土器と瓦による遺構編年の難しさ(6)
創建法隆寺(若草伽藍)出土瓦には異なる年代のものが併存しているにもかかわらず、『昭和資財帳』によればそれら多種類の軒瓦は「前期(592-622年)」「中期(622-643年)」「後期(643-670年)」と分類されています。この分類の当否は別として、これほど暦年にリンクできたのは『日本書紀』という文献史料の存在があったからです。『日本書紀』に記された法隆寺関連記事を根拠に、相対編年した瓦を暦年にリンクできたのですが、その場合は『日本書紀』の法隆寺関連記事が正しいという前提が必要です。特に古田学派にとっては、『日本書紀』は九州王朝の存在を隠し、近畿天皇家に不都合な記事は書き換えられている可能性があるという立場に立っていますから、なおさら慎重な史料批判が必要です。
この点に関しては、天智19年条の記事「法隆寺に火つけり。一屋余すなし。」の通り、火災の痕跡を示す若草伽藍が発見されたことにより、『日本書紀』の法隆寺関連記事は信頼できるとされました。少なくとも創建年代や焼亡年代について積極的に疑わなければならない理由はありませんから、出土瓦は606年(推古14年)の創建頃から670年(天智19年)の焼失までの期間に編年されたわけです。このように瓦の編年が暦年にリンクできたのはとても恵まれたケースといえます。
付け加えておきますと、法隆寺西院伽藍から出土した一群の瓦は「法隆寺式瓦」と呼ばれますが、これは創建法隆寺(若草伽藍)が焼亡した後、和銅年間に移築された現法隆寺(西院伽藍)の移築時に使用された瓦と思われます。その文様は複弁蓮華文などで7世紀後半から8世紀に編年されています。西院伽藍そのものは五重塔芯柱の年輪年代測定などから6世紀末頃から7世紀初頭に建立された寺院と見られており、古田学派では九州王朝の寺院を移築したものと理解されています。しかし、移築時に重く割れやすい瓦は持ち込まれず、斑鳩の近くで造られた瓦が使用されたのではないでしょうか。少なくとも「法隆寺式瓦」の編年を7世紀初頭とすることは無理ですから、このように考えざるを得ません。(つづく)