第2109話 2020/03/13

「鬼室集斯の娘」逸話(2)

 安田陽介さんやわたしが「鬼室集斯の娘の石碑」なるものの存在を知ったのは、『市民の古代研究』(21号、1987年5月)に掲載された平野雅※廣さん(熊本市、故人)の論稿「鬼室集斯の墓」で紹介された次の記事でした。

【以下、転載】
 今は廃刊になっているが、『日本のなかの朝鮮文化』一九七〇年第八号に、「日野の小野」と題する鄭貴文氏の随筆が出ている。
 (抜粋)
 ……ところで、綿向山であるが、その境の山深くに鬼室集斯の娘の石碑があった。「墳墓考」に、「蒲生郡日野より東の方三里ばかりの山中に、古びた石碑あり、正面に鬼室王女、その下に施主国房敬白、右の傍らに朱鳥三年戊子三月十七日と彫りたるがあり。」とある。
【転載おわり】

 この記事によれば、鬼室集斯の娘(鬼室王女)の石碑が蒲生郡の山中にあり、九州年号の「朱鳥三年戊子三月十七日」と刻されているとのこと。これが同時代(七世紀末)の金石文であれば九州年号史料として貴重ですし、後代に造立されたものであっても、「朱鳥三年戊子三月十七日」に「鬼室王女」が没したと思われる伝承が当地に残っていたこととなります。(おわり)
※廣:日偏に「廣」


第2108話 2020/03/12

『多元』No.156のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.156が先日届きました。同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「七世紀初頭の近畿天皇家」が掲載されていました。同稿は『日本書紀』に記された蘇我氏関連の記事をピックアップし、七世紀前半までは、九州王朝の重臣である蘇我氏が近畿天皇家よりも上位で、その関係が「乙巳の変(645年)」で逆転したとするものです。
 蘇我氏研究は一元史観でも多元史観でも多くの研究が発表されており、古田学派内でも蘇我氏を九州王朝の天子・多利思北孤とする説、九州王朝が大和に派遣した近畿天皇家のお目付役説など諸仮説が出されてきました。わたしの見るところ、失礼ながらいずれの仮説も論証が成立しているとは言い難く、自説に都合のよい記事部分に基づいて立論されたものが多く、いわば「ああも言えれば、こうも言える」といった研究段階に留(とど)まってきました。
 その点、服部稿は「乙巳の変までは、近畿天皇家よりも蘇我氏が上位」という史料的に根拠明示可能な「限定的仮説」の提起であり、学問的に慎重な姿勢を保っておられます。また、ピックアップされた『日本書紀』の記事には改めて着目すべきこともあり、わたしも蘇我氏研究に取り組んでみたくなるような好論でした。
 ちなみに、古田先生は「蘇我氏」についてはあまり論述されていません。それほど難しいテーマということだと思います。


第2107話 2020/03/12

「鬼室集斯の娘」逸話(1)

 わたしが古田先生の著書(※初期三部作)に出会い、いたく感銘し、どうしても著者に会いたいと、「市民の古代研究会 ―古田武彦と共に―」に入会したのは1986年のことでした。当時のわたしの研究テーマは九州年号と古代貨幣で、特に九州年号は多くの会員が研究しておられ、その後を追うように、わたしも先輩に教えを請いながら手探りで研究を進めたものです。
 そのようなとき、一緒に調査研究を行ってくれたのが、当時、京都大学生だった安田陽介さんでした。安田さんは京大で国史(日本古代史)を専攻されており、国史大系本『続日本紀』の漢文をすらすらと読み下せるほどの俊英で、わたしは多くのことを教えていただいたものです。その安田さんと鬼室集斯墓碑研究のため二度ほど現地調査を行いました。初めて鬼室神社を訪問したとき、途中でレンタカーがパンクするというアクシデントが発生したのですが、安田さんはあわてることもなく、備え付け工具を使用して短時間でスペアタイヤと交換してしまいました。安田さんは頭が良いだけではなく、まさに歴史を足で知るアウトドア派でもあり、それは見事な手際だったことを記憶しています。
 そのときの調査目的は鬼室神社にある鬼室集斯墓碑の実見と、鬼室集斯の娘の石碑調査でした。鬼室神社の氏子さんのご協力により、墓碑調査は行えたのですが、娘の石碑については所在も不明で、何の手がかりも得ることができませんでした。それは今も手つかずのままで、三十年近く経ってしまいました。どなたか現地調査を手伝っていただける方はおられないでしょうか。(つづく)

