第1855話 2019/03/10

「実証主義」から「論理実証主義」へ(5)

 加藤健さんの〝実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠〟という感想や、茂山憲史さんの〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証される〟という学問の方法について、古田先生が扱われた具体的事例で説明します。
 名著『失われた九州王朝』において、古田先生は『旧唐書』倭国伝・日本国伝について一節(第四章Ⅱ 二つの王朝)を設けられ、倭国が九州王朝、日本国が大和朝廷であることを論証されています。古田学派の論者の中には、この倭国伝と日本国伝併記を史料根拠として、多元史観・九州王朝が実証されたとする理解があります。この理解は必ずしも誤りではありませんが、同書を読んでわかるように、古田先生は両伝の史料批判と論証を繰り返されています。特に倭国伝に記された倭国が大和朝廷ではないことを、『日本書紀』との対比により徹底して行われています。それが〝倭国伝・日本国伝併記を史料根拠として多元史観・九州王朝説を実証できた〟とするような単純な学問の方法ではないことは明らかです。
 それではなぜ古田先生はこれほど論証を重ねられたのでしょうか。それは一元史観による通説への反証のためです。通説では『旧唐書』の倭国伝・日本国伝併記を『旧唐書』編者の誤りとし、倭国も日本国も大和朝廷のことであり、同一王朝による倭国から日本国への国名変更が、別国のことと間違って併記されたと見なしています。もちろん、通説も史料根拠と論証により学問的仮説として成立しています。およそ次のようなものです。箇条書きにします。

①国内史料(記紀、風土記、他)によれば、倭国も日本国も大和朝廷であり、史料根拠が確かである。別国とする国内史料はない。
②7世紀末頃の藤原宮出土木簡に「倭国添布評」とあり、当地が倭国と称されていたことが実証されている。
③『大宝律令』などにより大和朝廷は遅くとも8世紀初頭には日本国を名乗っており、大和朝廷が倭国から日本国へと国名変更していたことは明確である。
④中国史書(正史)の夷蛮伝には地名や人名などの間違いが散見されており、『旧唐書』も同様に倭国と日本国を別国と誤ったと考えても問題ない。
⑤『新唐書』では日本国伝のみに訂正されており、中国でも『旧唐書』の二国併記が誤りであったと認識されていた。

 一元史観論者との論争(他流試合)の経験がない古田学派の方は、こうした通説成立の根拠や論理構造をご存じないことが多いようです。他方、古田先生は通説とその根拠や論理を明確に認識されていたからこそ、『旧唐書』の倭国が大和朝廷ではないことを徹底的に論証されたのです。こうした古田先生の学問の方法こそ、加藤さんや茂山さんが指摘された方法、すなわち〝実証を実証たらしめるための精緻な論証〟であり、〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度を保証〟したものなのです。この古田先生の学問の方法と、それを表した村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」の持つ意味を古田学派の皆さんには正しく理解していただきたいのです。(つづく)


第1854話 2019/03/09

「実証主義」から「論理実証主義」へ(4)

 「洛中洛外日記」1843話の〝「実証主義」から「論理実証主義」へ(3)〟を読まれた読者の加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)から次のような感想をいただきました。とても貴重なご指摘でもあり、紹介させていただきます。

【加藤さんの感想】
①西洋哲学における実証主義の定義を明確に知っておきたいと思いました。
②実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠ですから、村岡先生の言葉は当たり前のことを言っているようにしか思えず、そんなに問題にされること自体不思議な気がします。
 例えば、日本書紀の記事を実証として使えるようにするために,古田先生を始め学派の人達(貴殿も)がどれ程の論証を尽くしたか、を考えればすぐ分かることのように思えるのですが?

 以上の二つの「感想」をいただきました。特に②のご意見は1843話の下記の部分についてのものと思われ、わたしも全く同感です。

 〝他方、古田学派の論者の中には、「史料事実に基づく実証」こそが証明方法の基本であり、従って「論証よりも実証が重要」として、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」を否定しようとされる方もあります。学問研究には「史料事実に基づく実証」もあれば、「史料事実に基づく論証」もあります。その上で、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉(立場)が成立しています。〟

 また、哲学を専攻され、「古田史学の会」関西例会でアウグスト・ベークのフィロロギーについて連続講義された茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)の論稿「『実証』と『論証』について」(『古田史学会報』147号、2018.8.13)でも、加藤さんの感想と同様の趣旨が述べられています。たとえば論文末尾の次のような結論です。

