第2113話 2020/03/17

蘇我氏研究の予察(3)

 蘇我氏と「葛城」に深い関係があるように『日本書紀』が編纂されたのは、九州王朝の天子、多利思北孤の事績を「聖徳太子」記事として転用し、同時に多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も「蘇我氏」記事に転用するためではなかったかと、わたしは予察しているのですが、その根拠として次の論理性と史料状況があげられます。

①『日本書紀』編者は、九州王朝の天子、阿毎多利思北孤やその太子、利歌彌多弗利の事績を『日本書紀』に転用する際、同時代の近畿天皇家内の人物「聖徳太子」(厩戸皇子)に〝横滑り〟させている。
②従って、多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も、同事態の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」に〝横滑り〟させていると考えられる。
③そのことを支持するように、蘇我氏と「葛城」とを関連付ける記事(蘇我馬子が葛城県を祖先の地として永久所有権を推古天皇に要請し、拒否される)が「聖徳太子」の時代、推古紀(32年条、624年)に現れている。
④この理解が正しければ、推古紀32年条の「葛城県、永久所有権申請」記事も、本来は九州王朝の天子、多利思北孤にその重臣「葛城臣」が北部九州の「葛城県」の「永久所有権」を「申請」した記事の転用と考えることができる。
⑤この考えを支持するかのように、「聖徳太子」の伝記『聖徳太子伝暦』推古天皇二十九年条の「葛城寺」注文に「蘇我葛木臣」と、近畿天皇家の「蘇我氏」と「葛木臣」を習合させた表記が見える。

 以上の予察(論証)によるならば、『日本書紀』の七世紀前半頃の「蘇我氏」関連記事には九州王朝・多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績転用部分と本来の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」の事績部分が混在していることになるので、それらを分別する学問的方法論の確立が必要となります。(つづく)


第2112話 2020/03/16

蘇我氏研究の予察(2)

 服部さんが指摘されたように、『日本書紀』に見える蘇我氏と「葛城」との不自然な関係付け記事にこそ、わたしは九州王朝説からの蘇我氏研究アプローチの鍵があるのではないかと直感しました。そしてその鍵を解くもう一つの鍵が九州王朝系史料にありました。それは、九州年号「法興」史料として有名な「伊予温湯碑文」(「伊予湯岡碑文」)です。
 現在、同碑は所在不明となっていますが、碑文冒頭には次の記事があったとされています。

 「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」(『釈日本紀』所引『伊予国風土記』逸文)

 ここには三名の称号・名前が記されています。「法王大王」「恵忩法師」「葛城臣」です。なお、「法王大王」を「法王」と「大王」の二人(兄弟)を表すとする理解もありますが、本稿では従来説に従い、「法王大王」という人物一人としておきます(本稿の論点の是非に直接関わらないため)。厳密に言うのなら、「我法王大王」(わが法王大王)の「我」(わが)という、本碑文の作成人物の存在もありますが、その名前や称号は不明ですので、本稿では取り上げません。
 古田説では碑文の「法王大王」は『隋書』に見える九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤(法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える上宮法皇)のこととされ、「法興六年」はその年号で596年のこととされます。碑文に見える「法王大王」に従っている人物は、僧侶の「恵忩法師」と臣下の「葛城臣」の二人だけですので、いずれも天子に付き従って伊予まで来るほどの九州王朝内での重要人物と思われます。
 特に「葛城臣」にわたしは注目しました。もしかすると、『日本書紀』編者は九州王朝の重臣「葛城臣」を近畿天皇家の重臣「蘇我氏」に重ね合わせようとして、蘇我氏と「葛城」に深い関係があるように『日本書紀』を編纂した、あるいは、九州王朝史書の多利思北孤の事績を「聖徳太子」記事として転用し、その際、多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も「蘇我氏」記事に転用したのではないでしょうか。
 この点、「葛城」という地名が、大和にも北部九州(『和名抄』肥前三根郡に葛城郷が見える)にもあったことが、「葛城臣」記事を『日本書紀』に転用しやすくさせた一つの要因になったと思われます。(つづく)

【以下はウィキペディアより転載】
 ※近畿天皇家一元史観に基づく解説が採用されており、古田史学とは異なる部分がありますので、ご留意下さい。。

伊予湯岡碑(いよのゆのおかのひ)

法興六年[注 1]十月、歳在丙辰、我法王大王[注 2]与恵慈法師[注 3]及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。
惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以[注 4]妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異干寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽[注 5]。窺望山岳之巖※(山偏に「咢」)、反冀平子[注 6]之能往。椿樹相※(「广」の中に「陰」)而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢[注 7]、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊[注 8]、豈悟洪灌霄庭意歟[注 9]。
才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。

