第1133話 2016/02/03

多元的「国分寺」の考古学

 大阪と東京で古田先生の追悼会・お別れ会が二週連続で続くという1月が過ぎ、ようやく落ち着いて研究に取り組める環境に戻りました。もっとも肥沼孝治さんや宮崎宇史さんと多元的「国分寺」研究サークルを立ち上げたり、『古代に真実を求めて』の古田先生追悼特集号の追加原稿執筆など、忙しい日々は当分続きそうです。

 国分寺遺跡に7世紀に遡るものがあることが濃厚となっているのですが、昨年末に大阪歴史博物館の考古学者の李陽浩さんにこのことを説明し、7世紀の国分寺遺構と8世紀の遺構との見分け方について意見交換しました。
瓦による編年については地域差が大きく、簡単ではないとの見方で意見が一致しました。そこで古代建築を専門とされている李さんから、塔の心柱の構造から一定の判断が可能と教えていただきました。

 7世紀の五重塔などは心柱が版築基台を掘りこんで埋められた形式だが、8世紀以降は心柱は基台上に乗っている形式が主流になるので、一応の目安になるとのことでした。たしかに7世紀初頭の造営で8世紀初頭に移築されたと考えられる法隆寺の五重塔の心柱は版築基台に埋め込んだ形式です。更に、8世紀の国分寺には七重塔が造営されるが、7世紀前半にはせいぜい五重塔なので、その差も判断材料に使えるのではないかとのことでした。

 伽藍配置などの南北軸の振れの他にも、こうした考古学的判断も多元的「国分寺」研究に役立つように思われます。

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