 〝ベークのフィロロギーでは、「論証」の要素に「実証」の根拠が含まれ、「実証」の構築に「論証」の助けが支えとなっていた、とわたしは理解しています。〟
 〝「事実」というものはただその「事実」を表現しているだけで、それ以上のことは語りません。「事実」についての「論理展開」があってはじめて、仮説的な真実が発見され、それが「実証」として働き、さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証されるという構造になっているのです。これこそが、村岡先生や古田先生が目指していたフィロロギーという学問の方法なのです。〟

 加藤さんの〝実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠〟という感想や、茂山さんの〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証される〟という指摘はことさら難解な見解ではなく、学問や研究を行う上で当然で普通のことと考えていましたので、わたしが古田先生から教えていただいた、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉を紹介し、その後、古田先生が亡くなられたとたんに、突然のように始まった批判に、「何を言っておられるのだろう」と途惑ったものでした。ところが、いくら説明しても批判される方が現れる状況を見て、古田学派内で古田先生の学問の方法を誤解されている、あるいは不正確に理解されている方が少なくないことに気づき、「洛中洛外日記」でも繰り返し執筆することにしたわけです。そうした中で、茂山さんや加藤さんのような方も現れ、意を強くした次第です。
 次回では、加藤さんや茂山さんが述べられていることを、古田先生が扱われた具体的事例で説明したいと思います。また、加藤さんの感想①にある実証主義の定義の説明は、20世紀初頭にヨーロッパで行われた実証主義から論理実証主義(論理経験主義)、そして反証主義への変遷を解説する際に行いたいと思います。わたし自身ももう少し勉強が必要ですので(特に反証主義における「反証性の有無」についての理解が不十分なため)。(つづく)


第1853話 2019/03/09

久留米大学公開講座で講演します

 昨日、2019年度久留米大学公開講座のパンフレットが届きました。「古田史学の会」からは、わたしと正木裕さん(事務局長)が講演します。日時とテーマは次の通りです。参加お申し込み等の詳細は同大学のホームページをご覧ください(受講料:全4回合計2,500円)。

《九州王朝論 2019》いずれも14:30〜16:00です。
7月 7日(日) 『日本書紀』に盗用された九州の神話 正木 裕さん
7月14日(日) 筑紫の姫たちの伝説《倭国古伝》   古賀達也

 3月末に発行予定の『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集、古田史学の会編・明石書店)の出版宣伝も兼ねて、当地の伝承を中心に九州王朝の歴史を解説します。皆様のご参加をお願いします。
 わたしは講演当日(7/14)久留米泊の予定ですので、ご希望の方がおられれば、講演後に久留米市内で夕食をご一緒したいと思います。ご希望の方は、当日、わたしにお声をかけてください。

○申し込み・問い合わせ先
 久留米大学御井学舎事務部
 地域連携センター
 TEL/FAX 0942-43-4413
E-mailアドレス koukai@kurume-u.ac.jp

○会場 久留米大学御井キャンパス(福岡県久留米市御井町)
    御井本館14A教室


第1852話 2019/03/08

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(4)

 小笹さんは論稿末尾に「学問と政治」という一節を置き、次のような注目すべき〝警鐘〟を打ち鳴らしておられます。同論稿中、わたしが最も強く共鳴した部分でした。

 〝過日も多元の会員のかたから「(古代史の)通説など相手にするにたりない」と、私には‘鬼畜通説’‘敵性学問’と言わんばかりにも聞こえる言葉を聞いた。だが古田史学に傾倒する人の誰もが知るように、現実に一般社会に相手にされていないのはむしろ古田史学のほうである。この逆転の原因は何であろうか。〟
 〝刷り込みではない、本来的な意味での学問への取り組みかたは任意であり、とくに多元の会のように、会員の任意によって成立している集合体の各個人の取り組みかたは、極端にいえば‘偏屈老人の単なる居場所’であってもよいし、‘純粋に古代に真実を求める人の心地よい空間’であってもよい。これらの人々にとって通説が‘相手にするにたりないもの’であることも、私にはわかる。しかし‘相手にするにたりない’というその理由が、‘通説は、それを主張している側も、偽装歴史学、偽装学問であることを、百も承知で主張している’ということだとしても、ただ‘相手にするにたりない’ですませるだろうか〟

