第3475話 2025/04/17

『九州倭国通信』218号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.218号が届きましたので紹介します。同号には拙稿「チ。-地球の運動について- ―真理(多元史観)は美しい―」の後編を掲載していただきました。前編ではNHKで放映されたアニメ「チ。-地球の運動について-」(注)を引用しながら、中世ヨーロッパでの地動説研究者と多元史観で研究する古田学派との運命と使命について比較表現しました。後編では、中国史書(『三国志』倭人伝、『宋書』倭国伝、『隋書』俀国伝、『旧唐書』倭国伝・日本国伝)の解釈において、一元史観よりも多元史観が「美しい」ことを具体的に比較紹介しました。例として『宋書』倭国伝について、次のように論じました。

 〝たとえば、『宋書』倭国伝の倭国王の比定。そこには五人の倭国王の名前、「讚」「珍」「濟」「興」「武」が記されています。いずれも『日本書紀』には見えない名前です。従って、古田氏はこれら「倭の五王」は近畿天皇家の人物ではなく、倭国も大和朝廷に非(あら)ずとしました。他方、神代の昔から近畿天皇家(後の大和朝廷)を中心に日本列島の歴史は展開したとする一元史観では、「倭の五王」全員をヤマトの天皇のこととするため、次のような解釈や諸説が発表されました。

 云わく、「讚」は履中天皇(去来穂別イサホワケ)。その理由は、第二音「サ」を「讚」と表記した。或いは仁徳天皇(大鶺鷯オホササキ)。その理由は、第三・四音の「サ」、または「ササ」を「讚」と表記した。

 云わく、「珍」は反正天皇(瑞歯別ミヅハワケ)。その理由は、第一字の「瑞」を中国側が間違えて「珍」と書いてしまった。
云わく、「濟」は允恭天皇(雄朝津間雅子ヲアサツマノワクコ)。その理由は、第三字の「津」を中国側が間違えて「濟」と書いてしまった。または第三・四音の「津間」は「妻」であり、この音「サイ」が「濟」と記された。

 云わく、「興」は安康天皇(穴穂アナホ)。その理由は、「穴穂」がまちがえられて「興」と記された。または「穂」を「興(ホン)」と誤った。
云わく、「武」は雄略天皇(大泊瀬幼武オホハツセワカタケ)。その理由は、第五字の「武」をとった。

 わたしはこのような恣意的解釈が日本古代史学界では学問的仮説として横行していることに驚きました。一元史観を是とする〝答え〟を先に決めておいて、それにあうような恣意的で奇々怪々な解釈を羅列する。これは全く美しくないというより他なく、理系ではおよそ通用しない方法です。いわんや、世界の識者を納得させることなど到底不可能です。〟

 当号掲載の沖村由香さんの「古代地名を考える(第一回)『万葉集』次田温泉(すきたのゆ)」は興味深く拝読しました。ご当地の二日市温泉は、『万葉集』には「次田温泉」と大伴旅人の歌(巻六 961番)の題詞にあり、「すきたのゆ」あるいは「すぎたのゆ」と訓まれたはずだが、平安時代の『梁塵秘抄』には「すいたのみゆ(御湯)」とあり、「すきた」→「すいた」の音韻変化が平安時代に発生しているとされました。従って、『万葉集』の「次田」の場合は、従来のように平安時代の訓み「すいた」ではなく、「すきた」と訓むべきとされました。

 わたしも太宰府条坊都市近隣にあるこの温泉に関心を抱いており、九州王朝(倭国)がここに都を置いた理由の一つに、この温泉の存在があったのではないかとする仮説を、本年7月6日の久留米大学公開講座で発表する予定です。この研究のおり、なぜ「次田」を「すいた」と訓むのだろうかと不思議に思っていたのですが、その疑問の一端が沖村さんの論稿により、わかるかもしれないと思いました。

 沖村稿によれば、「平安時代に起こった音便現象(イ音便)によるもの」とのことで、同様の例として、「大分(おほきた)」→「大分(おおいた)」や「埼玉(さきたま)」→「埼玉(さいたま)」、「秋鹿(あきか)」→「秋鹿(あいか)」があるとのこと。このような「き」→「い」という音韻変化があることを知らなかったので、とても勉強になりました。それではなぜ、「すき」の音に「次」の字を当てたのかなど、まだまだ疑問はつきません。これから勉強したいと思います。

(注)『チ。-地球の運動について-』は、魚豊による日本の漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて連載(二〇二〇~二〇二二年)。十五世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちを描いたフィクション作品。二〇二二年、単行本累計発行部数は二五〇万部突破。二〇二三年、第十八回日本科学史学会特別賞受賞。

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