万葉歌の大王 (7)
―八世紀の「大王」と「天皇」―
万葉歌には「天皇」が使用されている歌があります。次の人麿の歌です。題詞によれば、日並皇子(草壁皇子)が亡くなったときに詠んだもので、持統三年(689)のことになります。
【『万葉集』巻二 0167】(注①)
天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 [一云 さしのぼる 日女の命] 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて [一云 天雲の八重雲別きて] 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろき(天皇)の 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ [一云 神登り いましにしかば] 我が君(王) 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも [一云 さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす]
「すめろきの 敷きます国」の原文は「天皇之 敷座國」です。また、「飛ぶ鳥の 清御原の宮に」(飛鳥之 浄之宮尓)とありますから、大和の飛鳥が歌の舞台です。更に「高照らす 日の御子」(高照 日之皇子)や「我が大君 皇子の命」(吾王 皇子之命)、「皇子の宮人」(皇子之宮人)とあり、「飛鳥」の「浄之宮」に「天皇」や「皇子」がいたとことがわかります。この「天皇」「皇子」呼称は、飛鳥宮遺跡から出土した「天皇」「○○皇子」木簡(注②)と対応しており、七世紀後半の飛鳥宮にいた天武や持統らがナンバーツーとしての「天皇」を名のっていたことを人麿の歌も証言していたことになり、貴重です。
ちなみに、この歌に対する古田先生の解釈は変化しています。当初、『人麿の運命』(1994年)ではこの歌の「天皇」を持統天皇とし、舞台も大和飛鳥とされていましたが、『壬申大乱』(2001年)では九州王朝の「筑紫飛鳥」での歌とし、「天皇」を「あまつ、すめろぎ」と解し、通例の用法の「天皇」ではないとされました。この古田新説も有力ですので、別途、検証したいと思います。
そして九州王朝から大和朝廷の時代(八世紀)となり、大和朝廷は公的にはナンバーワンとしての「天皇」や「天子」「皇帝」(『養老律令』「儀制令第十八」、注③)を称します。他方、同じ八世紀成立の万葉歌には、それらナンバーワン「天皇」に対して「大王」が使用されています。
【『万葉集』巻一 0077】(注④)
吾が大君(大王) ものな思ほし皇神の 継ぎて賜へる 我なけなくに
【『万葉集』巻六 0956】(注⑤)
やすみしし 我が大君(大王)の 食す国は 大和(日本)もここも 同じとぞ思ふ
【『万葉集』巻六 1047】(注⑥)
やすみしし 我が大君(大王)の 高敷かす 大和(日本)の国は すめろきの 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天の下 知らしまさむと 八百万 千年を兼ねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 御笠の野辺に 桜花 木の暗隠り 貌鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋さり来れば 生駒山 飛火が岳に 萩の枝を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴の男の うちはへて 思へりしくは 天地の 寄り合ひの極み 万代に 栄えゆかむと 思へりし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代の ことにしあれば 大君(皇)の 引きのまにまに 春花の うつろひ変り 群鳥の 朝立ち行けば さす竹の 大宮人の 踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも
【『万葉集』巻六 1050】(注⑦)
現つ神 我が大君(皇)の 天の下 八島の内に 国はしも さはにあれども 里はしも さはにあれども 山なみの よろしき国と 川なみの たち合ふ里と 山背の 鹿背山の際に 宮柱 太敷きまつり 高知らす 布当の宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥が音響む 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺も繁に 巌には 花咲きををり あなあはれ 布当の原 いと貴 大宮所 うべしこそ 吾が大君(大王)は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮ここと 定めけらしも
このように近畿天皇家が日本国のナンバーワン「天皇」や「天子」「皇帝」を称していたとき、万葉歌では伝統的な古称「大王(おおきみ)」を歌人たちは使用していることがわかります。ここには、古田先生が主張した「大王≠天子(天皇)」という〝基本ルール〟は採用されていないのです。
万葉歌には「おおきみ」という倭語に対して「大王」という表記が使用され、その伝統は九州王朝時代に遡るものと思われます。そして八世紀の大和朝廷の歌人たちは、この古称「大王」表記の伝統を受け継いだわけです。(つづく)
(注)
①[題詞] 日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]
[原文] 天地之初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命 [一云 指上 日女之命] 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 [一云 天雲之 八重雲別而] 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴 [一云 神登 座尓之可婆] 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 [一云 食國] 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 [一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為]
②古賀達也「洛中洛外日記」2356話(2021/01/23)〝『飛鳥宮跡出土木簡』で「皇子」検証〟において、「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」と記された木簡の出土を紹介した。
③『養老律令』「儀制令第十八」に次の規定がある。
「天子。祭祀に称する所。」
「天皇。詔書に称する所。」
「皇帝。華夷に称する所。」
「陛下。上表に称する所。」
④[題詞](和銅元年戊申 / 天皇御製)御名部皇女奉和御歌
[原文] 吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
⑤[題詞] 帥大伴卿和歌一首
[原文] 八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念
⑥[題詞] 悲寧樂故郷作歌一首[并短歌]
[原文] 八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿礼将座 御子之嗣継 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之成者 春日山 御笠之野邊尓 櫻花 木晩牢 皃鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火賀※塊丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男壮鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思煎敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮将徃迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃真尓真荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞
[左注] (右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
※塊の字は、元暦校本では山偏に鬼とする。
⑦[題詞] 讃久邇新京歌二首[并短歌]
[原文] 明津神 吾皇之 天下 八嶋之中尓 國者霜 多雖有 里者霜 澤尓雖有 山並之 宜國跡 川次之 立合郷跡 山代乃 鹿脊山際尓 宮柱 太敷奉 高知為 布當乃宮者 河近見 湍音叙清 山近見 鳥賀鳴慟 秋去者 山裳動響尓 左男鹿者 妻呼令響 春去者 岡邊裳繁尓 巌者 花開乎呼理 痛怜 布當乃原 甚貴 大宮處 諾己曽 吾大王者 君之随 所聞賜而 刺竹乃 大宮此跡 定異等霜
[左注] (右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)