 このように鋭く問題提起されたあと、次のような衝撃的な告白と警鐘へと小笹稿は続きます。

 〝端的に言えば、私は「古代史がこの国の未来に影響がないのであれば、邪馬台国が近畿であろうと九州であろうと、どうでもよい。九州王朝論が正しかろうと、間違っていようと、どうでもよい。」と考える人間である。その立場から言えば、通説が社会を席巻している以上は、これを単に‘相手にするにたりない’とするだけでは絶対にすませられないのである。相手に、相手にされていない側が、相手を、相手にするにたりないと呼ばわる場合、そこには逃避の臭いが漂うことは、留意する必要があるだろう。〟

 「そこには逃避の臭いが漂う」という小笹さんの指摘(警鐘)は痛烈です。そして、この〝救いようのない現実〟にあって、氏は次のように未来の青年たちへの希望を滲ませておられます。

 〝古田史学は真実を求める。しかし通説に入ってゆく若者も、本来は熱意と能力と良心を持ち、真実を求めて入って行きながら、‘爾後その世界で身を立て、生活を支えねばならない’という若者独特の事情ゆえに、徐々にでも‘真実を求める青年の志’に決別してゆくのである。もしこの若者たちを世俗の呪縛から解放することができれば、歴史学に取り組む彼らの総合力は、古田史学の会や多元の会の、ささやかな老人パワーを圧倒して真実を明らかにするだろう。
 このことを私は、会員各自の取り組みが自由であることとは別に、共通の認識として共有することを切に願う。すくなくとも私の目標はここにある。〟

 ここで示された小笹さんの目標は、わたしの、そして「古田史学の会」の目標そのもそのです。
 小笹論稿最末尾に「(つづく)」とありますが、その続編は現在に至っても『多元』には掲載されていません。安藤会長におたずねすると、続稿は届いていないとのこと。わたしは続編を読みたいと強く願っています。


第1851話 2019/03/07

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(3)

 小笹豊さんは「九州見聞考」において、九州考古学界の重鎮、鏡山猛氏について次のような指摘をされています。

 〝(前略)鏡山氏は、軍役にも就いた経験もある、考古学・古代史学に、通説以外の見解がなかった(古田史学が登場する以前)時代、世代の考古学者で、当然のことながら氏の頭に九州王朝論はなく、通説だけが氏の頭に描かれた古代史解析の基礎となったパラダイムである。それは氏個人の責任ではないが、このことが氏にとって、観世音寺を、当否は別として、法隆寺西院伽藍の移築もととする米田氏のような自由な発想と比べて‘枷’になっていることと、そのパラダイムが戦前の皇国史観の延長線上のものであるという、学問上の本質的な問題点を抱えていること自体は否めない。〟

 小笹さんは続けて次のようにも述べられています。

 〝考古・古代史学は‘昔’を解析する学問であるが、実際に解析・解釈を担当しているのは、現代を含め、対象の年代から見れば後代の人々であって、その解析・解釈にはそれぞれの時代的・社会的背景が作用していることであろう。〟

 こうした小笹さんのご指摘は重要なもので、わたしも同様の視点で、常々、発言もしてきました。というのも、古田学派の研究者や古田ファンの少なからぬ方々が、考古学者による遺跡や出土物の説明を一元史観に基づいているとして批判・非難されることがあるのですが、わたしたち古田学派の人間が思っているほど考古学者は古田史学・九州王朝説を正しく十分に理解・認識されているわけではなく、従って遺跡・遺物に対する解析・解釈は通説(近畿天皇家一元史観)に基づかざるを得ず、またそうすることが彼らにとっての〝学界の基本ルール〟でもあるのです。
 この〝学界の基本ルール〟を墨守する考古学者を一方的に責めるのは酷というものであり、むしろ日本社会において〝学界の基本ルール〟を変えることができない、対等に渡り合えない、圧倒的な少数意見(社会的非力)という状況を未だ変えることができないわたしたち古田学派の〝責任(歴史的使命)〟でもあるのです。小笹論稿にはこうした警鐘が通奏低音の如く鳴り響いており、わたし自身にも耳鳴りのように止むことなく鳴り続けているのです。(つづく)


第1850話 2019/03/06

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(2)

