第1761話 2018/09/29

7世紀の編年基準と方法(9)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)の政庁Ⅱ期・観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されたという新説の根拠は、主に政庁の南北中心軸が条坊(朱雀大路)中心軸とずれていることを正確な測量により明らかにされ、一辺約90mの条坊とその北側部分の政庁・観世音寺の造営尺が異なっていることの発見でした。両者の厳密な比較により、井上さんは政庁Ⅱ期・観世音寺などの北側エリアよりも南に拡がる条坊が先行したとされたのです。
 この井上新説のおかげで、わたしの仮説(太宰府政庁・条坊都市7世紀初頭造営説)の修正が可能となり、不完全な仮説をより安定な仮説へと変更することができました。すなわち、太宰府の編年を次のように改めたのです。

①太宰府条坊都市(倭京)の成立は7世紀初頭。九州王朝の天子・多利思北孤による。倭京元年(618)に筑後から太宰府に遷都。
②白鳳10年(670)に観世音寺が創建される(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』による)。白村江戦の戦没者を弔うためか。
③その同時期に、九州王朝(倭国)は唐に倣って太宰府を北闕型の王都とするため、条坊都市の北側に政庁Ⅱ期の宮殿とそこから南に延びる朱雀大路を造営した。唐から帰国した九州王朝の天子・薩野馬の王宮か。
④政庁Ⅱ期と観世音寺の創建は同時期と推定されるが(共に同時期の老司式瓦を使用)、厳密な先後関係は今のところ不詳。政庁Ⅱ期の創建を記す史料がなく、判断が困難なため。

 以上の編年修正により、当初の編年が持っていた難点のうち、政庁Ⅱ期と観世音寺の創建年のずれの問題が解決できました。しかし、土器編年との不一致という問題は依然として存在しています。
 この自説修正についても当時の「洛中洛外日記」に記していますので、転載します。(つづく)

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第219話 2009/08/09
観世音寺創建瓦「老司1式」の論理

 太宰府条坊と政庁・観世音寺の中心軸はずれており、政庁や観世音寺よりも条坊が先行して構築されたという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究を知るまで、わたしは条坊都市太宰府は政庁(九州王朝天子の宮殿)を中心軸として7世紀初頭(九州年号の倭京年間618〜623)に成立したと考えていました。すなわち、条坊と政庁は同時期の建設と見ていたのでした。
 しかし、この仮説には避けがたい難題がありました。それは観世音寺の創建時期との整合性です。観世音寺は、『二中歴』年代歴に白鳳年間(661〜683)とする記述「観世音寺を東院が造る」があること、更に創建瓦の老司1式が藤原宮のものよりも古く、むしろ川原寺と同時期とする考古学的編年から、その創建時期を7世紀中頃としていました。その結果、条坊都市太宰府ができてから、観世音寺が創建されるまで20〜40年の差があり、その間、政庁の東にある観世音寺の寺域が「更地」だったこととなり、ありえないことではないかもしれませんが、何とも気持ちの悪い問題点としてわたしの脳裏に残っていたのです。
 ところが、井上氏の研究のように、条坊が先で政庁と観世音寺が後なら、この問題は生じません。およそ次のような順序で太宰府は成立したことになるからです。
 通古賀地区の宮域を中心とした条坊都市が7世紀初頭に成立。次いで7世紀中頃に条坊の北東部に観世音寺が創建され、その後に政庁(第Ⅱ期)が完成。
 もちろん、これはまだ検討途中の仮説ですが、この場合、条坊の右郭中央部にあった宮域が、後に北部中心部に新設されたことになり、「天子は南面」するという思想に基づいて、宮域の新設移動が行われたのではないでしょうか。
 このように、井上氏の研究は、九州王朝の首都太宰府の建都と変遷を考察する上で大変有益なものなのですが、大和朝廷一元史観側にすると、とんでもない大問題が発生します。それは、藤原宮に先行するとされる老司1式の創建瓦を持つ観世音寺よりも太宰府条坊は古いということになり、日本最初の条坊都市は通説の藤原京ではなく太宰府ということに論理的必然的になってしまうからです。
 九州王朝説からすれば、これは当然の帰結ですが、九州王朝を認めたくない一元史観(日本古代史学界・考古学界)からすれば、とんでもない話しなのです。大和朝廷のお膝元の藤原京よりも早く、九州太宰府に条坊都市ができたことになるのですから。
 このように通説にとって致命的な「毒」を含んでいる井上氏の研究が、これから一元史観の学界の中でどのように遇されるのか興味津々といったところです。(つづく)

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