第2137話 2020/04/19

『九州倭国通信』No.198のご紹介

 先日、「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.198を頂きましたので紹介します。同号には拙稿「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず ―倭人伝の考古学と文献史学―」を掲載していただきました。
 その冒頭の「一、はじめに」で
 〝世にいう「邪馬台国」論争は、古田武彦先生の邪馬壹国博多湾岸説の登場により、学問的には決着がついているとわたしは考えていますが、マスコミや学界では未だに「邪馬台国」論争が続けられています。「邪馬台国」畿内説は学説(学問的仮説・学問的方法)とは言い難いとわたしは考えていますが、本稿ではその理由を説明します。畿内説支持者は気分を害されることとは思いますが、ぜひ最後まで読んでみて下さい。その上で、ご批判・反論をいただければ幸いです。〟
 と前置きして、以下の項目で「邪馬台国」畿内説を批判しました。九州の皆様には特にご納得いただけたものと考えています。

二、畿内説は「研究不正」の所産
三、行程データの原文改定
四、国名データの原文改定
五、総里程データの無視
六、地勢データの無視
七、考古学データの無視
八、最も早く文字を受容した北部九州
九、考古学は科学か「神学」か


第2136話 2020/04/17

厄除けで多利思北孤を祀った大和朝廷

 勤務先の玄関ホール受付に厄除けの神札が貼ってあることに気づきました。京都市南区にある吉祥院天満宮の神札で、「三密除 新型コロナウィルス 禍退散守護」「吉祥院天満宮」「朱雀天皇承平四年菅神勧請…」などと書かれています。企業としては社員の生命・健康が心配ですし、社内で感染者を出したら操業停止の社会的圧力も受けますから、〝神札にもすがる〟気持ちはよくわかります。
 わたしは厄除けの神札が吉祥院天満宮のものであることに興味を持ちました。もちろん御祭神は菅原道真公ですが、九州王朝説の視点ではそれに先立つ「天神」信仰があり、その「天神」とは九州王朝の祖先神である天照大神(アマテラス)たちのことです。ですから「天神」様に病疫退散を願うのは、おそらく古代からの風習だったように思います。
 古代日本にも度々伝染病が流行したことが諸史料に見えます。著名なものでは聖武天皇の時代、天平年間に王朝中枢が九州方面から流行した天然痘の脅威に曝されたことが『続日本紀』に見えます。天平七年(735)八月、大宰府管内で疫病が発生し、九月に新田部親王が、十一月には舎人親王が相次いで薨去します。「この年、天下に豌痘瘡(天然痘)流行」と『続日本紀』に記されています。しかし感染は止まらず、天平九年(737)には、藤原房前(四月)、藤原麻呂・藤原武麻呂(七月)、藤原宇合(八月)と政権中枢の藤原氏一族が次々と病没しています。
 この最中、天平八年(736)二月二二日に天皇家(光明皇后ら)は法隆寺で大規模な法会を開催し、釈迦三尊像に多くの奉納品を施入しています(『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』による)。この法会・施入が「二月二二日」であることにわたしは注目し、「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」(『古代に真実を求めて』15集、2012年)を発表しました。この「二月二二日」は釈迦三尊像の光背銘に記された九州王朝の天子、上宮法皇(阿毎多利思北孤)の命日であり、いわゆる近畿天皇家の「聖徳太子」の命日(二月五日、『日本書紀』推古紀)ではありません。
 『日本書紀』が成立した養老四年(720)からわずか十六年後に行われた法会の時に、大和朝廷の皇后や官僚たちが、自らが編纂した『日本書紀』に記された「聖徳太子」の命日を知らなかったとは考えられませんし、何よりも大宝元年(701)に「王朝交替」した近畿天皇家にとって前王朝(倭国・九州王朝)の天子(多利思北孤)を象(かたど)った釈迦三尊像や和銅年間に移築した法隆寺が九州王朝の寺院であったことを忘れ去っていたはずはありません。こうした理由から、近畿天皇家は九州地方から発生した天然痘の流行を前王朝の祟(たた)りと考え、その前王朝の寺院(法隆寺)で大規模な法会を多利思北孤の命日「二月二二日」に開催したものであり、従って法隆寺は「九州王朝鎮魂の寺」であったとする仮説を拙論で発表しました。
 同論文は小論ではありますが、わたしとしては自信作の一つです。吉祥院天満宮の「神札」を見て、この論文のことを思い出しました。一日も早く新型コロナウィルスの流行が終わり、「関西例会」などの活動が再開できることを祈っています。