 「多元的古代研究会」機関紙『多元』No.115(2013年5月)に掲載された小笹豊さん(横浜市)の論稿「九州見聞考」は次のような書き出しで始まります。

 〝二〇〇九年に社会人生活を一応卒業した私は、翌二〇一〇年、九州・福岡の西南学院大学・国際文化学科に学士入学し、考古学を専門とする高倉洋彰教授(九州大学出身、文学博士、高倉は旧姓で戸籍上の姓は石田さん)のゼミに所属した。〟

 ちょうど「洛中洛外日記」1841話で高倉さん(西南学院大学名誉教授)の論文「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱 ―元明天皇詔の検討―」について論じていたこともあり、この小笹稿の書き出しに誘われて全文を読み直すことになったのです。小笹稿では高倉さんについて次のように紹介されています。

 〝高倉教授自身の弁によれば、九州大学を出たあと、当初は福岡県に勤務する考古学者であったご本人は、縁あって観世音寺に婿養子として入り、ときを経て住職になった。
 高倉氏の九大時代の恩師が観世音寺の発掘調査を担当した鏡山猛氏なので、この際のキューピットは鏡山氏だったのではないか、つまり鏡山氏は高倉氏にとって単なる学問上の恩師ではなく、観世音寺との縁を取り持ち、高倉氏の人生に大きな転機をもたらした恩人なのではないかと、私は勝手に推察している。〟

 この記事により高倉氏が観世音寺のご住職であり、鏡山猛氏のお弟子さんだったことをわたしは知りました。鏡山氏といえば太宰府条坊復元案を提起された九州考古学界の重鎮です。わたしも、当初、鏡山説に基づいた太宰府条坊研究や仮説を提起していましたので、鏡山氏は多くの影響を受けた先学のお一人です。(つづく)


第1849話 2019/03/04

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(1)

 「古田史学の会」の論集『古代に真実を求めて』22集が今月末にも発行が予定されています。特集タイトルは「倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史」です。どのような表紙になるのか、全体としての出来映えはどうかと、今から楽しみにしています。
 おかげさまで、特集タイトルを書名とし、コンセプトを明確にした論集作りを始めた最初の1冊『盗まれた「聖徳太子」伝承』(18集)は比較的早く初刷りが完売し、増刷できました。一昨年出版した『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(20集)も、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)からの報告によれば出版社(明石書店)の在庫も底をつき、もうすぐ増刷となりそうです。服部さんを始め、編集部の方々、そして執筆者・関係者のご尽力の賜です。
 論文集ですから掲載論文の学問的レベルが最も大切ですが、それでも売れなければ世に古田史学を広め、後世に伝えることができません。そうした「古田史学の会」の目的のためにも、訴求力を持ったタイトルの選定も重要です。結果として増刷になれば、そのタイトルは「合格」ということにもなりますので、「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」も「合格」をいただけたようです。わたしは「古田史学の会」の代表ですから、論集の学問的レベルと販売部数(マーケットでの高評価獲得。会の財政事情改善)の両方に対して責任がありますので、まずは一安心です。
 今は2020年発行の『古代に真実を求めて』23集の特集について検討を進めています。来年がちょうど『日本書紀』編纂千三百年になりますから、『日本書紀』に関わるテーマが特集の有力候補として上がっています。そこで『日本書紀』に関わる既発表の研究論文の精査を連日行っています。その対象は『古田史学会報』だけではなく、広く古田学派の論文にも目を通しています。
 その作業を進める中で、驚きの論稿を「発見」しました。正しくは「再発見」のはずなのですか、当初、読んだときにはその論文の意義にわたしは気づけなかったようで、内容も完全に失念していました。その論稿とは「多元的古代研究会」機関紙『多元』No.115(2013年5月)に掲載された小笹豊さん(横浜市)の「九州見聞考」です。(つづく)


第1848話 2019/03/03

「実証主義」から「論理実証主義」へ(3)

昨日届いた「多元的古代研究会」の機関紙『多元』No.150に、安藤哲朗会長による連載記事「怠惰な読書日記」に興味深い調査結果が報告されていました。古田先生の『「邪馬台国」はなかった』から「論証」と「実証」という二つの言葉の使用例を検索され、「論証」が21例、「実証」が1例であったとのこと。「実証」が1例しかないことにはちょっと驚きましたが、「論証は学問の命」と先生は言っておられましたので、「論証」という言葉が多用されていることはよく理解できます。それにしても、大変な検索作業を行われた安藤さんに拍手を贈りたいと思います。そこで、次のようなお礼メールを送りました。