『釈日本紀』所引または『万葉集註釈』所引『伊予国風土記』逸文より。

注釈
1.「法興」は私年号で、法興寺(飛鳥寺)建立開始年(西暦591年)を元年とし、法興6年は西暦596年になる(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
2.「法王大王」は聖徳太子を指す(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
3.底本では「恵忩」であるが、「恵慈」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
4.底本では「万所以機」であるが、「万機所以」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
5.底本では「化弱」であるが、「化羽」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
6.底本では「子平」であるが、「平子」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
7.底本では「吐下」であるが、「哢」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
8.底本に「以」は無いが、意補(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
9.底本では「与」であるが、「歟」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。


第2111話 2020/03/15

蘇我氏研究の予察(1)

 「洛中洛外日記」2108話(2020/03/12)「『多元』No.156のご紹介」で、『多元』No.156に掲載された服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「七世紀初頭の近畿天皇家」をわたしは好論と評しました。その主たる理由は、蘇我氏と近畿天皇家の関係を論ずるにあたり、ピックアップされた『日本書紀』の蘇我氏関連記事が網羅的で、蘇我氏研究に役立つと思われたことでした。なかでも、『日本書紀』に見える蘇我氏と葛城氏とを結びつける記事や解釈に注目された点に、わたしは触発されました。そこで、九州王朝説による蘇我氏研究のアプローチ方法を示し、その予察を述べてみたいと思います。
 服部稿では蘇我氏と葛城臣とを同一とする『日本書紀』の記述を疑い、次のように論じておられます。

〝推古紀三二年(六二四)の、蘇我馬子が推古天皇に葛城県の永久所有権を請う記事を、岩波書店の『日本書紀』は「皇極元年に蘇我大臣蝦夷が葛城高宮に祖廟を立てるとあり、馬子は葛城臣ともいったのであろう。他に伝暦に蘇我葛木臣に賜う。」と注釈して辻褄を合わそうとする。しかし、蘇我氏が葛木に因んだ姓名を使ったという記述は見られない。〟(『多元』No.156、p.7)

 この服部さんの指摘は理解できますが、それではなぜ『日本書紀』には蘇我氏と「葛城」を結びつけるような記事が散見されるのかという、『日本書紀』編者の認識に迫る作業(フィロロギー)が必要です。この点についてのわたしの考え(予察)を述べることにします。(つづく)


第2110話 2020/03/14

『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独
   ―消えた古代王朝―』の目次
(『古代に真実を求めて』23集)

『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 ―消えた古代王朝―』(『古代に真実を求めて』23集)の目次を紹介します。既に印刷製本の最中と思われますが、今月末か四月初旬には発刊となる予定です。「古田史学の会」2019年度賛助会員(年会費5,000円)には明石書店から順次配送されます。配送作業に日数がかかりますので、しばらくお待ちいただきますようお願い申し上げます。一般会員や非会員の方は書店かアマゾンでご注文下さい。「古田史学の会」が全国の古代史ファンに贈る珠玉の論稿を収録した一冊です。

『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 ―消えた古代王朝―』
(『古代に真実を求めて』第23集 古田史学の会編・明石書店)

【目次】
◆巻頭言 「日本書紀」に息づく九州王朝 古賀達也

◆特集 「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 ―消えた古代王朝―

『日本書紀』をわれわれはどう読めばいいのか 茂山憲史
『記・紀』の「天」地名 新保高之
「海幸・山幸神話」と「隼人」の反乱 正木 裕
神武東征譚に転用された天孫降臨神話 古賀達也
神功皇后・俾弥呼と四人の筑紫の女王 正木 裕
継体と「磐井の乱」の真実 正木 裕  
聖徳太子は九州王朝に実在した ―十七条憲法の分析より― 服部静尚
天文記事から見える倭の天群の人々・地群の人々―七世紀の二つの権力― 谷川清隆
「大化」「白雉」「朱鳥」を改元した王朝 古賀達也
白村江を戦った倭人 ―『日本書紀』の天群・地群と新羅外交― 谷川清隆
『旧唐書』と『日本書紀』 ―封禅の儀に参列した「筑紫君薩野馬」― 正木 裕
壬申の乱と倭京 服部静尚
 コラム①『古事記』千三百年の孤独 古賀達也
 コラム②『古事記』『日本書紀』の「倭国」と「日本国」 古賀達也
 コラム③二つの漢風諡号「皇極」「斉明」 古賀達也
 コラム④『日本書紀』は隠していない 岡下英男

