第2580話 2021/09/25

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書

『飯詰町諸翁聞取帳』

  昭和24年、福士貞蔵氏が紹介

昭和50年頃から『市浦村史』資料編として世に出た『東日流外三郡誌』よりも先に公開された和田家文書があります。それは『飯詰町諸翁聞取帳』(注①)というもので、『飯詰村史』に多数引用されています。『飯詰村史』は昭和26年に刊行されていますが、編者の福士貞蔵氏による「自序」には昭和24年の年次が次のように記されており、終戦後間もなく編集されたことがわかります。

「昭和廿四巳(ママ)丑年霜月繁榮を極めたる昔の飯詰町を偲びつゝ
七十二翁 福士貞蔵識之」

福士氏は『飯詰町諸翁聞取帳』を学会誌(注②)にも紹介されています。「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文です。

〝(前略)然るに今回端なくも飯詰本村に於て意外の史料を発見した。
記録は『諸翁聞取帳』といって、飯詰を中心に隣村の史實を或る文献より寫したり、又は口碑傳説など聞取った事柄を書留めた物で、筆者と同じく餘り學力のある方ではないらしく、文体は成って居らんし、それに用語も無頓着で意味の判らぬ個所もあるが、全く耳新しい史料であるから、同好の士に紹介することにした。〟『陸奥史談』第拾八輯、昭和26年(1951)、20頁

このような前文に続いて、「高舘城系譜」という史料を転載されています。『飯詰村史』にも同文の「高舘城系譜」が転載されていますから、『陸奥史談』で紹介された『諸翁聞取帳』は『飯詰村史』に多数引用された『飯詰町諸翁聞取帳』のことであることがわかります。おそらく『飯詰町諸翁聞取帳』表紙には「飯詰町」と「諸翁聞取帳」を二行わたって表題が識されていたと推定されますから、『飯詰町諸翁聞取帳』と『諸翁聞取帳』という二つの書名が現れたと思われます。『飯詰村史』123頁には「諸翁聞取帳」という表記も見え、このことを裏付けています。なお、和田家文書には『東日流 津軽諸翁聞取帳』(注③)という史料があり、これも表紙には「東日流」と「津軽諸翁聞取帳」の二行表記になっています。
ちなみに『飯詰村史』の「編輯を終へて」には福士氏により次の謝辞があり、『飯詰町諸翁聞取帳』は和田家文書であることがうかがえます。

「本史編纂に當り、資料提供せられたる青弘両圖書館長、岩見常三郎、種市有隣、大久保勇作翁の方々に感謝し、併せて資料蒐集に協力せられし開米智鎧、濱館徹、和田喜八郎等の有志者に對し、茲に敬意を表する。」326頁

昭和24年といえば、和田喜八郎さんが22歳のときであり、専門の歴史研究家である福士氏により『飯詰村史』に引用されるような古文書を偽作できるはずはありません。これは、和田家文書真作説を支持する事実であり、わたしがこのことを指摘(注④)しても偽作論者からの応答反論はありません。この後も、和田家からは多くの古文書が研究者に開示されています。(つづく)

(注)
①五所川原市図書館の福士文庫には福士貞蔵氏の蔵書や研究記録が収蔵されている。その中の「郷土史料蒐集録 第拾壱號」に『飯詰町諸翁聞取帳』が書き写されている。その書名の下に「文政五年 今長太」とあり、同書の成立が文政五年(1822)であり、今長太は編者名と思われる。『飯詰村史』収録の同村絵地図には「今長太」と記された人家が見える。これは『飯詰町諸翁聞取帳』編者と同一人物ではあるまいか。
②福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」『陸奥史談』第拾八輯、陸奥史談會、昭和26年(1951)4月。
③和田喜八郎編『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』八幡書店、1989年。④古賀達也「『和田家文書』現地調査報告和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年11月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga03.html

一冊残った『東日流(六郡語部録) 諸翁聞取帳』原本

一冊残った『東日流(六郡語部録) 諸翁聞取帳』原本

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

古田先生からいただいた『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』。

古田先生からいただいた『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』。

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