【メールから転載】
多元的古代研究会
安藤様 和田様
 『多元』No.150 届きました。ありがとうございます。
 安藤さんの「論証」と「実証」の調査結果を興味深く拝読しました。わたしも似たような印象は持っていましたが、数えたことはありませんでした。
 哲学では実証主義は否定され、反証主義へと移りつつあるようですが、反証主義も反証可能性の有無の判断が簡単ではないため、未だ論争が続いているようです。
 他方、古田先生は「実証精神」「実証的」という言葉をポジティブな意味で使用されており、哲学での定義とは異なるようです。この点、簡単ではありませんが、勉強を続けたいと思います。
 また、「学問の方法」や「古田史学」の定義はややもすると抽象論となりかねず、用心して行わないと学問的に有意義なものにはならないように思います。この点、古田先生のように具体的に論じていきたいと考えています。(以下、略)
【転載終わり】

 20世紀前半にヨーロッパで行われた哲学における「実証主義」批判と「論理実証主義(論理経験主義)」の登場については本シリーズで紹介してきましたが、その「論理実証主義」も真理探究における限界が指摘され、それを乗り越える試みとしてカール・ポパーにより「反証主義」が提案されました。
 ところが古田先生は必ずしもこうした西洋哲学の定義で「実証主義」を使用されている様にも思われません。わたしの知る限り、古田先生は「実証精神」「実証的」という用語をポジティブな文脈で使用されることが多いのです。
 他方、古田学派の論者の中には、「史料事実に基づく実証」こそが証明方法の基本であり、従って「論証よりも実証が重要」として、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」を否定しようとされる方もあります。学問研究には「史料事実に基づく実証」もあれば、「史料事実に基づく論証」もあります。その上で、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉(立場)が成立しています。また、「学問は実証よりも論証を重んずる」とは「実証を軽視する」という意味ではないと、わたしは繰り返し注意を促しているのですが、なかなか理解していただけないようです。(つづく)

《ウィキペディアでの解説(抜粋)》
○反証主義(英:Falsificationism)とは、知識を選別するための、多数ある手続きのうちのひとつ。知識に対する形而上学的な立場のうちのひとつ。
 具体的には、(1)ある理論・仮説が科学的であるか否かの基準として反証可能性を選択した上で、(2)反証可能性を持つ仮説のみが科学的な仮説であり、かつ、(3)厳しい反証テストを耐え抜いた仮説ほど信頼性(強度)が高い、とみなす考え方。


第1847話 2019/03/03

2月の「洛中洛外日記【号外】」

 2月に執筆した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。2月は実証主義や村岡典嗣先生の学問論、そして『大宰府の研究』の精査などに集中して取り組みました。そのため、古代史の研究そのものはあまり進みませんでした。そろそろ新たな仮説の検討に入りたいと考えています。
 「洛中洛外日記【号外】」配信を希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《2月の「洛中洛外日記【号外】」タイトル》
2019/02/08 太宰府都城研究を加速
2019/02/10 『倭国古伝』(「古代に真実を求めて」22集)再校
2019/02/23 水野雄司著『村岡典嗣』を読む
2019/02/27 直木孝次郎先生の想い出


第1846話 2019/02/28

「わが説にななづみそ」(『玉勝間』本居宣長)

 『玉勝間』の「師の説になづまざる事」の一節は次のような書き出しで始まっています。

 「おのれ古典を説(と)くに、師の説と違(たが)えること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふことも多かるを、いとあるまじきことゝ思ふ人多かめれども、これすなはちわが師の心にて、常に教へられしは、後に良き考への出来たらんには、必ずしも師の説に違ふとて、なはゞかりそとなむ、教へられし。こはいと尊き教へにて、わが師の、世に優れ給へる一つ也。」(『玉勝間』岩波文庫、上巻92頁)
 ※原文の平仮名を一部漢字に改めました。以下、同じ。(古賀)

