梅原末治さんの業績と不運
「洛中洛外日記」1987話(2019/09/11)〝曹操墓と日田市から出土した鉄鏡〟で取り上げた日田市出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)を世に発表された梅原末治さんのことは古田先生もよく話されていました。中でも、梅原さんが福岡県春日市の須玖岡本遺跡D地点から出土したキ鳳鏡の調査を行われ、同遺跡を「邪馬台国」の卑弥呼の時代とされた学問的業績を、古田先生は高く評価されていました。と同時に、梅原さんのお弟子さんたちはこの梅原論文を無視・軽視されたと、梅原さんに同情されていました。
そのキ鳳鏡による須玖岡本遺跡の編年修正について、「洛中洛外日記」873話(2015/02/14)〝須玖岡本D地点出土「キ鳳鏡」の証言〟で紹介したことがあります。その当該部分を転載します。
【以下、転載】
「洛中洛外日記」872話で紹介しました須玖岡本遺跡(福岡県春日市)D地点出土「キ鳳鏡」の重要性について少し詳しく説明したいと思います。
北部九州の弥生時代の王墓級の遺跡は弥生中期頃までしかなく、「邪馬台国」の卑弥呼の時代である弥生後期の3世紀前半の目立った遺跡は無いとされてきました。そうしたこともあって、「邪馬台国」東遷説などが出されました。
しかし、古田先生は倭人伝に記載されている文物と須玖岡本遺跡などの弥生王墓の遺物が一致していることを重視され、考古学編年の方が間違っているのではないかと考えられたのです。そして、昭和34年(1959)に発表された梅原末治さんの論文に注目されました。「筑前須玖遺跡出土のキ鳳鏡に就いて」(古代学第八巻増刊号、昭和三四年四月・古代学協会刊)という論文です。
同論文にはキ鳳鏡の伝来や出土地の確かさについて次のように記されています。
「最初に遺跡を訪れた八木(奘三郎)氏が上記の百乳星雲鏡片(前漢式鏡、同氏の『考古精説』所載)と共にもたらし帰ったものを昵懇(じっこん)の間柄だった野中完一氏の手を経て同館(二条公爵家の銅駝坊陳列館。京都)の有に帰し、その際に須玖出土品であることが伝えられたとすべきであろう。その点からこの鏡が、須玖出土品であることは、殆(ほとん)ど疑をのこさない」
「いま出土地の所伝から離れて、これを鏡自体に就いて見ても、滑かな漆黒の色沢の青緑銹を点じ、また鮮かな水銀朱の附着していた修補前の工合など、爾後和田千吉氏・中山平次郎博士などが遺跡地で親しく採集した多数の鏡片と全く趣を一にして、それが同一甕棺内に副葬されていたことがそのものからも認められる。これを大正5年に同じ須玖の甕棺の一つから発見され、もとの朝鮮総督府博物館の有に帰した方格規玖鏡や他の1面の鏡と較べると、同じ須玖の甕棺出土鏡でも、地点の相違に依って銅色を異にすることが判明する。このことはいよいよキ鳳鏡が多くの確実な出土鏡片と共存したことを裏書きするものである」
更にそのキ鳳鏡の編年についても海外調査をも踏まえた周到な検証を行われています。その結果として須玖岡本遺跡の編年を3世紀前半とされたのです。
「これを要するに須玖遺跡の実年代は如何に早くても本キ鳳鏡の示す2世紀の後半を遡り得ず、寧(むし)ろ3世紀の前半に上限を置く可きことにもなろう。此の場合鏡の手なれている点がまた顧みられるのである」
「戦後、所謂いわゆる考古学の流行と共に、一般化した観のある須玖遺跡の甕棺の示す所謂『弥生式文化』に於おける須玖期の実年代を、いまから凡(およ)そ二千年前であるとすることは、もと此の須玖遺跡とそれに近い三雲遺跡の副葬鏡が前漢の鏡式とする吾々の既往の所論から導かれたものである。併(しか)し須玖出土鏡をすべて前漢の鏡式と見たのは事実ではなかった。この一文は云わばそれに就いての自からの補正である」
「如上の新たなキ鳳鏡に関する所論は7・8年前に到着したもので、その後日本考古学界の総会に於いて講述したことであった。ただ当時にあっては、定説に異を立つるものとして、問題のキ鳳鏡を他よりの混入であろうと疑い、更に古代日本での鏡の伝世に就いてさえそれを問題とする人士をさえ見受けたのである」
このように梅原氏は自らの弥生編年をキ鳳鏡を根拠に「補正」されたのです。真の歴史学者らしい立派な態度ではないでしょうか。現代の考古学者にはこの梅原論文を真正面から受け止めていただきたいと願っています。(後略)
【転載おわり】
このように、梅原さんは海外調査や須玖岡本遺跡出土の他の銅鏡なども自らの目で精査され、キ鳳鏡の製作年代から須玖岡本遺跡の編年を3世紀初め頃と修正されたのですが、この業績はその後の考古学界から事実上の無視の運命にあってきました。そして更に今回の日田市出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡についても、梅原さんの現地調査などに基づく「ダンワラ古墳出土」という結論について、新聞報道では〝「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。〟と述べ、〝疑わしい〟〝謎が深まった〟と読者をリードするかのような論調で記事が構成されています。ここでもまた梅原さんの業績は〝否定〟されようとしているのです。
梅原さんは同鏡を入手したときに聞かれた「日田での出土品」という古美術商の証言に基づき、現地調査をされました。同遺物出土時に立ち会った人からも証言を得るという梅原さんらしい徹底した調査に基づかれて、この金銀錯嵌珠龍文鉄鏡について発表されました。それに対して、新聞報道では「懐疑論」の一つとして、「出土地について古美術商が言うことが必ずしもあてにならない。」との高島忠平さん(佐賀女子短期大学名誉教授)のコメントを紹介されたりしています。
高島さんのコメントが一般論として妥当かどうかは、わたしにはわかりませんが、今回のケースでは古美術商の言葉を信頼してもよいように思います。というのも、もし古美術商がウソをつくのであれば、たとえば著名な天皇陵かその周辺で出土したなどと、その遺物の値打ちが上がるようなウソになるはずです。ですから、それほど有名でもない山間の地方都市である日田市から出土したなどというウソを古美術商がわざわざつく必要があるとは思えないのです。
更に、現地を調査したらそのような遺跡発見の事実もあったわけで、古美術商がたまたまウソで日田出土と言ったら、偶然にもその時期に日田で遺跡発見があったなどとは考えにくいとするのが、わたしの古代史研究の経験からの判断ですが、いかがでしょうか。この件、機会があればもっと深く論じたいと思います。それにしても、〝梅原さんはお弟子さんに恵まれていない〟と言ったら、高名な考古学者に失礼でしょうか。