第2135話 2020/04/13

『古田史学会報』157号のご紹介

 『古田史学会報』157号が発行されましたので紹介します。
本号の一面は札幌市の阿部さんの論稿です。九州年号の使用が仏教関連に限定されており、九州王朝律令には政治的公文書に年号使用の規定はなかったとする研究です。わたしの説とは異なりますが、史料根拠と論理性が明確な好論です。カール・ポパーが「反証主義」で主張しているように、学問(科学)においては「反証可能性」の有無が重要で、阿部稿にはこの「反証可能性」が担保されています。
わたしは、「九州王朝系近江朝廷の『血統』 ―『男系継承』と『不改常典』『倭根子』―」と「松江市出土の硯に『文字』発見 ―銅鐸圏での文字使用の痕跡か―」の2編を発表しました。いずれも従来にはない視点で各テーマを取り上げました。ご批判をお願いします。
大原稿は三星堆の青銅立人と土偶の共通性を論じたもので、先駆的な仮説であり、説得力を感じました。好論です。
157号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。
本号は会費振込用紙を同封して会員の皆様に発送しています。2020年度会費の納入をお願いします(一般会員3,000円、賛助会員5,000円)。

『古田史学会報』157号の内容
○「倭国年号」と「仏教」の関係 札幌市 阿部周一
○九州王朝系近江朝廷の「血統」 ―「男系継承」と「不改常典」「倭根子」― 京都市 古賀達也
○七世紀後半に近畿天皇家が政権奪取するまで 八尾市 服部静尚
○松江市出土の硯に「文字」発見 ―銅鐸圏での文字使用の痕跡か―
○三星堆の青銅立人と土偶の神を招く手 京都府大山崎町 大原重雄
○沖ノ島出土のカットグラスはペルシャ製 編集部
○「壹」から始める古田史学・二十三
磐井没後の九州王朝3 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・関西 史跡めぐりハイキング
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせと連絡先
○2020年度会費納入のお願い
○新型コロナウィルスの対策方針として 古田史学の会・代表 古賀達也
○編集後記 西村秀己


第2134話 2020/04/13

「大宝二年籍」断簡の史料批判(10)

 わたしが古代戸籍研究に入った目的は、二倍年暦の痕跡調査のためでした。古田先生が『三国志』倭人伝に見える倭人の長寿記事(その人の寿考、或いは百年、或いは八・九十年)に着目され、弥生時代における倭国の二倍年暦(一年に二歳年をとる)の存在という仮説を提起され、その後、『古事記』『日本書紀』の天皇の長寿年齢も二倍年暦によるものが見られるとされました。その研究を受けて、日本列島でいつ頃まで二倍年暦が採用されていたのかを調査していて、古代戸籍にわたしは注目したのです。
 一応の目安としては、九州年号「継体」が建元(517年)された六世紀初頭には一倍年暦の暦法が採用されていたと考えられますが、他方、人の寿命についてはそれまでの二倍年暦に基づいた謂わば「二倍年齢」による年齢計算がなされていた可能性についても留意が必要でした。その場合、一倍年暦による暦法と「二倍年齢」による年齢表記が史料中に併存するはずと考えていました。その一例として、継体天皇の寿命が『古事記』では43歳、『日本書紀』では82歳と記されており、両書の差が「二倍年齢」によるものと考えられます。このことから、六世紀前半には「二倍年齢」の採用が継続されていたと思われます。
 そこで、次にわたしは六世紀後半から七世紀にかけての「二倍年齢」採用の痕跡を探るために、「大宝二年籍」断簡の年齢表記の精査を行いました。(つづく)