 宣長は、古典の研究において、師(賀茂真淵・他)と異なる説になることが多いが、これはもっと良い説があれば師の説にこだわることはないという師の教えによるものであり、この教えこそ師が優れていることの一つであると述べています。こうした考えが、「師の説にななづみそ」の根拠となっているわけです。ところが宣長は、この考えを更に一歩押し進めて、次節の「わが教え子に戒(いまし)めおくやう」で次のように記しています。その全文を紹介します。

 「吾に従ひて物学ばむともがらも、わが後に、又良き考へのいで来たらむには、必ずわが説になゝづみそ。わが悪しき故(ゆえ)を言ひて、良き考へを拡めよ。全ておのが人を教ふるは、道を明らかにせむぞ、吾を用ふるには有ける。道を思はで、いたづらにわれを尊まんは、わが心にあらざるぞかし。」(『玉勝間』岩波文庫、上巻93頁)

 学問研究において良い説があるのであれば、宣長は自らが師の説になづまないだけではなく、わたしの説にもなづむなと弟子らに述べているのです。そして、学問(道)のことを思わずに、いたずらに師(宣長)を尊ぶのはわたしの望むところではないとまで言い切っています。実に公明正大であり、自説よりも学問と真実探求の方が大切とする、宣長の偉大さがうかがわれる文章です。この本居宣長の言葉を〝学問の金言〟として伝えてこられた村岡先生と古田先生の真摯な姿勢を、わたしたち古田学派の研究者は正しく受け継ごうではありませんか。
 なお、引用した岩波文庫の『玉勝間』は1934年の発行で、校訂者は村岡典嗣先生です。冒頭の解説文も村岡先生の手になるもので、「昭和九年五月十三日」の日付が記されています。


第1845話 2019/02/27

「そしらむ人はそしりてよ」(『玉勝間』本居宣長)

 古田先生の恩師、村岡典嗣先生が本居宣長研究で名声を博されたことは有名です。名著『本居宣長』を何と二十代のとき(明治44年[1911]、27歳)、しかも仕事(『日独新報』記者)の傍ら困窮生活の中で執筆、上梓されています。そのまっすぐな生き様は古田先生の人生を見ているかのようです。見事な師弟と言わざるを得ません。お二人の先生に学ぶべく、「洛中洛外日記」で本居宣長の『玉勝間』の一節「そしらむ人はそしりてよ」を今回のタイトルに選びました。
 村岡先生が本居宣長の学問の姿勢に深く共感されていた痕跡は、各著作に残されています。また、古田先生が学問の金言としてわたしたちに紹介されていた本居宣長の言葉「師の説にななづみそ」は、本居宣長の『玉勝間』が出典ですが、この言葉は村岡先生も大切にされていたものです。この思想を古田先生は村岡先生から受け継がれたものと思われます。
 『玉勝間』には「師の説になづまざる事」という一節があり、次のような言葉が記されています。

 「そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし」(『玉勝間』岩波文庫、上巻93頁)

 宣長が師の説とは異なる説を述べたことに対して、師の教えに背くものとして他の弟子から非難されていたようです。そのような声に対して「そはせんかたなし」として、他人からの非難を恐れて真実追究の〝道を曲げ、古(いにしえ)の意を曲げる〟ことが師の心に適うものであろうかと宣長は反論しています。
 畏(おそ)れながら、わたしにはこの宣長の言葉(気持ち)は痛いほどよくわかります。昨年11月に開催された「八王子セミナー」の席上で、ある発表者から、古賀は古田説と異なる説(前期難波宮九州王朝副都説)を発表しているとして激しく非難されたことがありました。わたしの説がどのような根拠と理由により間違っているのかという学問的批判であれば大歓迎なのですが、「古田先生の説とは異なる」という理由での非難でした。このときのわたしの心境がまさに「そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし」だったのです。
 他方、そうした非難とは全く異なり、古田先生の〝学問の原点〟の一つとして本居宣長の「師の説にななづみそ」があると発表された方もありました。どちらの姿勢・発言が古田先生の学問を正しく受け継いでいるのかは言うまでもないことでしょう。(つづく)


