「磁北」7度西偏説の痕跡
「洛中洛外日記」1029話(2015/08/19)『「磁北」方位説の学問的意義』で述べましたように、「武蔵国分寺」の主要伽藍の主軸が真北から西に7度ふれている理由を「磁北」とした場合、次の検証課題がありました。
1.真北と磁北のふれは、地域や時代によって変化するので、「武蔵国分寺」建立の時代の「磁北」のふれが「7度西偏」であったことをどのように証明できるのか。
2.「磁北」を測定する方位磁石(コンパス)の日本列島への伝来時期と使用時期が古代まで遡ることを、どのように証明できるのか。
この二つの課題について、とりあえず1については次の方法で証明可能、あるいは有力仮説にできると考えました。すなわち、8世紀に建立された寺院や遺構に同様の傾向が見られれば、それら全てを偶然の一致とすることは困難となり、意図的に「7度西偏」させたとする仮説が有力となります。その結果、それを当時の「磁北」の影響と見なす説は妥当性を増します。もちろん「7度西偏」の他の有力な根拠があれば、どちらがより妥当かという相対的論証力を比較する作業へと移ります。しかし、他に有力な根拠がなければ、「磁北」とする仮説が最有力説となるわけです。
このような考え方から、全国の7〜8世紀の遺構の方位を調査しなければならないと思っていたやさきに、肥沼さんから、またまた驚くべき情報が寄せられたのです。詳細は肥沼さんのブログ「肥さんの夢ブログ」を見ていただきたいのですが、インターネット検索で古代建造物の方位を調査された結果、「7度西偏」の主軸方位を持つものが少なからず見いだされたとのことなのです。次の通りです。(順不同)
【「7度西偏」の寺社など】
○常陸国の国分寺・国分寺跡
○気比神宮
○太子山から斑鳩寺への道。
○斑鳩寺(揖保郡太子町)堂塔伽藍すべて。
○稗田神社(揖保郡太子町)
○中臣印達神社(たつの市揖保町中臣・粒丘)
○石上神宮(奈良県天理市布留)
○広峯神社(姫路)
○増位山随願寺(姫路)
○麻生八幡宮(姫路)
○松原八幡宮(姫路市白浜)
○法隆寺(奈良・生駒郡・斑鳩町)
○龍田神社(奈良・斑鳩町)
○島庄春日神社?あすか夢耕社(奈良・明日香村岡寺北)
○広隆寺(京都市右京区太秦)
○百済王神社・百済寺跡(枚方市中宮?)
以上のようです。ネット検索によるものですから、学問的には現地調査・発掘調査報告書などでの確認が必要ですが、これだけそろうと全て偶然とするのは不可能と言わざるを得ません。また、造営年代も異なっており、どの時代に「7度西偏」を採用されたのかも検討が必要であることは言うまでもありません。
この中で、わたしが特に注目したのが「法隆寺」です。全焼した「若草伽藍」は南北軸から20度ほどふれており、およそ真北を意識した寺院とは考えられませんが、現存する法隆寺は8世紀初頭の和銅年間頃の「移築」と考えられますから、近畿天皇家が九州王朝の寺院を移築する際、北を意識して移築したものの、「武蔵国分寺」と同様に西へ7度ふっていることがわかります。すなわち、8世紀において近畿天皇家は中枢寺院(法隆寺)の移築において、「7度西偏」方位を国家意志として採用し、同様に8世紀後半に造営された「武蔵国分寺」もその国家意志に従ったと考えられるのです。
他方、前期難波宮(九州王朝副都)や藤原京、平安京は真北方向を採用し、「7度西偏」ではありません。これらも国家意志に基づく都や宮殿の造営ですから、この設計思想の違いは何によってもたらされたのでしょうか。不思議です。(つづく)