「武蔵国分寺」の設計思想
「武蔵国分寺」の異常な伽藍配置は九州王朝による「国分寺」建立多元説によっても説明や理解が難しい問題が残されています。たとえば次のような点です。
1.最初に「七重の塔」が、傍らを走る東山道武蔵路と平行して南北方位で造営されているにもかかわらず、その後、8世紀末頃に造営されたとする金堂などの主要伽藍が主軸を西に7度ふって造営された理由が不明。
2,金堂や講堂などの主要伽藍は回廊内に造営されているが、なぜそのときに回廊内に「塔」も新たに造営されなかったのか不明。
3.既にあった「七重の塔」が立派だったので、回廊内には「塔」を造営しなかったとするのであれば、なぜその立派な「七重の塔」の側に主要伽藍を造営し、共に回廊で囲まなかったのか、その理由が不明。
4.もし「七重の塔」とは無関係に別の国分寺を造営したとするのであれば、南門を含む外郭が主要伽藍から離れた位置にある「七重の塔」の地域をもいびつな四角形(厳密に観察すると四角形ともいえないようです)で囲んだのか不明。
以上のような疑問だらけの「武蔵国分寺」なのですが、その状況から推測すると、次のような「設計思想」がうかがいしれます。
(A)金堂など主要伽藍造営者は「七重の塔」や東山道武蔵路のような南北方向に主軸を持つ築造物と同一の主軸方位とすることを「拒否」した。「受け入れることはしない」という主張(思想)を自他共に明確にしたかったと考えられる。
(B)それでいながら、回廊内に「塔」は「新築」せず、既に存在していた「七重の塔」を存続、代用した。すなわち、「七重の塔」の「権威」を完全には否定(破壊・移築)できなかった。
(C)その後、「七重の塔」の「権威」を取り込むかのように外郭を定め、その外郭に「南門」を造営した。すなわち、「七重の塔」の「権威」をいびつな外郭で取り込んだ。
以上、いずれも論理的推測に過ぎませんが、南北軸から意図的に西にふった主要伽藍の主軸の延長線上に何が見えるのか、9月5日の現地調査で確かめたいと思います。なお、現地調査には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)も同行していただけることになりました。楽しみです。(つづく)