淡路島「出土」銅鐸の歴史背景
昨日から愛知県に出張していますが、今朝、ホテルで読んだ朝刊(毎日新聞)1面に「淡路島で銅鐸7個」という記事があり、感慨深く思いました。
かなり昔の話ですが、島根県出雲市の荒神谷遺跡から大量の銅剣(銅矛)が出土したとき、古田先生は「この近くから銅鐸が出土するはず」と「予言」され、その通りに近くから6個の銅鐸が出土しました。もちろん古田先生は「予言」ではなく、学問的論理性の帰結により銅鐸出土の可能性が大きいことを指摘されたのですが、わたしたちは先生の「予言」が的中したことに大変驚いたものです。
その後、島根県加茂岩倉遺跡からも大量の銅鐸が出土し、これもまた古田先生が主張されていた「出雲王朝」の存在が歴史の真実であったことを証明するものでした。それまで『古事記』『日本書紀』等の出雲神話を造作としていた古代史学界の通説が誤りであり、古田先生の多元史観が正しかったことが明白となったのです。
その後、古田先生はこれら「埋められた銅鐸」という考古学的事実(実証)から、なぜ銅鐸は埋められたのかという論証へと学問作業を進められ、「天孫降臨ショック」「神武ショック」という概念を提起されました。弥生時代の二大青銅器文明圏の衝突により、銅矛圏勢力の軍事的侵入により、銅鐸圏の人々が自らの祭祀シンボルである銅鐸を緊急避難的に埋納したのではないかという仮説に基づき、その衝突の時期として弥生時代前期末から中期初頭に起こった「天孫降臨」という天孫族の侵入と、西暦1世紀頃の「神武東征」という倭国(邪馬壹国軍「一大率」)の侵攻に着目され、それぞれ「天孫降臨ショック」「神武ショック」と名付けられたのでした。
こうした古田先生の提起された概念に当てはめれば、今回の淡路島「出土」銅鐸の埋納の歴史的背景は何なのでしょうか。新聞記事によれば、今回の銅鐸はその形式編年から「弥生時代前期後半から中期初頭」とされています。従って、古田先生のいう「天孫降臨ショック」にピッタリと時代的に対応するようです。
ということは、天孫族は弥生時代前期末頃には淡路島まで侵攻していたことになります。『古事記』『日本書紀』の国生み神話に淡路島が登場しますから、今回の銅鐸「出土」は文献史学の面からも、とても興味深い考古学的事実なのです。
(補注)本稿では、今回淡路島で発見された銅鐸について、「出土」と「」を付けました。これは西村秀己さんから、発見の経緯からすると考古学的発掘によるものではないので、出土という表現は現段階では不適切との指摘をいただいたからです。そこで、今回はそのご指摘に留意し、「」付きの「出土」と表記しました。