◆一般論文
なぜ蛇は神なのか?どうしてヤマタノオロチは切られるのか? 大原重雄
伊都国の代々の王とは ―「世有王」の新解釈― 野田利郎
対馬「天道法師」伝承の復元 ―改変型九州年号の史料批判― 古賀達也
『日本書紀』十二年後差と大化の改新 日野智貴
 コラム⑤ 鬯(暢)草とは何か 高橋剛治

●付録
古田史学の会・会則
「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
編集後記


第2109話 2020/03/13

「鬼室集斯の娘」逸話(2)

 安田陽介さんやわたしが「鬼室集斯の娘の石碑」なるものの存在を知ったのは、『市民の古代研究』(21号、1987年5月)に掲載された平野雅※廣さん(熊本市、故人)の論稿「鬼室集斯の墓」で紹介された次の記事でした。

【以下、転載】
 今は廃刊になっているが、『日本のなかの朝鮮文化』一九七〇年第八号に、「日野の小野」と題する鄭貴文氏の随筆が出ている。
 (抜粋)
 ……ところで、綿向山であるが、その境の山深くに鬼室集斯の娘の石碑があった。「墳墓考」に、「蒲生郡日野より東の方三里ばかりの山中に、古びた石碑あり、正面に鬼室王女、その下に施主国房敬白、右の傍らに朱鳥三年戊子三月十七日と彫りたるがあり。」とある。
【転載おわり】

 この記事によれば、鬼室集斯の娘(鬼室王女)の石碑が蒲生郡の山中にあり、九州年号の「朱鳥三年戊子三月十七日」と刻されているとのこと。これが同時代(七世紀末)の金石文であれば九州年号史料として貴重ですし、後代に造立されたものであっても、「朱鳥三年戊子三月十七日」に「鬼室王女」が没したと思われる伝承が当地に残っていたこととなります。(おわり)
※廣:日偏に「廣」


第2108話 2020/03/12

『多元』No.156のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.156が先日届きました。同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「七世紀初頭の近畿天皇家」が掲載されていました。同稿は『日本書紀』に記された蘇我氏関連の記事をピックアップし、七世紀前半までは、九州王朝の重臣である蘇我氏が近畿天皇家よりも上位で、その関係が「乙巳の変(645年)」で逆転したとするものです。
 蘇我氏研究は一元史観でも多元史観でも多くの研究が発表されており、古田学派内でも蘇我氏を九州王朝の天子・多利思北孤とする説、九州王朝が大和に派遣した近畿天皇家のお目付役説など諸仮説が出されてきました。わたしの見るところ、失礼ながらいずれの仮説も論証が成立しているとは言い難く、自説に都合のよい記事部分に基づいて立論されたものが多く、いわば「ああも言えれば、こうも言える」といった研究段階に留(とど)まってきました。
 その点、服部稿は「乙巳の変までは、近畿天皇家よりも蘇我氏が上位」という史料的に根拠明示可能な「限定的仮説」の提起であり、学問的に慎重な姿勢を保っておられます。また、ピックアップされた『日本書紀』の記事には改めて着目すべきこともあり、わたしも蘇我氏研究に取り組んでみたくなるような好論でした。
 ちなみに、古田先生は「蘇我氏」についてはあまり論述されていません。それほど難しいテーマということだと思います。


第2107話 2020/03/12

「鬼室集斯の娘」逸話(1)

 わたしが古田先生の著書(※初期三部作)に出会い、いたく感銘し、どうしても著者に会いたいと、「市民の古代研究会 ―古田武彦と共に―」に入会したのは1986年のことでした。当時のわたしの研究テーマは九州年号と古代貨幣で、特に九州年号は多くの会員が研究しておられ、その後を追うように、わたしも先輩に教えを請いながら手探りで研究を進めたものです。
 そのようなとき、一緒に調査研究を行ってくれたのが、当時、京都大学生だった安田陽介さんでした。安田さんは京大で国史(日本古代史)を専攻されており、国史大系本『続日本紀』の漢文をすらすらと読み下せるほどの俊英で、わたしは多くのことを教えていただいたものです。その安田さんと鬼室集斯墓碑研究のため二度ほど現地調査を行いました。初めて鬼室神社を訪問したとき、途中でレンタカーがパンクするというアクシデントが発生したのですが、安田さんはあわてることもなく、備え付け工具を使用して短時間でスペアタイヤと交換してしまいました。安田さんは頭が良いだけではなく、まさに歴史を足で知るアウトドア派でもあり、それは見事な手際だったことを記憶しています。
 そのときの調査目的は鬼室神社にある鬼室集斯墓碑の実見と、鬼室集斯の娘の石碑調査でした。鬼室神社の氏子さんのご協力により、墓碑調査は行えたのですが、娘の石碑については所在も不明で、何の手がかりも得ることができませんでした。それは今も手つかずのままで、三十年近く経ってしまいました。どなたか現地調査を手伝っていただける方はおられないでしょうか。(つづく)

