第1572話 2018/01/12

評制施行時期、古田先生の認識(8)

 既に何度か説明してきたところですが、『日本書紀』には例外のような「評」の記事があります。継体二四年(五三〇)条の次の記事です。

 「毛野臣、百済の兵の来るを聞き、背評に迎へ討つ。背評は地名。亦、能備己富利と名づく。」『日本書紀』継体紀二四年条

 任那に「背評」という朝鮮半島におかれていた「行政組織」が「地名化(地名として遺存)」しており、その地を倭国は「能備己富利」と名付けたという記事です。この記事について古田先生は『古代は輝いていた3』(朝日新聞社刊、三三六頁)において、次のような説明をされています。

 「右は『任那の久斯牟羅』における事件だ。すなわち、倭の五王の後継者、磐井が支配していた任那には、『評』という行政単位が存在し、地名化していたのである。」

 古田先生がどのような定義により「行政単位」と表記されたのかはわかりませんが、これまで説明しましたように、朝鮮半島には「評」という行政組織名(官庁など)があったことから、それらの一つとして「背評」という組織名が、いつの頃からかは不明ですが存在しており、磐井の時代には「地名化」していたと説明されています。ですから「背評」はもともとは地名ではなかったと古田先生は認識されていることになります。この説明は、本連載で紹介してきた古田先生の認識と異なるところはありません。
 この記事は朝鮮半島における行政組織を考える上でも興味深いものですが、残念ながら当時の任那の「行政区画」が「国・県」制だったのか「国・郡」制だったのか、あるいは七世紀中頃に倭国内で施行された「国・評・里(五十戸)」制(評制)だったのかは不明です。
 古田先生の認識を紹介するという本稿の趣旨とは少々離れますが、この『日本書紀』の「背評」記事について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から面白いご指摘がありましたので、紹介します。
 西村さんによれば、「背評は地名」という記事部分は『日本書紀』編纂時に書かれたものではなく、原史料に記されていたものではないかというものです。なぜなら、『日本書紀』編纂時(720年頃)であれば、九州王朝による評制の存在がまだ記憶されていた時期で、「背評」とあればまずは評制による地名と理解するはず。そうであれば「背評は地名」などと『日本書紀』編者はわざわざ書かないというのです。
 この西村さんのご意見はなるほどと思われましたので、わたしも深く考えてみました。そして次のような理解に達しました。

①この記事の原史料は九州王朝によるものである。
②その史料に任那における毛野臣の交戦記事が記されていた。
③「背評」での交戦記事(九州王朝への軍事報告書か)を記すとき、「背評」が朝鮮半島内の行政組織名と勘違いされないように、「地名である」とわざわざ付記した。
④その後、九州王朝は「背評」の地を「能備己富利」と名付けた。
⑤従って、「能備己富利」は九州王朝(倭国)による倭国風地名である。訓みは「ノビコフリ」あるいは「ノビコホリ」か。(『隋書』に記された倭国の王子、利歌彌多弗利(リカミタフリ)とちょっと似ています)
⑥以上の変遷を経て、『日本書紀』編者は「背評」を九州王朝(倭国)の評制の「評」とは考えず、そのため「背郡」と書き換えることなく、そのまま「背評」として『日本書紀』に採用した。この史料事実は、「背評」が九州王朝の評制地名ではないことの根拠でもある。

 以上のように考えましたが、いかがでしょうか。(つづく)

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