第635話 2013/12/18

「系図」の史料批判の難しさ

 先日、久しぶりに岡崎の平安神宮そばにある京都府立図書館に行ってきました。そして『古代に真実を求めて』16集を寄贈しました。寒い日でしたが、岡崎公園は観光客や各種イベント参加者で溢れていました。
 今回、図書館に行った目的は、『兵庫県史』に掲載されている「粟鹿大神元記」と『田中卓著作集』に掲載されている評制に関する論文のコピーでした。
 今月、発行された『古田史学会報』119号に拙稿「文字史料による「評」論 — 「評制」の施行時期について」が掲載されましたが、その要旨は評制開始は7世紀中頃とするものでした。ところが、その結論に対して何人かの読者の方から、7世紀中頃よりも早い時代の「評」が記された「系図」があり、評制施行を7世紀中頃とするのは問題ではないかとするご意見が寄せられました。そのために関連論文のコピーをしに図書館に行ったのでした。拙論へのご批判や問題点の指摘はありがたいことで、学問の進歩をもたらします。
 わたしは7世紀中頃より以前の「評」が記された「系図」の存在は知っていたのですが、とても「評制」開始の時期を特定できるような史料とは考えにくく、 少なくともそれら「系図」を史料根拠に評制の時期を論じるのは学問的に危険と判断していました。「系図」はその史料性格から、後世にわたり代々書き継がれ、書写されますので、誤写・誤伝以外にも、書き継ぎにあたり、その時点の認識で書き改めたり、書き加えたりされる可能性を多分に含んでいます。そのため、「系図」を史料根拠に使う際の史料批判がとても難しいのです。各「系図」の史料批判や問題点については別途説明したいと思いますが、わかりやすい例で説明するならば、次のようにとらえていただければよいかと思います。
 『日本書紀』には700年以前から「郡」表記がありますが、それを根拠に「郡制」が7世紀以前から施行されていたという論者は現在ではいません。また、 初代の神武天皇からずっと「天皇」と表記されているからという理由で、「天皇」号は弥生時代から近畿天皇家で使用されていたという論者もまたいません。 『日本書紀』を根拠にそうした断定ができないことはご理解いただけることと思います。
 これと同様に、ある「系図」の7世紀中頃より以前の人物に「○○評督」や「××評」という注記があるという理由だけで、その時代から「評督」や行政単位 の「評」が実在したとするのは、あまりに危険なのです。少なくとも、それら「系図」のどの部分がどの程度歴史の真実を反映しているかを確認する「史料批判」が不可欠です。「史料批判」をしなかったり、不確実であれば、文献史学という学問にとってそれは致命的ともいえる「方法」と言わざるを得ません。もち ろんこれは一般的な学問の方法に関することであり、各「系図」が史料批判に耐え得るような史料であるかどうかは、個別に検証しなければなりません。それら の「系図」を史料根拠として、「評制」施行時期について新たな仮説を提起したり、論じるのは自由ですが、その場合は誰もが納得できるような「史料批判」が必要なのです。機会があれば、「系図」の史料批判の方法について述べてみたいと思います。

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