「天柱山高峻二十余里」の論点 (4)
―安徽省にある二つの「天柱山」―
『三国志』(魏志張遼伝)に見える「天柱山高峻二十余里」の標高の違いに着目し、まず、古田先生の著書に記された天柱山(1860m)について再確認しました。そこには次の説明がありました(注)。
〝(二) つぎに「十里代」でありながら、例外的に「明晰な実距離」を指定しうる例として、つぎの文がある。
成(梅成)遂将其衆就蘭(陳蘭)、転入潜山。潜中有天柱山、高峻二十余里。道険狭、歩径裁通、蘭等壁其上。(魏志第十七、張遼伝)
太祖の命をうけて、長社(河南省長葛県の西)に屯していた張遼が、天柱山にこもった叛徒、陳蘭・梅成の軍を討伐し、これを滅ぼした、という記事の一節である。その天柱山の高さが「二十余里」だというのである。この山の実名は「霍山」(一名、衡山)であり、安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰である。〟『邪馬壹国の論理』
このように指摘し、『史記』の記事を提示して次のように論じます。
〝其明年(元封五年)冬、上巡南郡、至江陵而東。登礼潜之天柱山、号曰南嶽。
応劭曰「潜県属盧江。南嶽、霍山也。」
文頴曰「天柱山在潜県南。有祠。」 (『史記』第十二、孝武本紀)
この「霍山」は高さ一八六〇メートル(海抜)だ【注18】。これに対し、「二十余里」とは、メートルに直すとつぎのようだ。
短里(一里=七五〜九〇メートル)
二三〜二四里=一七二五〜二一六〇メートル
長里(一里=四三五メートル……山尾氏)
二三〜二四里=一〇〇〇五〜一〇四四〇メートル
つまり、霍山の実高は、魏晋朝の短里によると、ピッタリ一致している。ところが長里によるときは、エベレスト(八八四八メートル)を超える超高山となる。実際は霍山は群馬県の赤城山(黒桧山、一八二八メートル)と谷川岳(一九六三メートル)の間くらいの山なのである。その上、つぎの四点の条件が重要だ。
(1) その場所は、いわゆる“夷域辺境”ではなく、黄河と揚子江の中間、南京と洞庭湖の中点、という、まさに多くの中国人にとってもっとも明瞭な認識に属する位置に当たっている。
(2) その山の東方(安徽省)、西方(湖北省)とも、平野部であり、その間に屹立し、万人の注目をうけてきた著名な山である。
(3) 『史記』に武帝の巡行記事があるように歴史的にも著名な名山である。
(4) 「十里」「百里」などと異なり、「二十余里」というのは“成語”や“誇張的な概数”ではない。
すなわち、万人が日常見ている周知の山に対し、“異常な誇張”をもって表現すべきいわれは全くない。〟『邪馬壹国の論理』
そして【注18】には「世界大地図(小学館『大日本百科辞典』別巻)大別山脈」とあり、「天柱山」は次の条件がそろっている山のこととなります。
❶「霍山」「衡山」「南嶽」の別名を持つ。
❷安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰。
❸黄河と揚子江の中間、南京と洞庭湖の中点にある。
❹武帝の巡行記事があるように歴史的にも著名な名山である。
❺大別山脈の最高峰である。
以上の条件を持つ山があります。安徽省六安市霍山県の「霍山(かくざん)」です。古田先生の著書『邪馬壹国の論理』に掲載された地図にも、安徽省の西側の大別山脈中に「△霍山」と記されており、この山が『三国志』の「天柱山」とされているのです。(つづく)
(注)古田武彦「魏晋(西晋)朝短里の史料批判 山尾幸久氏の反論に答える」『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。ミネルヴァ書房より復刻。