第1844話 2019/02/26

紀元前2世紀の硯(すずり)出土の論理

 福岡県久留米市の犬塚幹夫さんから吉報が届きました。紀元前2世紀頃の「国産の硯」が糸島市と唐津市から出土していたという新聞記事(2019.02.20付)の切り抜きが送られてきたのです。朝日新聞・毎日新聞・西日本新聞の福岡版です。記事量は毎日新聞が一番多かったのですが、学問的には西日本新聞の解説が最も優れていました。同記事のWEB版を本稿末尾に転載しましたので、ご覧ください。
 今回の出土遺跡は福岡県糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と佐賀県唐津市の中原(なかばる)遺跡で、弥生中期中頃(紀元前100年頃)と編年されています。今回の新聞報道を受けて、〝やはり弥生中期まで遡ったか〟と、わたしは驚きと同時に論理的納得性を感じました。それは「天孫降臨」の時期との関係で、重要な問題を惹起させるものだからです。
 古田説によると天孫降臨は弥生時代の前期末から中期初頭とされています。その理由はこの時期に西日本の遺跡から金属器が出土し始めることから、日本列島に金属器で武装した集団が侵入した痕跡と見なし、それを記紀に見える「天孫降臨」事件のことと理解されたことによります。ただし、弥生時代の編年がより古くなる学界の動向もあり、その実年代は再検討が必要とされました。
 今回の硯の時代が弥生中期中頃と編年されていることから、それは早ければ「天孫降臨」の50年後、遅くても100年後頃と推定できます。そうであれば、金属器で武装した天孫族(倭人)はその頃から文字(漢字)を使用していた可能性が高まったことになります。もちろん彼らは前漢鏡に記された文字の意味も理解していたであろうし、自らも漢字漢文を初歩的ではあれ受容し、自らの名前や歴史を漢字漢文で記そうとしたであろうことも、当然の論理の帰結と思われるのです。
 この漢字を受容していた天孫族が、「天孫降臨神話」に登場する神々の名前を漢字表記していたとなると、記紀に見える神々の漢字表記の中には「天孫降臨」時代に成立していたものがあるのではないでしょうか。少なくとも、そうした可能性をも意識した文献史学の研究方法の確立が必要となりました。すなわち、今回の硯の発見は、記紀研究等において、そうした学問的配慮を要求する時代の幕開けを告げたのです。

【西日本新聞 WEB版】2019年02月20日 06時00分
弥生中期に硯製造か
糸島、唐津の遺跡 国学院大の柳田氏発表「国内最古級」

 弥生時代中期中ごろに国内で板状硯(すずり)を製造した痕跡を福岡県糸島市と佐賀県唐津市の遺跡の遺物から確認した、と国学院大の柳田康雄客員教授が19日発表した。柳田教授によると弥生時代中期中ごろは紀元前100年ごろで、国内最古級。中国で同様の硯が現れる時期と重なり、世界でも「最古級」の国産板状硯の存在は、日本での文字文化の受容がかなり早かったことを示唆し、弥生時代像を大きく変える可能性もある。
 硯は、中国では自然石を利用した石硯が紀元前200年ごろの前漢初期に出現したとされる。長方形の板状硯は石を薄くはいで形を整え、木の板にはめ込んで使用した。近年、北部九州を中心に弥生時代から古墳時代初頭にかけての硯が相次いで確認されている。
 硯の製造が判明したのは、糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と唐津市の中原(なかばる)遺跡。潤地頭給遺跡からは工具とみられる石鋸(いしのこ)2片と、厚さ0.6センチ、長さ4.1センチ以上、幅3.6センチ以上の硯未完成品の一部が出土。中原遺跡では厚さ0.7センチ、長さ19.2センチ、幅7,2センチ以上の大型硯未完成品をはじめ、小型硯の未完成品、石鋸1片、墨をするときに使う研石の未完成品があった。いずれも柳田教授が過去の出土品の中から見つけた。
 従来、前漢が朝鮮半島北部に楽浪郡を設置(紀元前108年)したことが朝鮮半島や日本に文字文化が広がるきっかけとなったと考えられてきた。今回の発表で、硯の出現が楽浪郡設置よりも古くなる可能性もあるが、柳田教授は楽浪郡を経由せずに文化が日本に波及した可能性も想定する。
 九州大の溝口孝司教授(考古学)は、硯の製造時期について「もう少し証拠を固める必要がある」としながらも、硯の確認が相次ぐ状況を踏まえ「柳田氏の調査は尊重すべき情報。今後、竹簡や硯を置いた台など、硯以外の文字関連遺物がないか、慎重に調べる必要がある」と話す。柳田教授は24日に奈良県である研究会で、今回の結果を報告する。
=2019/02/20付 西日本新聞朝刊=