第952話 2015/05/15

城塞都市「鞠智城」の性格

わたしは今回のシリーズで鞠智城のことを「城塞都市」と表現してきましたが、それは次の理由からでした。

1.神籠石山城や大野城・基肄城などの九州王朝の山城と比較して、比較的「低地」にあり、防衛力が他と比較して高くない。
2.たとえば周囲を土塁で囲むだけで、神籠石山城のような急峻な山腹に列石と土塁があるわけではない。
3.内部に六角堂跡(鼓楼と見なされている)が2対4基出土しており、このような施設は他の山城には見られない。
4.更に六角堂を含め邸閣や兵舎などの遺構も多数(計72棟)が発見されており、大人数が「常駐」していたことが考えられ、「逃げ城」とは性格を異にしている。
5.山城として近隣に守るべき古代都市が見あたらない。

おおよそ以上の理由から、鞠智城はいわゆる「山城」ではなく、内陸部の「城塞都市」という表現の方が適切と判断したのです。また、六角堂が本当に鼓楼であれば、同施設は朝夕の時刻を太鼓や鐘を打ち鳴らして知らせるというものですから、大人数が生活する「都市」にこそ、ふさわしいと言えるでしょう。それではなぜ九州王朝はこの地に鞠智城を造営したのでしょうか。(つづく)

※鞠智城の概要については、竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)による関西例会での報告と『多元』No.119(多元的古代研究会、2014.07)掲載の鈴木浩さんの「古代山城・鞠智城の謎」を参考にさせていただきました。

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