※古田武彦「初期三部作」 『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』朝日新聞社刊。現在はミネルヴァ書房より復刊されています。


第2106話 2020/03/11

七世紀の筆法と九州年号の論理

 鬼室集斯墓碑の碑文の文字「室」の「ウ冠」第二画が、七世紀まで遡る可能性を有す筆法「撥(はね)型」であることを先の連載で説明してきました。そのとき、国内の「撥型」の例として、法隆寺釈迦三尊像光背銘と『法華義疏』の「宮」をあげました。いずれも九州王朝中枢で成立した一級品の史料ですが、時代が七世紀前半であり、七世紀後半成立の鬼室集斯墓碑(朱鳥三年没、688年)とは半世紀ほどの差がありました。そこで、七世紀後半の同じ近畿地方成立の史料を探したところ、『金剛場陀羅尼経』(国宝)中に「撥型」の「常」「守」などの字がありました。
 『金剛場陀羅尼経』は「丙戌年」(朱鳥元年、686年)「川内國志貴評」などと記された、九州王朝時代のいわゆる「評制史料」です。ですから、鬼室集斯墓碑と時代も地域(近江と川内)も近接しており、その両者に古い字形「撥型」が存在することは興味深い一致点です。なお、『金剛場陀羅尼経』の末尾に記載された写経者の署名「寶林」の「寶」の字の「ウ冠」第二画は「撥型」ではなく、真下に下ろす「押型」であり、経典本文の「ウ冠」に見える「撥型」とは異なっています。この史料事実は写経元の『金剛場陀羅尼経』に「撥型」が採用されていたことをうかがわせ、その元本の成立が七世紀初頭の可能性を示すのではないでしょうか。そして、川内国での七世紀末の流行筆法は「押型」であり、写経者自らの署名には「押型」の「寶」の字形を採用したことになります。なお、『金剛場陀羅尼経』は隋代に漢訳されており、この理解と矛盾しません。
 このように成立時期や地域が近接し、共に「ウ冠」の字形に「撥型」を採用するという共通点を持つ両史料ですが、他方、大きな違いもあります。それは九州年号の「採否」です。百済渡来の官人、鬼室集斯の「庶孫」は墓碑に「撥型」の「室」を使用し、九州年号「朱鳥三年」も採用しています。これは、近江朝の官人(学職頭)であった鬼室集斯の立ち位置(九州年号影響下の官人)を示し、正木裕さんの仮説「九州王朝系近江朝」を支持する史料状況といえます。
 ところが、同じ七世紀末(評制の時代)で近隣の川内国では、仏典の書写に「撥型」の「ウ冠」の字形を使用しながらも、その年次表記には九州年号を使用せず、「丙戌年」(朱鳥元年、686年)と記しています。これは、当時の川内国は近畿天皇家の影響下にあったことを示しているのではないでしょうか。同時期の藤原宮・飛鳥池出土木簡や畿内の金石文に九州年号が記されず、干支表記されていることに対応した史料状況なのです。
 このように、七世紀後半において、九州年号使用の有無が、どの権力者の影響下にあるのかを推察するうえで、ひとつの指標となるように思われ、このことは今後の研究にも役立ちそうです。


第2105話 2020/03/07

三十年ぶりの鬼室神社訪問(10)

 残念ながら、鬼室集斯墓碑の削られた一面の碑文を解読できる技術は未だに開発されていません。従って、墓碑を対象とした実証的な研究を進めることは不可能なので、わたしは論理的に考察を進めました。それは次のような論理展開でした。

