『三国志』のフィロロギー
「質直の人、陳寿」
『三国志』のフィロロギーと題して、短里説とその学問の方法についての連載も今回が最終回となります。文献史学の学問の基本的方法として史料批判の大切さ、すなわち『三国志』が誰により誰のために何の目的で編纂されたのかという史料性格の検証の重要性を繰り返し説明してきました。さらに著者である陳寿の認識や編纂方針について、フィロロギーの方法論に基づいて分析してきました。そこで今回は陳寿その人について解説したいと思います。
『晋書』陳寿伝には陳寿の人となりを次のように高く評価した上表文が記されています。
「もとの侍御史であった陳寿は、三国志を著作しました。その言葉(辞)には、後代へのいましめになるものが多く、わたしたちが何によって得、何によって失うか、それを明らかにしています。人々に有益な感化を与える史書です。
文章の持つ、つややかさでは司馬相如には劣りますが、『質直』つまり、その文書がズバリ、誰にも気がねせず真実をあらわす、その一点においては、あの司馬相如以上です。
そこで漢の武帝の先例にならい、彼の家に埋もれている三国志を天子の認定による『正史』に加えられますように。」(古田武彦『邪馬一国への道標』128頁、講談社、1978年)
この上表文を天子が受け入れ、既に没していた陳寿の遺書ともいえる『三国志』が正史として世に出たのです。
この上表文で陳寿のことを「質直」と評していますが、「質直」とは、飾り気なく、ストレートに事実をのべて他にはばかることがない、という意味で、出典は『論語』です。
「達とは質直にして義を好み、言を察し、色を観(み)、慮(おもんばか)りて以て人に下るなり。」『論語』願淵篇
古田先生はこの文を次のように訳されています。
「あくまで真実をストレートにのべて虚飾を排し、正義を好む。そして人々の表面の『言葉』や表面の『現象』(色)の中から、深い内面の真実をくみとる。そして深い思慮をもち、高位を求めず、他に対してへりくだっている。」
わたしたち古田学派の研究者は、陳寿がそうであったように「質直」であらねばなりません。このことを最後に述べて、本シリーズの結びとします。