第439話 2012/07/12

大化二年改新詔の造籍記事

 「戸籍」木簡の出土に触発されて、古代戸籍の勉強をしています。特に『日本書紀』に記された造籍記事を再検討しているのですが、大化二年(646)改新詔にある造籍記事に注目しました。

 大化二年改新詔の中の条坊関連記事や建郡記事が、696年の九州年号「大化二年」の記事を50年ずらしたもので、本来は藤原京を舞台にした詔勅であったとする説(注1)を、わたしは発表しましたが、同じ改新詔中の造籍記事もこれと同様に九州年号大化二年の記事を50年ずらしたのではないかという疑いが生じてきました。すなわち、「庚寅年籍」(690年)の六年後(696年)の造籍記事ではなかったかと考えています。7世紀末頃の戸籍は通常6年ごとに造籍されたと考えられていますから、これは「庚寅年籍」の次の「丙申年籍」造籍記事に相当します。

 しかも『日本書紀』ではこの大化二年の造籍が「初めて戸籍・計帳・班田収授之法をつくれ」と記されていることから、近畿天皇家にとって、この「丙申年籍」が最初の造籍事業だった可能性もありそうです。従って、わが国最初の全国的戸籍とされている「庚午年籍」(670年)は九州王朝による造籍であったこととなります。

 この大化二年(646年)改新詔の造籍が696年のこととすると、その6年後の白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年に相当)に記された造籍記事もまた、50年ずれた大宝二年(702年)の造籍と考えることができます。今も正倉院に現存している「大宝二年戸籍(断簡)」がその時に造られたものです。 しかも『日本書紀』白雉三年条に記された造籍記事には大宝律令の条文と同じ文章(「戸主には、皆家長を以てす。」など)が記されており、「大宝二年戸籍」 の記事が50年ずらして掲載されている可能性がうかがえます。

 ちなみに大宝二年は九州年号の大化八年に相当することから、九州年号の「大化八年」と「大化二年」の造籍記事が、『日本書紀』の大化二年と白雉三年にそれぞれ50年ずらして掲載されたことになるのです。この「大化八年籍」(702年、大宝二年)という視点は、正木裕さん(古田史学の会・会員)からのご教示によるものです。この「九州年号・大化期造籍」について、正木さんも精力的に研究を進められており、関西例会などで発表されることと思います。

 これら造籍記事には、九州王朝から大和朝廷への王朝交代期(7世紀末~8世紀初頭)の複雑な問題を内包しており、古田学派によるさらなる研究の深化が期待されています。

(注1)「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』89号。『「九州年号」の研究』に転載。

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