多元史観で見える蝦夷国の真実 (10)
―「蝦夷国」深奥の謎、和訓「エミシ」―
古田先生の見解によれば、「蝦夷国」の造字は中国側によるもので、〝「倭国」は、中国にとって「東夷」であった。その「東夷の、さらに、はるかなる彼方の夷」、それをしめすのが、「蝦夷」という字面の意義なのである。(「叚」は〝はるか〟の意。「虫へん」は、〝夷蛮用の付加〟。)〟として、蝦夷の音はカイとされました(注)。
他方、わが国の古代史学では蝦夷をエミシと訓むのが常でした(後にエゾと訓む史料が現れる)。しかし、なぜ、わが国では蝦夷をエミシと訓むのか、ここに蝦夷国研究における深奥の謎があると、わたしは捉えています。
そもそもエミシという名称の初出は『日本書紀』神武紀です。古田先生は次のように紹介します。
**敬称として使われた「えみし」**
では、「えみし」とは。これが、新しい課題だ。『日本書紀』の神武紀に、有名な一節がある。
愛瀰詩烏、毗儴利、毛々那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毗毛勢儒。
〔えみしを、ひだり、ももなひと、ひとはいへども、たむかひもせず〕
(「ひだり」は〝ひとり〟。「ももなひと」は〝百(もも)な人〟。『岩波古典文学大系』による。二〇五頁)
この「愛瀰詩」は、神武の軍の相手側、大和盆地の現地人を指しているようである。岩波本では、これに、
「夷(えみし)を」
という〝文字〟を当てているけれど、これは危険だ。なぜなら「夷」は、例の〝天子中心の夷蛮呼称〟の文字だ。このさいの〝神武たち〟は、外来のインベーダー(侵入者)だ。「天子」はもちろん、「天皇」でもなかった(「神武天皇」は、後代〈八世紀末~九世紀〉に付加された称号)。
第一、肝心の『日本書紀』自身、「夷」などという〝差別文字〟を当てていない。「愛瀰詩」という、まことに麗しい文字が用いられている。これは、決して〝軽蔑語〟ではないのだ。それどころか、「佳字」だ、といっていい(「瀰」は〝水の盛なさま〟)。彼等は〝尊敬〟されているのだ。〔『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版 293~294頁〕
古田先生はこのように述べ、〝「蝦夷」の語は、字面では、差別字。発音では、佳語〟としました。わたしはこの先生の見解に賛成です。
そして、神武紀の「愛瀰詩」を大和盆地の現地人、すなわち近畿の先住者(銅鐸圏の住民)と見なし、〝日本列島の関東及び西日本の人々、つまり一般庶民は、この東北地方周辺の人々を「えみし」と呼び、敬意を隠さなかった。〟としました。
このことから、神武に追われた「愛瀰詩」を東北の人々、すなわち、中国から蝦夷国と称された人々と同類、あるいは有縁の人々と理解されたようです。
中国史書に見える「倭国」を〝九州王朝〟と称したように、この蝦夷国を〝東北王朝〟と先生は名づけました。この認識こそ、古田史学・多元史観の面目躍如です。(つづく)
(注)古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。