武蔵国分寺跡「塔跡2」の
「6度東偏」の謎
武蔵国分寺跡資料館でいただいた「塔跡2」の調査報告書(コピー)によると、七重塔とされる「塔跡1」の西側約55mの地点から発見された遺構は平成15〜17年の調査の結果、塔跡とされ、「塔跡2」と名付けられました。堅牢な版築基台が出土しましたが、礎石や根固め石はなどは検出されなかったとあります。
今回の現地調査を行うまでは、この「塔跡2」も「塔跡1」と同様に主軸は真北を向いていると理解していたのですが、同地でいただいたパンフレットをよく見るとどうも東偏しているのではないかと思われました。同行された茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員、古田史学の会・会員)もそのことに気づかれました。そこで、資料館の石井さんに「塔跡2」の発掘調査報告書を見せて欲しいとお願いしたところ、先のコピーをいただきました。
その報告書によると「塔跡2」は「僧寺中心軸線に対して約6°東偏する。」と記されていました。「僧寺中心軸線」とあるのが、真北方位の「塔跡1」なのか、7度西偏する金堂などの主要伽藍なのかこの記載からは不明ですが、現地調査の結果から考えると真北方位の「塔跡1」に対して6度東偏していると考えざるをえませんし、コピーにあった「図3 七重塔西方地区(塔跡2本体部)全体図」もそのように作図されています(茂山さんが測定されました)。
以上の考古学的出土事実は次のことを指し示しています。
1.最初に「塔跡1」が真北方位で造営された。
2.次いで金堂・講堂など主要伽藍が7度西偏して造営された。
3.その後に「塔跡1」の西隣に6度東偏して「塔跡2」が造営された。あるいは造営しようと版築基台が造られた。
以上のような経緯が想定されるのですが、それらの中心軸方位が「めちゃくちゃ」です。これで一つの「国分寺」跡と言えるのでしょうか。南北方位で造営された東山道武蔵路と同一方位を持つ「塔跡1」は造営者の統一された設計思想・意志(北極星を重視)が感じられますが、7度西偏した主要伽藍や、6度東偏している「塔跡2」はその主軸の向きを決定した理由や設計意志が、わたしには理解不能なのです。特に「塔跡2」を主要伽藍とも「塔跡1」(七重塔)とも異なる方位にした理由、しなければならなかった理由がわかりません。
しかし、武蔵国を代表する国分寺設計にあたり、その採用方位の不統一を設計者や造営主体者の「趣味」の問題とすることは学問的ではありません。何か理由があったはずです。それを考えるのが歴史学ですから、この謎から逃げることは許されません。主要伽藍の7度西偏については「磁北」とする作業仮説(思いつき・アイデア)が提起されたのですが、6度東偏も「磁北」とすることができるでしょうか。「塔跡2」の造営は『続日本後紀』の記事(承和12年〔845〕3月条、七重塔焼失・再建記事。)などから9世紀中頃と考えられているようですが、もしそうであれば100年間ほどで磁北が7度西偏から6度東偏に変化したことを証明しなければなりません。これもまた、大変な作業ですし、100年で磁北がそれほど変化するものかどうかも、わたしにはわかりません。不思議です。(つづく)