『三国志』
「天柱山高峻二十余里」の論点 (3)
―「天柱山」の標高は何メートルか―
『三国志』の「天柱山高峻二十余里」〔魏志張遼伝〕について、古田説を次のように説明しました(注①)。
○天柱山高峻二十余里。〔魏志張遼伝〕
天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。
このことを「古田武彦記念古代史セミナー」実行委員会で紹介したところ、天柱山の標高は1860mではなく、1499mではないかとの指摘がありましたので、「現代中国には各地に天柱山があり、『三国志』に見える「天柱山」は古田説の場所でよい」と返答しました。この1499mという数字を聞き、やはり勘違いされているのだなと思いました。
と言うのも、わたしは古田説の紹介に当たり、事前に天柱山について調べていたからです。たしかにインターネットで「天柱山」を検索すると、標高約1449mの安徽省安慶市・潜山市の天柱山が真っ先にヒットするからです。わたしも、古田説の1860mとは異なることを不審に思い調べたところ、同じ安徽省内ですが古田説の天柱山とは場所が異なっていたのです。しかも、そのWEB(『Baidu百科』「天柱山」)では次のように解説されているのです。
〝前漢元封五年(前106年)、漢武帝劉徹が南巡狩を行い、浔陽(九江市)から揚子江を下り、盛唐(現在の安慶市盛唐湾)を経て皖口(現在の懐寧県山口鎮)に入り、川を遡上した。法駕谷口(現在の天柱山野人寨)に登り、礼天柱に至り、「南岳」と称された。隋文帝が江南の衡山を南岳と改称するまでの700年間、南岳と呼ばれるのは天柱山である。南岳の称号が江南に移った後、天柱山を人々は「古南岳」と呼んだ。〟(『Baidu百科』「天柱山」 ※翻訳ソフトの翻訳結果を修正した。以前と比べて最近の翻訳ソフトはかなり精度が向上しているが、そのままでは採用に堪えない。)
この安徽省安慶市・潜山市の天柱山の標高は、1980年の測定で1488.4m、2008年には1489.8mとあり、この説明を読めばこれを『三国志』の「天柱山」のことと間違ってしまうのも無理からぬことと思います。他方、古田先生は「世界大地図」(小学館『大日本百科辞典』別巻)や「『中華人民共和国地図』1971年、北京」によって、天柱山の標高を海抜1860mと著書(注②)に記されています。1971年作成の地図と現在の地図とに400m近くの測定差が発生するはずもなく、史料調査に慎重な先生が地図を見誤られたとも考えにくいのです。このときわたしは〝何かがおかしい。このWEB情報を信用するのは危ない〟と直感的に思い、天柱山の位置を文献と現在の地図とで精査・探索しました。(つづく)
(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3429話(2025/02/13)〝『三国志』短里説の衝撃 (4) ―『三国志』の中の短里―〟
②古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。ミネルヴァ書房より復刻。「世界大地図」(小学館『大日本百科辞典』別巻)とある。
古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、1980年。ミネルヴァ書房より復刻。「『中華人民共和国地図』1971年、北京」とある。
【写真】安徽省安慶市・潜山市の天柱山