第2133話 2020/04/12

野田利郎稿「伊都国の代々の王とは

     ―『世有王』の新解釈―」への批評

本日、『古代に真実を求めて』編集長の服部静尚さんから頂いたメールによれば、『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 ―消えた古代王朝―』(『古代に真実を求めて』23集)に一般論文として掲載された野田利郎さんの論稿「伊都国の代々の王とは ―『世有王』の新解釈―」に対する批評が「古代史の散歩道など」というブログ(主宰者不詳)に掲載されているとのこと。
 早速、ブログを拝見したところ、同批評は『季刊邪馬台国』131号に掲載されている塩田泰弘稿「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」の書評中にありました。真摯で学問的な好意的批評でした。野田稿を採用したわたしたち編集部にとっても、喜ばしいことです。一部を転載し、紹介します。

【以下、転載】
「古代史の散歩道など」
https://toyourday.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-345ed0.html
2020年4月 8日 (水)
新・私の本棚 季刊邪馬台国 131号 塩田泰弘「魏志が辿った..」3/5
「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」2016/12刊行
(前略)
 ところが、近刊の古田史学論集第23集掲載の野田利郎氏の「伊都国の代々の王とは~世有王の新解釈~」は、豊富な古典用例に基づき後出倭人伝伊都条の「丗有王皆統屬女王國」を「世に有る王は、皆女王国に統属する」と読み、倭人伝列国に皆王があり女王に属したとしています。
 定説が「丗有王」を「世世有王」と改竄して、「伊都には歴代王がいる(が、他国は特記しない限り、王がいない)」と伊都特定記事と見たのが早計としているのです。いや、さすがの古田氏も、この原本改定は見逃していたようです。(中略)
 野田氏は、范曄が、倭人伝の紙背を読んで明解に書き立てたと見て、素人目には倭人伝界で不評の笵曄株を上げる、一聴に値する論考としていて、小なりと言えども首尾が整っています。(中略)
 古田史学会誌は、ことのほか厳しい論文査読で定評があり、ここでも精妙で画期的な論考を査読、提供しています。
 今後、当論文に関し、広く追試や批判が出て来るものと期待しています。


第2132話 2020/04/11

南秀雄さんから「研究紀要」を頂きました

 昨年6月、I-siteなんばで開催された古代史講演会(「古田史学の会」共催)で、「日本列島における五~七世紀の都市化 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」というテーマで講演していただいた考古学者の南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)から『大阪市文化財協会 研究紀要 21号』(2020年3月)を御贈呈いただきました。
 同書には南さんらの論文「難波堀江の学際的検討」が掲載されています。同論文は『日本書紀』仁徳紀に記されている「難波堀江掘削」記事の実態に迫った学際的研究で、大阪の考古学者を始め地質学・堆積学・河川工学の研究者が参加されています。詳細については精読させていただいてから、紹介したいと思います。
 『古田史学会報』155号や「洛中洛外日記」の「法円坂巨大倉庫群の論理」1923~1927話(2019/06/16-20)でも触れましたが、昨年六月の南さんの講演で、わたしが特に注目したのは次の点でした。

 「古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。」

 古墳時代において、日本列島内最大規模の都市で七世紀には前期難波宮がおかれた大阪市上町台地北端と九州王朝の中枢地域である博多湾岸(比恵・那珂遺跡)が「国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如く」とする指摘は重要です。
 前期難波宮九州王朝複都説に反対される論者の中には、古代の筑紫と難波の関係を疑問視する意見もあるようですが、南さんら考古学者の指摘を無視することなく真摯に受け止めていただきたいと願っています。


