告貴元年の「国分寺」建立詔
「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)において、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の次の「国分寺(国府寺)建立」記事を紹介しました。
「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)
そして、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事が九州王朝による「国府(分)寺」建立詔の反映ではないかと指摘しました。
「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」
以上の考察は後代史料に基づいたものですが、今回、検討を続けている「武蔵国分寺」についていえば、「七重の塔」の造営を7世紀後半と考えると、告貴元年(594)より半世紀以上遅れてしまいます。そうすると、九州王朝による「武蔵国分寺」建立とする仮説は、文献(史料事実)と遺跡(考古学的事実)とが「不一致」となり、ことはそれほど単純ではなかったのかもしれません。
もちろん、全国の「国分寺」が一斉に同時期に造営されたとも思えませんから、武蔵国は遅れたという理解もできないことはありません。しかし、そうであっても半世紀以上遅れるというのは、ちょっと無理がありそうです。「武蔵国分寺」の多元的建立説そのものは穏当なものと思われますが、あまり単純に早急に「結論」を急がない方がよさそうです。(つづく)