第1855話 2019/03/10

「実証主義」から「論理実証主義」へ(5)

 加藤健さんの〝実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠〟という感想や、茂山憲史さんの〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証される〟という学問の方法について、古田先生が扱われた具体的事例で説明します。
 名著『失われた九州王朝』において、古田先生は『旧唐書』倭国伝・日本国伝について一節(第四章Ⅱ 二つの王朝)を設けられ、倭国が九州王朝、日本国が大和朝廷であることを論証されています。古田学派の論者の中には、この倭国伝と日本国伝併記を史料根拠として、多元史観・九州王朝が実証されたとする理解があります。この理解は必ずしも誤りではありませんが、同書を読んでわかるように、古田先生は両伝の史料批判と論証を繰り返されています。特に倭国伝に記された倭国が大和朝廷ではないことを、『日本書紀』との対比により徹底して行われています。それが〝倭国伝・日本国伝併記を史料根拠として多元史観・九州王朝説を実証できた〟とするような単純な学問の方法ではないことは明らかです。
 それではなぜ古田先生はこれほど論証を重ねられたのでしょうか。それは一元史観による通説への反証のためです。通説では『旧唐書』の倭国伝・日本国伝併記を『旧唐書』編者の誤りとし、倭国も日本国も大和朝廷のことであり、同一王朝による倭国から日本国への国名変更が、別国のことと間違って併記されたと見なしています。もちろん、通説も史料根拠と論証により学問的仮説として成立しています。およそ次のようなものです。箇条書きにします。

①国内史料(記紀、風土記、他)によれば、倭国も日本国も大和朝廷であり、史料根拠が確かである。別国とする国内史料はない。
②7世紀末頃の藤原宮出土木簡に「倭国添布評」とあり、当地が倭国と称されていたことが実証されている。
③『大宝律令』などにより大和朝廷は遅くとも8世紀初頭には日本国を名乗っており、大和朝廷が倭国から日本国へと国名変更していたことは明確である。
④中国史書(正史)の夷蛮伝には地名や人名などの間違いが散見されており、『旧唐書』も同様に倭国と日本国を別国と誤ったと考えても問題ない。
⑤『新唐書』では日本国伝のみに訂正されており、中国でも『旧唐書』の二国併記が誤りであったと認識されていた。

 一元史観論者との論争(他流試合)の経験がない古田学派の方は、こうした通説成立の根拠や論理構造をご存じないことが多いようです。他方、古田先生は通説とその根拠や論理を明確に認識されていたからこそ、『旧唐書』の倭国が大和朝廷ではないことを徹底的に論証されたのです。こうした古田先生の学問の方法こそ、加藤さんや茂山さんが指摘された方法、すなわち〝実証を実証たらしめるための精緻な論証〟であり、〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度を保証〟したものなのです。この古田先生の学問の方法と、それを表した村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」の持つ意味を古田学派の皆さんには正しく理解していただきたいのです。(つづく)

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