四天王寺の丙子椒林剣
第377話で日本刀と九州年号について紹介しましたが、古代における「日本刀」で最も著名なものの一つが、四天王寺に伝来した聖徳太子のものとされる「丙子椒林剣」(へいししょうりんけん・国 宝)です。この丙子椒林剣は以前から気になっていたのですが、前期難波宮九州王朝副都説や難波天王寺九州王朝建造説の提起により、丙子椒林剣も九州王朝のものではなかったのかという疑いを、近年強く感じています。
丙子椒林剣に刻まれた「丙子椒林」という文字については、「丙子」の年に「椒林」という人物により作刀されたとする説が有力なようですが、わたしもその理解が最も穏当なものと思っています。
聖徳太子の時代よりも後代のものですが、『養老律令』の「営繕令」には、「凡そ軍器を営造せば、皆様(ためし)に依るべし。年月及び工匠の姓名鐫(ゑ) り題(しる)さしめよ。」とする記述があり、刀などの「軍器」に製造年月と作者名を記すことが決められています。この律令がそれまでの倭国・九州王朝の伝統の影響を受けていると考えれば、丙子椒林剣の「丙子」と「椒林」を製造年干支と作刀者と見る説は有力だと思われるのです。
聖徳太子の頃の丙子の年は616年ですが、倭国・九州王朝の天子多利思北弧の時代です。 「丙子椒林」の文字は金象眼とのことですので、いわゆる一般兵士の実戦用武器というよりは、権力者に捧げられた宝刀ともいうべきものでしょう。とすれば、多利思北弧か太子の利歌彌多弗利に捧げられた可能性もありそうです。そうであれば、「聖徳太子の刀」として四天王寺に伝来所蔵されたのもうなずけます。
もちろん、これらのことを証明するためには、鉄や金の科学分析などが必要ですが、大和の聖徳太子のもとのされて伝わっている物や伝承は、本来は九州王朝の多利思北弧・利歌彌多弗利のものではなかったかと、まず疑ってかかることから始める必要があると思います。そこから、真実の「聖徳太子」とその歴史が明らかになるはずです。古田史学・多元的歴史観はすでにその研究段階に進んでいるのですから。