①他の三面に残された碑文は、墓の被葬者名(鬼室集斯)、その没年(朱鳥三年戊子十一月八日)、墓の造営者名(庶孫美成)である。
②もし、残る一面に記録すべき文があったとすれば、「庶孫美成」がこの墓を造った造立年と考えるのが穏当であろう。
③その時期は、「庶孫」が造ったとあることから、没年からそう遠く離れた後代ではないと思われる。「室」の字体の筆法からも七世紀末頃まで遡る可能性が高い。
④しかし、何らかの事情により、その造立年は後世のある時点で削られたこととなる。
⑤その造立年には後代の認識や利害からして、削るべき必要性があったと考えざるを得ない。
⑥この②③④⑤を説明できる仮説として、造立年が九州年号の「大化」年間(695-703年)であり、例えば「大化○年○月之建」のようなが碑文があったとするケースが想定される。
⑦すなわち、九州年号「朱鳥」(686-694年)の次の九州年号「大化」が記されていた場合、『日本書紀』成立後の後世において、「朱鳥三年戊子」(688年)に没した鬼室集斯の墓が『日本書紀』に記された大化年間(645-649年)に造られたことになる碑文の年次は「誤り」と認識されてしまう。
⑧その結果、九州年号の記憶が失われた後世において、碑文の「大化」を不審として削られたとする仮説が論理的に成立する。

 以上のように、「削られた碑文」という作業仮説を説明するための論理展開(論証)は進みました。碑面そのものからの碑文復元という実証的説明(実証)は困難ですが、わたしは諦めることなく、その他の方法・分野の調査研究により、この仮説が証明できる日が来ることを願っています。(おわり)


第2104話 2020/03/06

三十年ぶりの鬼室神社訪問(9)

 鬼室集斯墓碑研究史において、誰も取り上げなかったテーマについて、本シリーズの最後に紹介します。それは「削られた碑文」というテーマです。
 古田先生と鬼室集斯墓碑の現地調査を行ったときのことです。八角柱の墓碑には一面おきで計三面に次の文字が彫られています。

【鬼室集斯墓碑銘文】
「朱鳥三年戊子十一月八日(殞?)」〈向かって右側面。最後の一字は下部が摩滅しており不鮮明〉
「鬼室集斯墓」〈正面〉
「庶孫美成造」〈向かって左側面〉

 一面おきですから、八面の内の四面に文字があってもよさそうなのですが、正面の裏側の面には文字が見えません。その面には大きな傷跡があり、本来は文字があったのではないかとわたしは考え、古田先生に「これだけ大きく削られていると、元の文字の復元はできませんね」と申し上げました。そうしたら先生から、「将来、復元技術が開発されるかもしれません。まだ諦めないでいましょう」と諭されました。こうした困難な調査研究であっても、簡単には諦めない研究姿勢とタフな学問精神を、わたしは古田先生から実地訓練で学んできたことを、今更ながら思い起こし、感謝の念が湧き上がってきます。(つづく)


第2103話 2020/03/06

6月に久留米大学で講演します

 本年も久留米大学主催公開講座で講演させていただきます。昨日、同案内のパンフレットが届きました。下記の通り、正木さんとわたしと福山先生(久留米大学教授)による講演となります。皆様のご参加をお待ちしています。

会場:久留米大学御井キャンパス 500号館51A教室
講座名:九州王朝論2020 ―令和記念―

○6月7日(日)12:30~16:00
福山裕夫(久留米大学文学部教授) 「九州王朝(弥生編)」
古賀達也(古田史学の会) 「『日本書紀』に息づく九州王朝 令和二年の日本紀講筵」

○6月14日(日)12:30~16:00
福山裕夫(久留米大学文学部教授) 「筑後の古代遺跡から」
正木 裕(大阪府立大学講師・古田史学の会) 「継体と『磐井の乱』の真実」


第2102話 2020/03/06

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(4)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」が隋代史料(恐らく写経)の影響を受けた可能性について紹介してきましたが、隋代よりも前の、たとえば北魏史料からの影響ということも考えられますので、この点は今後調査したいと思います。
 今回の調査では、隋代の写経史料中にこの「撥型」が多数見受けられましたが、『隋書』国伝にもそのことを裏付けるような国交記事があります。

 「大業三年(607)、其王、多利思北孤、遣使朝貢す。使者曰く〝海西の菩薩天子、重ねて佛法を與すと聞く。故に遣朝し拜す〟。兼ねて沙門數十人來たりて佛法を學ぶ。」

 大業三年(607)に九州王朝の天子、多利思北孤は隋に沙門数十人を派遣し、仏法を学ばせています。この沙門たちにより、隋代史料(写経類)が九州王朝にもたらされ、同時に筆法も導入されたのではないでしょうか。
 他方、隋では大業年間頃(605年~)から筆法に変化が生じ、「撥型」から「押型」などに変化したとすれば、九州王朝にその変化が伝わらなかった、あるいは受容しなかったのかもしれません。そのことを示唆する次の言葉で『隋書』国は締めくくられているからです。