第2131話 2020/04/10

「大宝二年籍」断簡の史料批判(9)

延喜二年『阿波国戸籍』を例に挙げて、古代戸籍における偽籍という問題と、その偽籍に「二倍年齢」による「年齢加算」の痕跡がある可能性について論じました。そして、古代戸籍にも史料批判が必要であり、そこに記された高齢表記をそのまま「実証」として、古代人の年齢の根拠とすることの学問的危険性について注意を促しました。
 そこでようやく本シリーズのテーマとした「大宝二年籍」断簡の史料批判に入ります。現存最古の戸籍である「大宝二年籍」は、延喜二年『阿波国戸籍』のような極端な偽籍はないようなのですが、それでもこれまでの研究では様々な問題点が指摘され、その解釈について諸説が出されています。特に、同じ大宝二年の造籍であるにもかかわらず、筑前・豊前の西海道戸籍と美濃国戸籍とでは様式が大きく異なっており、より規格が統一された西海道戸籍は大宰府により『大宝律令』に基づいて造籍され、美濃国戸籍は古い飛鳥浄御原令に基づいたとされています。(つづく)


第2130話 2020/04/09

4月度「古田史学の会」関西例会を中止します

 この度の新型コロナウィルス対策として発出された政府の緊急事態宣言により、4月18日の「古田史学の会」関西例会会場のドーンセンターが閉鎖となりました。そのため、「古田史学の会」では4月度の関西例会中止を決定しましたので、お知らせいたします。
 関係者、会員の皆様にはご迷惑やご心配をおかけすることになり、申し訳ございません。今後の「関西例会」など諸行事の開催状況につきましても適切に判断し、ホームページ「新・古代学の扉」で案内いたしますので、皆様のご理解とご協力をお願い申し上げます。会員の皆様におかれましては一層ご健康に留意していただき、またお元気なお顔を拝見できることを願っております。

追伸 「市民古代史の会・京都」主催の古代史講演会も4月度(講師:古賀)・5月度(講師:正木さん)の中止を決定されたとのご連絡をいただきましたので、ご一報申し上げます。


第2129話 2020/04/09

長野県中野市から弥生中期の鉄加工場出土

山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」に、吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)からの「信濃毎日新聞」(4月3日)の記事の紹介が掲載されていました。
 記事によると、長野県中野市の「南大原遺跡」から弥生中期(約2000年前)の集落跡と、その中の竪穴住居跡からの、鉄を加工していたとみられる「火床」、加工した際に飛び散ったとみられる「鉄片」、鉄をたたく事に使える「石の道具」、「鉄製の斧」などが出土し、これら遺品から、ここで集落外から持ち込んだ鉄や鉄器を二次的に加工していたと判断されたとのことです。
 弥生中期、このような炉を持った鉄の加工場は全国でも珍しく、「中期の加工場跡の確認例は西日本でも九州などに限られる」と記事にはあります。この出土事実から、九州と信州の弥生時代に遡る交流を吉村さんは指摘されています。注目すべき発見です。


第2128話 2020/04/07

奈良新聞に

『古代に真実を求めて』23集プレゼントの案内

 奈良新聞(2020.04.04)に、古代大和史研究会(原幸子代表)からの『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 消えた古代王朝』(『古代に真実を求めて』23集)読者プレゼントの案内が掲載されました。
 記事には次のように同書が紹介されています。

 〝古代史研究家の故古田武彦氏は、大和朝廷に先立って九州王朝が存在し、中国史書に見える「倭国」とは九州王朝とする多元的歴史観・九州王朝説を提唱した。同書は古田氏の多元的歴史観に基づく史料批判により、「古事記」「日本書紀」の中に失われた九州王朝「倭国」の痕跡を探り出し、「真実の古代史像」を明らかにする。〟

