第2408話 2021/03/13

『古事記』序文の「皇帝陛下」(3)

 『古事記』序文に見える「皇帝陛下」論争などについて書かれた、二百字詰め原稿用紙30枚の論文のような「お便り」を古田先生からいただきました。それには、わたしとの論争の末に至った新たな説が記されていました。その結論部分は、序文の「皇帝陛下」は元明天皇のことだが、皇帝を称したことが唐に知れると怒りをかうので、序文だけではなく本文ともども勅撰国史として不適切であるとして、『古事記』は秘されたというものでした。その新説は、「お便り」が届いた翌々月の『多元』No.80(多元的古代研究会編、2007年7月)に「古事記命題」のタイトルで発表されました。同稿には新説に至る経緯が次のように記されています。

〝だからわたしは疑った。
 「この『皇帝陛下』とは、果して”元明天皇”なのか。もしかしたら文字通り”中国(唐)の天子”を指しているのではないか。」
 (中略)
 しかし、問題は残っていた。序文(上表文)全体の構造から見れば、やはりこの『皇帝陛下』は元明天皇だ。八世紀の史料には、日本の天皇を「皇帝陛下」と呼ぶ慣例もある。その実例をしばしば指摘していただいたこともあった。―では、真相は何か。(後略)〟

 この序文の「皇帝陛下」論争では、先生から厳しくお叱りもうけたのですが、「八世紀の史料には、日本の天皇を『皇帝陛下』と呼ぶ慣例もある。その実例をしばしば指摘していただいたこともあった。」とあることから、わたしの〝異見〟も少しはお役にたてたようです。ちなみに、「日本の天皇を『皇帝陛下』と呼ぶ慣例」とは『養老律令』の次の条項です。

 「天子。祭祀に称する所。
  天皇。詔書に称する所。
  皇帝。華夷に称する所。
  陛下。上表に称する所。(後略)」
 (『養老律令』儀制令天子条)

 また、ここに述べられた「序文(上表文)全体の構造」とは、次のようなことと思われます。

(1)序文に見える各天皇には、当時の人にはそれが誰のことかわかるように記されている。たとえば、「神倭天皇」(神武天皇)・「飛鳥清原大宮御大八州天皇」(天武天皇)、「大雀皇帝」(仁徳天皇)などのように。

(2)あるいは、『古事記』選録の詔勅を発した「天皇」についても、詔した日を「和銅四年九月十八日」と記すことにより、その当時の元明天皇であることがわかるようになっている。

(3)ところが「皇帝陛下」には人名を特定できるような呼称や説明がない。

(4)「陛下」という語句は『養老律令』にもあるように、上表文に使用する天皇の尊称であることから、同序文は上表文、あるいはそれに類するものである。

(5)上表文であれば、その当時の天皇に提出するのであるから、末尾の提出年次「和銅五年正月廿八日」(712年)時点の「皇帝陛下」、すなわち元明天皇であることは、読む人(元明天皇や大和朝廷の官僚たち)には一目瞭然である。

 以上のような序文の構造から、「皇帝陛下」を元明天皇とせざるをえないとされたわけです。
 しかし、当初はSさんの仮説(「皇帝陛下」=唐の天子)を支持し、東アジアにおけるナンバーワンの唐の天子と、ナンバーツーとしての日本国(大和朝廷)の天皇とする位取りの枠組みから、この時代の大和朝廷の天皇が「皇帝」を称することはありえないと、古田先生が考えておられたことは間違いないことです。
 古田先生が『多元』に「古事記命題」を発表されたのは2007年ですが、2009年頃からそれまでの七世紀の日本列島におけるナンバーワン・天子(九州王朝)とナンバーツー・天皇(近畿天皇家)という権力者呼称に関する自説(古田旧説)を変更され、七世紀の金石文にみえる「天皇」は全て九州王朝の天子の別称とする新説(古田新説)を発表されるようになりました。もしかすると、この『古事記』序文の「皇帝陛下」問題が自説変更に影響したのかもしれません。

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