 「此の後、遂に絶つ。」

 このように大業年間以降に九州王朝と隋は国交断絶します。これらの記事と国内史料・隋代史料が示す「撥型」筆法変遷との対応は、偶然の一致とは考えにくいように思われるのです。(終わり)


第2101話 2020/03/05

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(3)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」は、いつ頃どこから伝わったのかを調べるために、『書道全集』の「第五巻 中国・六朝」「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」(平凡社、昭和30年)を見てみました。
 本調査に当たり、わたしは九州王朝は中国南朝の冊封を受けた時代が長いことから、筆法も南朝の影響を受けているのではないかと推定し、六朝時代から調査を始めたのですが、結論からいえば「撥型」は隋代に集中して出現していました。もっとも、『書道全集』という限定された史料対象から得た「結論」ですから、現時点での理解といわざるを得ませんが、とても興味深い現象でした。
 『書道全集』「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」に見える「撥型」の文字は次の史料に散見されました。JISコードにない旧字体は新字体に改めましたが、「撥型」調査結果には影響しません。

○『佛説月鐙三昧経』「大隋開皇九年」(589)
 「受」

○『大智度論 巻六十二』「開皇十三年」(593)
 「受」「帝」「當」「憂」「常」

○『大方等大集経 巻第廿』「大隋開皇十五年」(595)
 「宀/之」 ※「宀」の下に「之」。

○「美人董氏墓誌」「開皇十七年」(597)
 「宣」「婉」

○「龍山公墓誌」「開皇二十年」(600)
 「帝」「字」「※旁/衣」「官」「宗」「家」 ※「旁」の「方」を「衣」とする字。

○『大般涅槃経 巻第十七』「仁寿三年」(603)
 「當」

 以上の隋代史料に集中して「撥型」が見られましたが、中には判断に迷う字形や、明らかに「撥型」とは異なる字形が混在しているケースもあります。
 他方、大業年間以降(605年~)になると「撥型」が見えなくなり、下記の例のように「押型」など他の筆法に変化しています。これも限定された史料による判断ですから、隋代の一般的字形変遷と断定できませんが、不思議な傾向です。

●『大般涅槃経 巻第卅七』「大業四年」(608)
 「蜜」「受」「割」

●『賢劫経 巻第一』「大業六年」(610)
 「宿」「常」「安」「諦」「學」「當」「家」


第2100話 2020/03/04

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(2)

 鬼室集斯墓碑碑文の「室」の筆跡が古代に遡る可能性があるとの胡口康夫さんの指摘に基づき国内の古代史料を調査したところ、先に紹介したように法隆寺釈迦三尊像光背銘や『法華義疏』のように、九州王朝系史料に「撥(はね)型」が認められました。このことは九州王朝の時代の七世紀ではこの書体が流行だったのではないでしょうか。
 特に『法華義疏』冒頭の「上宮王」という署名の「宮」がこの「撥型」であることは、九州王朝の上宮王(多利思北孤か)自身がこの筆法を採用していたことを示します。更に、法隆寺釈迦三尊像光背銘も「上宮法皇」(多利思北孤)のためのものですから、「撥型」が当時の九州王朝公認の筆法と考えてよいと思われます。
 それではこの筆法はいつ頃どこから伝わったのでしょうか。そこで、『書道全集』の「第五巻 中国・六朝」「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」(平凡社、昭和30年)を調査しました。(つづく)


第2099話 2020/03/03

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)

 「洛中洛外日記」2097話(2020/03/01)「三十年ぶりの鬼室神社訪問(8)」において、鬼室集斯墓碑碑文の「室」の筆跡が古代に遡る可能性があるとの胡口康夫さんの新説を紹介しました。それは同碑文の「室」の字のウ冠二画目が、筆を勢いよく抜き、先端が細く尖った「撥(はね)型」〔ノ〕となっており、この筆跡は古代に見られるというものでした。
 確かにウ冠の2画目やワ冠の一画目が左下へ鋭く撥ねている筆跡は珍しく、古代史料でもそれほど多くはありません。八世紀以降や中近世になれば「押(おし)型」〔丨〕が普通となり、「撥型」は更に珍しい筆跡となっています。そこで、古代の書跡が収録された『書道全集9』(平凡社、昭和46年版)を改めて精査したところ、収録された古代書跡中に、次の「撥型」の字がありましたので紹介します。