 奈良新聞の読者に古田史学・古田武彦ファンが増えることが期待されます。古代大和史研究会の取り組みと、掲載していただいた奈良新聞に感謝いたします。


第2127話 2020/04/06

「大宝二年籍」断簡の史料批判(8)

 延喜二年『阿波国戸籍』に古い「二倍年齢」の痕跡があることを紹介しましたが、実はこの時代にも民衆の間では「二倍年齢」で年齢計算されていたのではないかと思われる史料があります。それは、平安時代を代表する学者・詩人であり、有能な政治家でもあった菅原道真の漢詩「路遇白頭翁」(路に白頭翁に遇ふ)です。ちなみに菅原道真は、仁和二年(886)から寛平二年(890)までの四年間、讃岐国司の長官である「讃岐守(さぬきのかみ)」として讃岐で時を過ごしています。延喜二年(902)の造籍の十年ほど前で、ほぼ同時代の成立です。
 『菅家文草』に収録されている「路遇白頭翁」は、讃岐の国司となった道真と道で出会った白髪の老人との問答を漢詩にしたものです。その老人は自らの年齢を「九十八歳」と述べ、道真は次のように問います。
 「その年で若々しい顔なのはどのような仙術ゆえか。すでに妻子もなく、また財産もない。姿形や精神について詳しく述べよ。」

 すなわち、都から讃岐に赴任した道真には、道で出会った老人がとても「九十八歳」には見えなかったことがわかります。わたしはこの「路遇白頭翁」の年齢記事と延喜二年『阿波国戸籍』の超長寿者を根拠に、九~十世紀の讃岐や阿波には「二倍年暦」「二倍年齢」が遺存していたとする研究「西洋と東洋の二倍年暦 補遺Ⅱ」を「古田史学の会」関西例会(2003年4月19日)で発表したことがあります。その論証や結論に自信がなかったこともあり、今まで論文発表してきませんでした。今回のテーマで延喜二年『阿波国戸籍』について論じたこともあり、「洛中洛外日記」で紹介することにしました。(つづく)

