第3566話 2025/12/28

新野直吉氏の「蝦夷」観

 古田先生の多元史観により、蝦夷国を国家とする視点での考察〝多元史観で見える蝦夷国の真実〟を「洛中洛外日記」で(補遺)も含めて計15回連載しました。これだけの長期連載は久しぶりです。同連載を始めるにあたり、蝦夷国に対する通説も調べました。その中の一つ、新野直吉さん(秋田大学名誉教授)が日本思想史学会誌『日本思想史学』第30号(1998)で発表した「古代における『東北』像――その虚像と実像――」を紹介します。同論稿は岩手大学で開催された同学会〝[平成九年度大会]特集・歴史としての「東北」〟の特集論文の一つです。

 新野先生のお名前は、『東日流外三郡誌』を紹介した学者の一人として、度々目にした著名な古代東北史の研究者でした。拙著『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店、2025年)を進呈するつもりでしたが、昨年一月、鬼籍に入られ(98歳)、その願いは叶いませんでした。
「古代における『東北』像――その虚像と実像――」には次のような新野さんの蝦夷観が記されています。抜粋します。

 たしかに八世紀後半(天平宝字六・七六二)の〝多賀城碑〟にはこの蝦夷国を意識したと言うべき「蝦夷国界」の語がある。(中略)
しかし、この表記を、日本律令制度のもとで、「蝦夷国」なる公式組織があったことを示すものと取るならば、虚像を見ることになる。行政組織があったことを意味しないのみならず、仮に「蝦夷」の地域があったとしても、その表記は、東北全部が蝦夷の住む領域であったわけではないことを、現地行政機関も明確に認識していた事実を記している。(中略)

 とはいっても境界の北に独立国があったということではない。令の条文に「凡そ辺縁の国、夷人雑類有り」(賦役令)などと記入される存在に相当する蝦夷の地方圏であると理解すべきである。そして、「蝦夷」は和銅三年紀に「天皇大極殿に御し朝を受く。隼人蝦夷等も亦列に在り」とあるごとく、隼人とならぶ位置づけであり、食糧獲得手段や言語文化などに差異はあったとしても、法規上蕃人・蕃客(外国人)ではなかったのである。日本の中の北方の一部族であるという位置づけが実像である。

 以上のように、東北の碩学新野直吉さんも、失礼ながら近畿天皇家一元史観の〝宿痾〟に冒されていたと言わざるを得ません。『続日本紀』和銅三年(710)条に「蝦夷」と並んで記された「隼人」が、701年の王朝交代後の南九州における九州王朝(倭国)系の抵抗勢力であったことなど、国家としての蝦夷国と同様、氏の視界には全く存在しないのです。

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