第2563話 2021/09/11

古田先生との「大化改新」研究の思い出(8)

 二年間にわたって続けられた「大化改新」共同研究の結果、「大化改新」の実像について、晩年の古田先生の見解が『古田武彦の古代史百問百答』では次のように述べられています(注①)。

〝質問 先生は改新の詔が九州王朝で出された詔を盗用したものだとおっしゃっていますが、その根拠を教えて下さい。
 回答 大化年間に行われた十六回の詔の第一回目は「(大化元年)八月丙申の朔庚子に東国等の国司を拝して」行われており、(中略)東国に対する詔はあっても他の西国、南国、北国という表現はありません。東国に突出した表記になっていると言えます。第五回目の改新の詔には「畿内」の定義が記されています。「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内とす。」この畿内国を原点として「東国」を指すとすれば、当然「西国」も必要です。中国や四国や九州が西国に当たります。しかし、それは出てきません。なぜ西国が出てこないのでしょうか。この畿内国の定義のすぐ後に「凡そ畿内より始めて、四方の国に及(いた)るまで」の文面があります。ここには「東国=四方の国」という概念が示されています。なぜでしょうか。その答えは一つです。「これらの詔勅の“原文面”における原点は九州である」からです。九州を原点とすれば、この「東国」が「四方の国」になることに何の問題もありません。〟146頁

 この質疑応答では、古田先生は「大化改新詔」は九州王朝(倭国)が出したもので、“原文面”は九州を原点としたものとされています。従って、「大化改新詔」は九州王朝が太宰府で発したと理解されていると思われます。

〝質問 孝徳紀には改新の詔以外にも数多くの詔勅が記載されていますが、乙巳の変の直後にこのように多くの制度が発表になることは不自然ではないでしょうか。
 回答 孝徳紀の大化時代(六四五~六四九年)には詔勅が十六回も集中して出てきています。これは『日本書紀』を編纂する時の方針の一つです。安閑紀にも「屯倉」記事がぎっしり詰め込まれています。(中略)『日本書紀』の編者はそのように分かりやすく構成することによって、記載されている内容が八世紀現在の政治に有効に反映するように意図しているのです。〟146頁

 ここでは、大化年間の諸詔は『日本書紀』編纂者による編集構成であり、必ずしも同年代の詔勅とは限らないことを示唆されています。要は、八世紀の大和朝廷に有利となるように詔勅を大化年間に集合している、との指摘です。

〝質問 改新の詔には有名な「公地公民制」が含まれています。なぜそれほど政権の基盤が安定していないこの時期にこのような強権が発動できたのでしょうか。
 回答 (前略)『日本書紀』は「七〇一」以前の九州王朝関連の領地と領民を一度「私地私民」とし、大宝律令によって、「近畿天皇家や藤原氏たちの豪族」の有する「公地公民」としたのです。このように八世紀の(大宝律令の)公地公民制は決して(元正や藤原氏などの)勝手気ままに施行されたのではなく、あの天智天皇や天武天皇も承認していた公約の「実現」に他ならないということにするために、半世紀遡った時点の改新の詔に加えられたわけです。これは『日本書紀』最大の達成目標とすべきところだったのではないでしょうか。〟147頁

 この回答部分は重要です。「大化改新詔」の「公地公民制」は大宝律令に基づいた詔であり、それを権威づけるために孝徳紀まで半世紀遡らせ、他の改新詔に加えたとされています。すなわち、「大化改新詔」には九州王朝が九州(太宰府)を原点として発したものと、大宝律令に基づいて近畿天皇家が発した詔として半世紀遡らせたものが含まれるという理解なのです。

〝質問 孝徳紀の詔勅の中に薄葬令が出てきます。実行されたのでしょうか。
 回答 第十一回目の詔勅は、墓の大きさをテーマにしています。もう大きさを競うのはやめようという命令です(大化二年三月二十二日条)。(中略)この「薄葬の詔」は「近畿の天皇陵や古墳の現状」に全く合致していないのです。舞台を一転させて、九州の古墳と比較すれば、ここでは一変します。九州の場合、近畿のような大型古墳はありません。ことに六世紀後半や七世紀ともなれば、大型古墳はほとんど見られないのです。つまりこの詔勅は九州王朝で七世紀前半までに出されたものを盗用したものと言えるでしょう。〟127~128頁

 大化二年(646年)の「薄葬の詔」にいたっては、本来の詔勅(原勅)は七世紀前半までに九州王朝が発したもので、それを「盗用」したものとされています。

〝質問 『日本書紀』に出てくる年号は九州王朝の年号と同じものが使用されています。それらの年号と大化の改新の関係を説明してください。
 回答 『日本書紀』には年号が三つ登場してきます。「大化」(六四五~六四九年)、「白雉」(六五〇~六五四年)、「朱鳥」(六八六年)です。(中略)「白雉」と「朱鳥」は『日本書紀』と九州年号の時期は接近していますが、「大化」はほぼ半世紀のズレがあります。「大化」だけが飛び離れている理由は、『日本書紀』の「大化の改新」は、大宝律令(すなわち九州年号の「大化の改新」)の歴史的背景(淵源)を示している、という意義があります。言いかえれば、大宝元年は大化七年(三月二十一日まで)ですから、この大宝元年の一大変革は、文字通り「大化の改新」と呼ばれたはずです。九州年号による呼称だったわけです。『日本書紀』は七〇一年に発布された大宝律令を正当化するために五〇年遡った時点に同様の内容をもつ「改新の詔」を記載することによって「天智帝、天武帝もご承認された詔である」ということにしたのです。〟148~149頁

 以上のように古田先生は各質問に答えられていますが、同書の構成は「一問一答」形式であるため、論文のような厳密な論証や他の質問との厳格な対応はなされてはいません。〝わかりやすく〟ということに重点を置かれたためです。ですから、先生の回答全般から、「大化改新詔」に対する先生の理解を正しく把握することが肝要です。
 これらの回答が示していることは次の点です。

(1)『日本書紀』編纂者の主目的は、九州年号「大化」を孝徳紀に約50年遡らせて移動した「大化年間」に、九州王朝の「詔」や自らの大宝律令を基本とした「詔」を配置することにより、それらを権威づけることにある。
(2)その結果、「大化改新詔」には、七世紀前半に発せられた九州王朝の詔や、八世紀の大和朝廷による大宝律令に基づいた詔などが混在している。
(3)「東国」国司らを対象とした九州王朝による詔の発出地は九州(太宰府)である。

 おおよそ、以上のようです。「大化改新」共同研究会立ち上げ時の認識、〝「大化改新詔」は九州王朝により九州年号の大化年間に発せられた〟とする作業仮説が、より重層的多元的に、そして精緻に豊かに発展したことがわかります。中でも(1)の認識は重要なもので、「古田史学の会」関西例会でも様々な視点に基づいて諸説が発表され、「大化改新詔」研究は今日に至っています(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(2015)。
②古賀達也「洛中洛外日記」896話(2015/03/12)〝「大化改新」論争の新局面

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