※古田武彦「初期三部作」 『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』朝日新聞社刊。現在はミネルヴァ書房より復刊されています。


第2106話 2020/03/11

七世紀の筆法と九州年号の論理

 鬼室集斯墓碑の碑文の文字「室」の「ウ冠」第二画が、七世紀まで遡る可能性を有す筆法「撥(はね)型」であることを先の連載で説明してきました。そのとき、国内の「撥型」の例として、法隆寺釈迦三尊像光背銘と『法華義疏』の「宮」をあげました。いずれも九州王朝中枢で成立した一級品の史料ですが、時代が七世紀前半であり、七世紀後半成立の鬼室集斯墓碑(朱鳥三年没、688年)とは半世紀ほどの差がありました。そこで、七世紀後半の同じ近畿地方成立の史料を探したところ、『金剛場陀羅尼経』(国宝)中に「撥型」の「常」「守」などの字がありました。
 『金剛場陀羅尼経』は「丙戌年」(朱鳥元年、686年)「川内國志貴評」などと記された、九州王朝時代のいわゆる「評制史料」です。ですから、鬼室集斯墓碑と時代も地域(近江と川内)も近接しており、その両者に古い字形「撥型」が存在することは興味深い一致点です。なお、『金剛場陀羅尼経』の末尾に記載された写経者の署名「寶林」の「寶」の字の「ウ冠」第二画は「撥型」ではなく、真下に下ろす「押型」であり、経典本文の「ウ冠」に見える「撥型」とは異なっています。この史料事実は写経元の『金剛場陀羅尼経』に「撥型」が採用されていたことをうかがわせ、その元本の成立が七世紀初頭の可能性を示すのではないでしょうか。そして、川内国での七世紀末の流行筆法は「押型」であり、写経者自らの署名には「押型」の「寶」の字形を採用したことになります。なお、『金剛場陀羅尼経』は隋代に漢訳されており、この理解と矛盾しません。
 このように成立時期や地域が近接し、共に「ウ冠」の字形に「撥型」を採用するという共通点を持つ両史料ですが、他方、大きな違いもあります。それは九州年号の「採否」です。百済渡来の官人、鬼室集斯の「庶孫」は墓碑に「撥型」の「室」を使用し、九州年号「朱鳥三年」も採用しています。これは、近江朝の官人(学職頭)であった鬼室集斯の立ち位置(九州年号影響下の官人)を示し、正木裕さんの仮説「九州王朝系近江朝」を支持する史料状況といえます。
 ところが、同じ七世紀末(評制の時代)で近隣の川内国では、仏典の書写に「撥型」の「ウ冠」の字形を使用しながらも、その年次表記には九州年号を使用せず、「丙戌年」(朱鳥元年、686年)と記しています。これは、当時の川内国は近畿天皇家の影響下にあったことを示しているのではないでしょうか。同時期の藤原宮・飛鳥池出土木簡や畿内の金石文に九州年号が記されず、干支表記されていることに対応した史料状況なのです。
 このように、七世紀後半において、九州年号使用の有無が、どの権力者の影響下にあるのかを推察するうえで、ひとつの指標となるように思われ、このことは今後の研究にも役立ちそうです。


第2105話 2020/03/07

三十年ぶりの鬼室神社訪問(10)

 残念ながら、鬼室集斯墓碑の削られた一面の碑文を解読できる技術は未だに開発されていません。従って、墓碑を対象とした実証的な研究を進めることは不可能なので、わたしは論理的に考察を進めました。それは次のような論理展開でした。

①他の三面に残された碑文は、墓の被葬者名(鬼室集斯)、その没年(朱鳥三年戊子十一月八日)、墓の造営者名(庶孫美成)である。
②もし、残る一面に記録すべき文があったとすれば、「庶孫美成」がこの墓を造った造立年と考えるのが穏当であろう。
③その時期は、「庶孫」が造ったとあることから、没年からそう遠く離れた後代ではないと思われる。「室」の字体の筆法からも七世紀末頃まで遡る可能性が高い。
④しかし、何らかの事情により、その造立年は後世のある時点で削られたこととなる。
⑤その造立年には後代の認識や利害からして、削るべき必要性があったと考えざるを得ない。
⑥この②③④⑤を説明できる仮説として、造立年が九州年号の「大化」年間(695-703年)であり、例えば「大化○年○月之建」のようなが碑文があったとするケースが想定される。
⑦すなわち、九州年号「朱鳥」(686-694年)の次の九州年号「大化」が記されていた場合、『日本書紀』成立後の後世において、「朱鳥三年戊子」(688年)に没した鬼室集斯の墓が『日本書紀』に記された大化年間(645-649年)に造られたことになる碑文の年次は「誤り」と認識されてしまう。
⑧その結果、九州年号の記憶が失われた後世において、碑文の「大化」を不審として削られたとする仮説が論理的に成立する。

