④菊池栄吾『日高見の源流 ―その姿を探求する』イー・ピックス出版、2011年。


第1145話 2016/03/06

藤井政昭さんの「関東の日本武尊」

 先週末、東京出張から帰宅すると、友好団体の多元的古代研究会から同会機関紙「多元」No.132が届いていました。一面には1月17日に開催した大阪府立大学での古田先生追悼講演会の報告が掲載されていましたが、インフルエンザと思われる発熱のため、読む体力と気力がなく、ようやく今日になってざっと目を通すことができました。
 力作ぞろいの中でも、秩父市の藤井政昭さんが書かれた「関東の日本武尊」がとても好論でした。その要旨は、『日本書紀』景行40年条に見える日本武尊の「関東遠征記事」では、日本武尊の代名詞が「尊」ではなく全て「王」と称されていることから、これは日本武尊のことではなく、「関東の○○王」の伝承からの盗用とするものでした。
 論証の方法や史料根拠が明示されており、しかもそれが単純明快なことから、とてもわかりやすく好感を持って読むことができました。「ああも言えれば、こうも言える」という程度の「思いつき」ではなく、かつ、結論へと導く論理展開が恣意的でもなく、相対的に有力な仮説の提起に成功されているように思われました。これからの検証や論争を通じて、この藤井説の当否が確認されることを期待したいものです。わたしも体調が戻りましたら、改めて藤井稿を精読し、検討したいと思います。


第302話 2011/01/29

『常陸国風土記』の倭武天皇

 東かがわ市の白鳥神社(しろとり神社)訪問を期に、『常陸国風土記』に見える倭武天皇について考えてみました。この倭武天皇を通説ではヤマトタケルとしていますが、天皇ではないヤマトタケルを倭武天皇とするのもおかしなことですが、その文字表記も『日本書紀』の「日本武尊」とも『古事記』の「倭建」とも異なり、記紀よりも僅かですが後(養老6〜7年頃)に成立した『常陸国風土記』であるにもかかわらず、記紀の表記とは異なる倭武天皇としていることから、 『常陸国風土記』編者は記紀以外の伝承記録に基づいたと考えざるを得ません。
 そうであれば、『宋書』倭国伝に見える倭王武(倭武=国名に基づく姓+中国風一字名称)の伝承記録、すなわち九州王朝系記録に倭武天皇とあり、それに基づいて『常陸国風土記』で倭武天皇として記録されたのではないでしょうか。
 更に言えば、当時の九州王朝の国王は「天皇」を自称していた可能性もありそうです。この時代、九州王朝は中国南朝の冊封体制に入っていましたから、「天子」を自称していたはずはありませんが、「天皇」であれば中国南朝の天子の下位であり、問題ないと思われます。とすれば、『日本書紀』継体紀25年条に見える「日本の天皇及び太子・皇子」の百済本紀の記事も、このことに対応していることになります。
 倭武天皇の活躍と『宋書』倭国伝に記された倭王武の軍功の対応も、倭武天皇=九州王朝倭王武説を支持するように思われます。従って、各地に残るヤマトタケル伝承をこうした視点から再検証する必要を感じています。たとえば、「阿波国風土記逸文」に見える「倭建天皇命」記事や、徳島県には倭武神社もあるようで、興味が尽きません。
 なお、『常陸国風土記』の倭武天皇は倭王武ではないとする見解(西村秀己さん)もあり、慎重に検討したいと思います。


第301話 2011/01/23

讃岐の白鳥神社訪問

 先日、東かがわ市の白鳥神社(しろとり神社)を訪問しました。以前から気になっていた神社で、一度訪れたいと思っていました。もちろん御祭神は日本武尊で、白鳥伝説に基づいた縁起を有していました。しかし、人間が死後白鳥になって飛んできたはずはありませんから、何か別の理由でこの神社が創建されたはずです。このことを確かめたかったのです。
『常陸国風土記』に見える倭武天皇は九州王朝の倭王武の伝承ではないかと古田先生は指摘されていますが、この白鳥神社の日本武尊伝承も、もともとは倭王武の伝承ではなかったのかとも考えています。
 例えば、ここの白鳥神社には日本武尊の他に、その正妃の両道入姫命(ふたじのいりひめ)と妃の橘姫命が御祭神として祀られています。猪熊兼年宮司からおうかがいしたところ、両道入姫命が祀られている神社は全国でも珍しいそうです。また、橘姫命は通常「弟橘姫」とされていますが、ここでは「弟」が付かない 「橘姫」命とのことでした。
 『常陸国風土記』の倭武天皇記事でも、橘皇后あるいは大橘比売命と記されていますから、倭王武の妃は橘姫だった可能性があり、この白鳥神社の伝承でも橘姫命とされていることは、『常陸国風土記』と同様に、日本武尊ではなく九州王朝の倭王武の伝承に基づいているのではないかと推察していますが、いかがで しょうか。
 白鳥神社を訪問した日は大変寒かったのですが、猪熊宮司さんからは長時間にわたり親切に御説明いただき、感謝しています。氏は大学で日本思想史を研究されたとかで、村岡典嗣先生のお名前もよくご存じで、話しが弾みました。