【「路遇白頭翁」口語訳】
 ※ブログ「山陰亭」より引用させていただきました(句読点は古賀が付記)。

「道で白髪頭の老人に出会う」

 道で白髪頭の老人に出会う。頭髪は雪のように白いのに、顔は(若者のように)赤味を帯びている。
 自ら語る。
 「歳は九十八歳。妻も子もなく、貧しい一人暮らし。茅で葺いた柱三間の貧居が南の山のふもとにあり、(土地を)耕しもせず商いもせず、雲と霧の中で暮らしております。財産としては家の中に柏の木で作った箱が一つ。箱の中にあるのは竹籠一つでございます。」
 老人が話を終えたので、私は問うた。
 「その年で若々しい顔なのはどのような仙術ゆえか。すでに妻子もなく、また財産もない。姿形や精神について詳しく述べよ。」
 老人は杖を投げ出して(私が乗っている)馬の前で一礼し、丁寧に(私の言葉を)受けて語る。
 「(それでは私が元気な)理由をお話し致します。(今から十年ほど前の)貞観の末、元慶の始め(の頃は)、政治に慈悲(の心)はなく、法律も不公平に運用されていました。旱魃が起きても(国司は減税措置を取るよう朝廷に)申請することもせず、疫病で死ぬ者がいても(役人は食料を援助して)哀れむことはありませんでした。(かくして国内全域が荒廃し)四万余りの民家にいばらが生え、十一県に炊事の煙が立たなくなりました。
 (しかし)偶然(ある)太守に出会いました。(それは)「安」を姓とする方〈現在の上野介(安倍興行)のことである〉(安様は)昼夜奔走して村々を巡視されました。(すると)はるばる名声に感じ入って、(課税を逃れて他国へ)逃亡した者も帰還し、広く物品を援助し、疲弊した者も立ち上がりました。役人と民衆が向かい合い、下の者は上の者をたっとび、老人と若者が手をつなぎ合い、母は子(の孝行心)を知りました。
 さらに太守を得ました。(それは)「保」を名に持つ方〈現在の伊予守(藤原保則)のことである〉(彼は)横になったまま滞ることなく政務を執り、国内は平和になりました。春は国内を巡視しなくとも生気が隅々まで届き、秋は実り具合を視察しなくても豊作となりました。天が二つに袴が五本と通りには称讃の言葉。黍はたわわに麦はふた股と、道には(喜びの)声。
 翁めは幸運にも保様と安様の徳に出会い、妻がおらずとも耕さずとも心はおのずと満ち足りております。隣組の人が衣服を提供してくれますので、体はとても温かく、近所の人と一緒に食事をしますので食べ物にも事欠きません。楽しみはその(貧しいながら悠々自適の生活の)中にあって、憂いや憤懣を断ち、心中には余計な思いもなく、体力を増します。(それゆえ)鬢(耳周辺の髪)のあたりが白くなることにも気付かず、自然と顔が(若々しく)桃色になるのです。」と。
 私は 老人の語った言葉を聞き、礼を述べて老人を帰らせ(話の内容を)振り返って思う。「安」を姓とする人には私の兄の(ような)恩義がある。「保」を名に持つ人には私の父の(ような)慈愛がある。(この国には)すでに父兄の恩愛が残っている。どうか(私も彼等の)積み重ねた善行(の遺産)によって上手く治めたいものだ。(だが)とりわけ昔どおりには行かないのはどの事柄だろう。
 (詩の題材となる)明るい月や春の風は時世にそぐわない。(興行殿の)奔走をまねようとしても身体が皆ままならず、(保則殿の)臥聴に倣おうとしても(そこまで)年齢を重ねていない。その他の政治の手法にも変更がないことはないだろう。奔走する合間に私は(政務の一端として)詩を詠もう。


第2126話 2020/04/05

「大宝二年籍」断簡の史料批判(7)

 延喜二年(902)『阿波国戸籍』には各種の偽籍がなされていると考えられます。たとえば、班田の没収を避けるため、死亡者を除籍せずに年齢加算し登録するという偽籍による高齢者の「増加」現象。兵役や徴用を逃れるために男子を戸籍に登録しない、あるいは女性として登録するという偽籍による女性比率の「増加」現象。そして、婚姻による他家への転籍者を除籍せず、班田を維持するための偽籍による高齢女性の「増加」現象。更には、班田受給年齢の六歳にはやく到達するため、「二倍年齢」による年齢加算という偽籍による幼年者「減少」現象などの痕跡が見て取れます。
 「粟凡直成宗」の戸(家族)の戸主の両親(父98歳、母107歳)が飛び抜けた超長寿として偽籍されている理由は不明ですが、父が「従七位下粟凡直田吉」として登録されていることから、「従七位下」という位階を持つために偽籍されたのかもしれません。この偽籍によりどのようなメリットがあるのかはわかりませんが、たとえば五位以上であれば「位田」が受給できますから、「従七位下」でも何らかの特典があったのかもしれません。今後の研究テーマにしたいと思います。
 延喜二年『阿波国戸籍』のように、偽籍が顕著に認められるケースもあれば、それほどでもない戸籍もあります。しかし、古代戸籍を歴史研究の史料として使用する場合は、この偽籍の可能性を充分に検討したうえで使用しなければなりません。文献史学における基本作業としての「史料批判」が古代戸籍にも不可欠なのです。すなわち、「史料批判」というどの程度真実が記されているのかという基本調査が必要です。ある古代戸籍に長寿者が記録されているという「史料事実」を無批判に採用して、その時代の寿命の根拠とすることは学問的手続きを踏んでおらず、その結論は学問的に危ういものとなるからです。(つづく)