観世音寺古図の五重塔「二重基壇」
5月25日に開催された東京古田会の講演会で、大越邦生さんが「よみがえる創建観世音寺」というテーマで、いくつかの重要な仮説を発表されました。その中でわたしが最も注目したのが、観世音寺の五重塔にはⅠ期とⅡ期の二つがあり、発掘調査で発見された礎石はⅠ期の上に再建されたⅡ期のものであり、Ⅰ期は更に大きな規模であったとされました。
これは基壇の一辺が15mもあるのに、建物は一辺6mであり、両者のバランスがとれていないという構造上の問題点を根拠とした仮説で、考古学的出土事実に基づいた合理的な推定と思われました。他方、観世音寺の五重塔が再建されたとする史料はなく、発掘調査からも礎石などに再建の痕跡は発見されていません。すなわち、大越さんが提起された仮説を積極的に実証できる史料や出土遺構が見あたらないという問題がありました。
ところがこの問題を解決できるかもしれない発見を山田春廣さん(古田史学の会・会員)が同氏のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)で発表されました。山田さんは、有名な「観世音寺古図」に描かれた五重塔を拡大して見ると、塔の基壇が「二重基壇」として描かれていると指摘されたのです。
わたしもこの「観世音寺古図」を幾度となく凝視し、論文でも取り上げた経験があるのですが、この塔の「二重基壇」には気づきませんでした。正確に言えば、気づいていてもその持つ意味を理解していなかったのです。ところが、基壇と建物の規模のアンバランスという大越さんの指摘を講演会で詳しく知ることになり、「二重基壇」の持つ意味に気づいたのでした。
塔の基壇が二重であれば、下部の一辺15.0mの基壇の上に一回り小さな基壇があり、塔の建物はその上部の小さな基壇の上に建てられたことになり、面積規模のアンバランスは発生しません。従って、大越さんが指摘された疑問はこの「二重基壇」構造により説明可能となるのです。そうであれば、出土事実や文献との整合性も問題ありません。
そこで、近年の観世音寺研究の成果をまとめた九州歴史資料館発行の『観世音寺 考察編』を読み直してみると、なんとこの「二重基壇」の可能性について記されていました。
「(前略)基壇外縁から建物までの距離が4.5mと想定されることから基壇一辺の長さが15.0mという数値は、一重基壇にしては大きすぎるきらいがあり、二重基壇であった可能性を指摘しておきたい。」(小田和利「観世音寺の伽藍と創建年代について」1頁。『観世音寺 考察編』九州歴史資料館編。2007年)
小田さんのこの論文は何度も読んでいたのですが、「二重基壇」の可能性に触れたこの記事の持つ意味に気づいていませんでした。ですから、大越説との出会いにより、多くの知見を得るとともに認識を深めることができたのです。大越さん、山田さんに感謝したいと思います。
古代寺院における「二重基壇」は、現存するものでは法隆寺の五重塔・金堂に採用されています。従って、九州王朝は法隆寺や観世音寺に「二重基壇」を採用したことになるのですが、「観世音寺古図」の金堂も塔ほど明確ではありませんが、「二重基壇」として描かれているように見えます。この点、引き続き調査したいと思います。
なお本稿の当否にかかわらず、大越説は仮説として成立(基壇と建物の規模の不対応を説明できる)しており、今後の研究の進展(新史料や考古学的新知見の発見など)によっては最有力説となる可能性も有していることを付言しておきます。