○法隆寺釈迦三尊像光背銘(国宝、623年)
 「上宮法皇」「三寶」「當」「勞」
 下に撥ねています。

○『法華義疏』(御物)
 「寶」「窮」 ※「宮」
 左下へ鋭く短く撥ねています。
※冒頭署名の「上宮王」の「宮」は同書では判別できませんが、ネット上の写真や他の本では左下へ撥ねています。

○『千手千眼陀羅尼経』(国宝)「天平十三年」(741年)
 「密」「受」
 左下へ鋭く短く撥ねています。


第2098話 2020/03/02

沖ノ島出土の

カットグラス碗片(国宝)はペルシャ製

 ウェブニュース(本稿末に転載)によれば、沖ノ島(福岡県宗像市)から出土していたカットグラス碗片(国宝)が5~7世紀の古代イラク(ペルシャ)製であることが判明したとのことです。沖ノ島は九州王朝の海上祭祀の聖地と考えられ、出土したカットグラス片は遙々ペルシャから九州王朝にもたらされたものと思われます。

 このニュースに接して、わたしの脳裏をよぎったのが、『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集、古田史学の会編・明石書店、2019年)に掲載された正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)の論稿「太宰府に来たペルシアの姫」でした。同論稿によれば、『日本書紀』孝徳紀・斉明紀・天武紀に記された「舎衛女」はペルシアの姫であり、九州王朝の都、太宰府に来たとされています。今回、明らかにされたペルシャ製のカットグラス碗片こそ、このときの九州王朝とペルシャとの交流を示す物証ではないでしょうか。

 正木説と沖ノ島のカットグラス碗片が結びつき、古代のロマンが歴史の真実として蘇ってきたようです。

【共同通信社 2020/03/01 19:42】
ガラス製品、出自は古代イラク 福岡・沖ノ島の出土品
福岡県宗像市の宗像大社は1日、世界文化遺産に登録されている沖ノ島から出土した国宝のガラス製品について、調査の結果、5~7世紀のメソポタミア(現在のイラク)由来と分かったと発表した。ササン朝ペルシャからシルクロードを通って運ばれ、大規模な祭祀の際にささげられたとみられる。今秋に大社で一般公開される予定。

 沖ノ島は玄界灘に浮かぶ孤島で、大社が所有し神職以外の上陸が禁じられている。ガラス製品は、淡い緑色の「カットグラス碗片」(直径5.6センチ、厚さ3~5ミリ)と、深緑色の「切子玉」(長さ3.1~3.7センチ)で、1954~55年に見つかった。

【西日本新聞 2020/3/2 6:00】
国宝の切子玉 メソポタミア伝来 福岡・沖ノ島出土
福岡県宗像市の宗像大社は1日、同市の世界文化遺産「沖ノ島」から出土した国宝のガラス製品についてササン朝(226~651年)のメソポタミア(現在のイラク)伝来とする化学組成の分析結果を発表した。これまで産地、制作時期ともに推測の域を出なかったが、初めて科学的に裏付けられた。

 東京理科大、岡山市立オリエント美術館との共同研究。組成元素を調べる蛍光エックス線分析で、円形の突起が切り出された容器片「カットグラス碗(わん)片」と細長い形状で中心に糸を通す穴が開く「ガラス製切子玉」を調査した。古代ガラスはローマ帝国でも作られたが、結果はササン朝の「ササンガラス」と組成が類似。碗片は5~7世紀、切子玉は3~7世紀製であるとした。

 碗片と切子玉は沖ノ島8号遺跡(5世紀後半~7世紀)から出土。碗片は類似品などからササン朝由来とされてきたが、切子玉は一切不明だった。宗像大社の福嶋真貴子学芸員は「8号遺跡の年代と大差ない。できあがって間もなく運ばれた」とみる。今後は伝来ルート、祭祀(さいし)上の意味などの研究につながることを期待する。早稲田大の田中史生教授(日本古代史)は「ユーラシアのガラス交易の始点、終点がくっきりしてきた。日本も含めたシルクロードの実態を考える上でも重要な結果だ」と評価する。(小川祥平))

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo