「邪馬国」の淵源は「須玖岡本山」
『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国名「邪馬壹国」の本来の国名部分は「邪馬」とする古田説を「洛中洛外日記」1803、1804話で紹介しました。この「邪馬」国名の淵源について古田先生は、弥生時代の須玖岡本遺跡で有名な春日市の須玖岡本(すぐおかもと)にある小字地名「山(やま)」ではないかとされました。ここは明治時代には「須玖村岡本山」と表記されていましたが、これは「須玖村」の大字「岡本」の小字「山」という三段地名表記です(春日村の大字「須玖」、中字「岡本」、小字「山」と表記された時代もあります)。
須玖岡本遺跡からはキホウ鏡など多数の弥生時代の銅製品が出土しており、当地が邪馬壹国の中枢領域であると思われ、「須玖岡本山」はその丘陵の頂上付近に位置します。そこには熊野神社が鎮座しており、卑弥呼の墓があったのではないかと古田先生は考えておられました。また、日本では代表的寺院を「本山(ほんざん)」「お山(やま)」と呼ぶ慣習があり、この小字地名「山」も宗教的権威を背景とした地名ではないかとされました。そしてその権威としての「山」地名が「邪馬国」という広域国名となり、倭人伝に邪馬壹国と表記されるに至ったと考えられます。