第1689話 2018/06/12

「長柄の国分寺」の寺伝

 「洛中洛外日記」に連載中のテーマ『九州王朝の「分国」と「国府寺」建立詔』の執筆に当たり、摂津の国分寺として現存している「真言宗国分寺派 大本山 国分寺(摂津之国 国分寺)」のホームページを拝見しました。同寺は大阪市北区国分寺にあり、その地は「長柄」と呼ばれていたことから「長柄の国分寺」とも称されています。ホームページには同寺の歴史として次のように説明されています。

【以下、転載】
寺伝によると、大化元年(645年)末に孝徳天皇が難波長柄豊碕宮を造営するも、崩御の後、斉明天皇により飛鳥板蓋宮へ遷都される。その後、入唐大阿闍梨道昭、勅を奉じて先帝の菩提を祈るため難波長柄豊碕宮の旧址に一宇を建立し「長柄寺」と称した。そして、仏教に深く帰依した聖武天皇により天平十三年(741年)一国一寺の「国分寺建立の詔」を公布されると、既存の「長柄寺」を摂津之国国分寺(金光明四天王護国之寺)として定める。世俗「長柄の国分寺」と称され、今日まで歴代天皇十四帝の勅願道場として由緒ある法灯を伝燈してきた。古くは難波往古図に「国分尼寺」として記載されている。

 しかし、長い歴史の中幾度も戦火に晒され、中でも豊臣氏が滅亡した大坂夏の陣、元和元年(1615年)には全焼、その後約百年余り荒廃の極みであった。

 そして江戸時代、享保三年(1718年)に中興の祖律師快圓により再建され文献に登場する。

『摂津名所圖會』巻三 秋里籬島
寛政10年(1798)
國分寺
○國分寺村にあり。正國山金剛院と號す。眞言律宗。
○本尊阿彌陀佛 聖徳太子御作。坐像三尺五寸計り。
○赤不動尊 弘法大師作。初めは高野山に安置しけるなり。
○敷石地藏尊 初め玉造鍵屋坂にありしなり。

 當寺は國毎の國分寺の其一箇寺にして、本願は聖武帝、開基は行基僧正なり。荒蕪の後、快圓比丘中興して律院となる。國分寺料むかしは一萬五千束、其外施料の事〔延喜式〕あるいは〔文徳實録〕にも見えたり。又東生郡にも國分寺あり。何れ一箇寺は國分尼寺の跡ならん。後考あるべし。
【以下略。転載おわり】

 ここで記された「寺伝」の史料根拠は示されていませんので、正確な判断は困難ですが、少なくとも同寺としては自らの出自を次のように理解しているようです。

①道昭、勅を奉じて先帝(孝徳)の菩提を祈るため難波長柄豊碕宮の旧址に一宇を建立し「長柄寺」と称した。従って創建は7世紀後半。
②創建の地を「難波長柄豊碕宮の旧址」とすることから、その地に孝徳の「難波長柄豊碕宮」があったとしている。従って前期難波宮跡は「難波長柄豊碕宮」ではないとされている。この立場は近隣にある豊崎神社社殿と同じ。
③聖武天皇による「国分寺建立」詔により、「長柄寺」が摂津之国国分寺(金光明四天王護国之寺)として定められた。
④世俗では「長柄の国分寺」と称された。
⑤大坂夏の陣、元和元年(1615)で全焼し、その後約百年余り荒廃した。
⑥古くは難波往古図に「国分尼寺」として記載されている。
⑦江戸時代、享保三年(1718)に中興の祖律師快圓により再建され、文献に登場するようになった。
⑧その文献として『摂津名所圖會』などがある。

 これらの中で注目されるのが、①の道昭による創建とする伝承です。『続日本紀』「道昭卒伝」によれば、道昭が唐から帰国したのは660年ですから、「長柄寺」の建立はそれ以後となります。従って、九州王朝による「国府寺」とするには遅すぎます。

 ④の、世俗では「長柄の国分寺」と称された、という記事も貴重です。摂津には「長柄」以外にも国分寺があったという歴史的背景を前提とした「俗称」だからです。この点、同寺ホームページに紹介されている『摂津名所圖會』には、摂津には二つの国分寺があり、そのどちらかが国分寺でありもう一つが国分尼寺ではないかとし、「後考あるべし」と後の研究に委ねるとしています。
この「長柄の国分寺」の寺伝が確かであれば、多元的「国分寺」研究にとって重要な進展をもたらすかもしれません。引き続き、調査したいと思います。

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