 以上のように、「削られた碑文」という作業仮説を説明するための論理展開(論証)は進みました。碑面そのものからの碑文復元という実証的説明(実証)は困難ですが、わたしは諦めることなく、その他の方法・分野の調査研究により、この仮説が証明できる日が来ることを願っています。(おわり)


第2104話 2020/03/06

三十年ぶりの鬼室神社訪問(9)

 鬼室集斯墓碑研究史において、誰も取り上げなかったテーマについて、本シリーズの最後に紹介します。それは「削られた碑文」というテーマです。
 古田先生と鬼室集斯墓碑の現地調査を行ったときのことです。八角柱の墓碑には一面おきで計三面に次の文字が彫られています。

【鬼室集斯墓碑銘文】
「朱鳥三年戊子十一月八日(殞?)」〈向かって右側面。最後の一字は下部が摩滅しており不鮮明〉
「鬼室集斯墓」〈正面〉
「庶孫美成造」〈向かって左側面〉

 一面おきですから、八面の内の四面に文字があってもよさそうなのですが、正面の裏側の面には文字が見えません。その面には大きな傷跡があり、本来は文字があったのではないかとわたしは考え、古田先生に「これだけ大きく削られていると、元の文字の復元はできませんね」と申し上げました。そうしたら先生から、「将来、復元技術が開発されるかもしれません。まだ諦めないでいましょう」と諭されました。こうした困難な調査研究であっても、簡単には諦めない研究姿勢とタフな学問精神を、わたしは古田先生から実地訓練で学んできたことを、今更ながら思い起こし、感謝の念が湧き上がってきます。(つづく)


第2103話 2020/03/06

6月に久留米大学で講演します

 本年も久留米大学主催公開講座で講演させていただきます。昨日、同案内のパンフレットが届きました。下記の通り、正木さんとわたしと福山先生(久留米大学教授)による講演となります。皆様のご参加をお待ちしています。

会場:久留米大学御井キャンパス 500号館51A教室
講座名:九州王朝論2020 ―令和記念―

○6月7日(日)12:30~16:00
福山裕夫(久留米大学文学部教授) 「九州王朝(弥生編)」
古賀達也(古田史学の会) 「『日本書紀』に息づく九州王朝 令和二年の日本紀講筵」

○6月14日(日)12:30~16:00
福山裕夫(久留米大学文学部教授) 「筑後の古代遺跡から」
正木 裕(大阪府立大学講師・古田史学の会) 「継体と『磐井の乱』の真実」


第2102話 2020/03/06

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(4)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」が隋代史料(恐らく写経)の影響を受けた可能性について紹介してきましたが、隋代よりも前の、たとえば北魏史料からの影響ということも考えられますので、この点は今後調査したいと思います。
 今回の調査では、隋代の写経史料中にこの「撥型」が多数見受けられましたが、『隋書』国伝にもそのことを裏付けるような国交記事があります。

 「大業三年(607)、其王、多利思北孤、遣使朝貢す。使者曰く〝海西の菩薩天子、重ねて佛法を與すと聞く。故に遣朝し拜す〟。兼ねて沙門數十人來たりて佛法を學ぶ。」

 大業三年(607)に九州王朝の天子、多利思北孤は隋に沙門数十人を派遣し、仏法を学ばせています。この沙門たちにより、隋代史料(写経類)が九州王朝にもたらされ、同時に筆法も導入されたのではないでしょうか。
 他方、隋では大業年間頃(605年~)から筆法に変化が生じ、「撥型」から「押型」などに変化したとすれば、九州王朝にその変化が伝わらなかった、あるいは受容しなかったのかもしれません。そのことを示唆する次の言葉で『隋書』国は締めくくられているからです。

 「此の後、遂に絶つ。」

 このように大業年間以降に九州王朝と隋は国交断絶します。これらの記事と国内史料・隋代史料が示す「撥型」筆法変遷との対応は、偶然の一致とは考えにくいように思われるのです。(終わり)